MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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社会人野球の記録-都市対抗本大会出場は85年前。苦戦の中活路を見いだそうとする青森県について。

 ここ数回の記事では「これまでまとめを書いていない県の調べ物進行状況」を記しています。

 今回は青森県。昨年、長年県社会人野球を支えてきた自衛隊青森、三菱製紙八戸の両チームが解散という憂き目に遭いました。その際に拙稿では1971年に社会人野球が復帰してからの光景を記してきましたが、深掘りすればそこで書いた何倍もの「足跡」が。何しろ山梨同様約100年の歴史がありますからね。膨大なものがあります。

 今回は「青森社会人野球“第1期”」を取り上げますが、図表を用意することができませんでした。“第2期”については下記図表で、2023年拙稿で掲示したものを一部編集して再掲しています。

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1 都市対抗参加黎明期-勃興と縮小

 

 

 大正時代には青森県でも野球熱がだいぶ湧き上がっていましたが、その熱意は都市対抗野球という新設された大会に“着地”。当初大学野球経験者に率いられたオール八戸が東北の舞台に立ちましたが、瞬く間に他の“三大都市”青森、弘前、更には五所川原

金木、野辺地といった地域のチームが参加し、賑わいを見せることになります。

 この中で強力なチーム体制を作ったのは青森林友。県内で有力な産業だった林業をバックに組織だったチーム作り、他チームの追随を許さないチーム力を身につけます。冷害などで地域発のチームが継続して活動するには困難を来たし、青森市内の官公署チーム(市役所、県庁、青森鉄道)は積極的な活動を見せますが、青森林友の強力さと反比例して活動休止を選択。県予選決勝戦ですら4回コールドになる実力差もあり、1930年代後半には県予選が開かれない状態に陥ります。

 

2 青森林友、夢の大舞台へ 都市対抗本大会出場/青森鉄道との延長17回の激闘

 

 こうして県内で確固たる力を得た青森林友は、東北での戦いにおいても徐々に力量を発揮。北東北地域の有力選手がこぞって林友に集い、成田友三郎、小田野柏、福士勇といった選手は当時できたばかりの日本プロ野球にも進出。1930年代後半には代表決定戦にたびたび進出し、1939年にはとうとう東北各地域のライバルチームを退けて東北予選優勝、本大会出場という栄誉を勝ち取ります。本大会では社会人野球花形チーム「東京クラブ」の後継的チーム・藤倉電線の前に完封負けを喫しますが、そこまでの行動を含め、大きな足跡を刻んだということは間違いありません。

 この時期は大日本帝国が行っている戦時体制が強化されていましたが、そんな中で青森鉄道が都市対抗野球に復帰。1940年には現在に至るまでいまのむつ市から唯一の出場となる大湊特殊鋼が出場(予選リーグ2敗)、1941年の県予選代表決定戦では林友と青鉄の一騎討ちとなり延長17回大激戦の末1対0で青鉄が県王者の座を奪還しました。

 しかし戦争の影響は青森社会人野球にも及び、1989年の60回大会記念特集「球宴マップ」では戦死した人や青森空襲の犠牲になった人の様子も描かれていました。

 

3 戦後-野球熱は社会人野球につながらず…

 

 1945年戦争が終了し、青森にも平時の生活が戻ってきましたが、戦前多い時には10チーム近く参加していた青森県予選の様相が、八戸、弘前、青森の各地域からだいたい1チームが出場するのみ、に。当時のマスコミには「(要旨)戦後高まりを見せた野球熱は資材の高騰などもあり、費用のかからない軟式野球で発揮される傾向となった」とも書かれていました。社会人野球を運営する側の都合もあったのか、1947年都市対抗野球では参加希望チームから絞る格好に。

 そんな中でも生活を取り戻す世相に合わせて硬式社会人野球も復活の道を刻み、1950年から数年間北海道・東北地区の強豪が集まる大会を開催。46年には都市対抗東北予選準優勝した林友が優位な状況にいた状況も、時折青森ユニオン、青森県庁が覆す場面もありましたが、多くのチームは長年の活動継続には至ることができませんでした。

 1952年の都市対抗野球を伝える記事では県連盟登録チームのうち青森県庁、青森市役所、弘前オリオン、青森ユニオン、弘前公陽が財政難で出場事態する旨の記述がありました(他に三沢アスレチックスも在籍)。

 

4 「孤塁を守る」林友、とうとう力尽く。「青森社会人野球第一期」終焉。

 

 1955年には東北二次予選が青森開催ということで、▽青森高校OBで形成する「青森甲田クラブ」▽青森商業卒業生で形成する「青森商門クラブ」▽オール弘前の性質を持つ双葉クラブの3チームがエントリーし、県予選段階から賑わいを見せましたが、これらチームの挑戦も1~2年程度で幕を閉じ、昭和で言う30年代は青森林友が単独で東北に挑み続ける構図に。

 1963年、8年ぶりに青森で行われた東北二次予選では日通弘前チームも挑戦しますが、林友共々東北の強豪に緒戦敗退。公務職であるが故に選手採用がままならず(要は「公務員試験を受からなければ職につけない」)1965年5月、ついに解散することとなりました。

 5月20日に出された解散声明では「青森林友が孤塁を守ってる間に他に後続チームが誕生し、青森球界振興の機運も高まるであろうと内部的な隘路を打開しつつ強化改善に努めてまいりましたが、その期待も虚しく(中略)関係者一同慎重に協議を重ねた末、いたずらに伝統にすがりつき、かえってその光輝を汚すより、思い切って解散することが最善の方法であるという結論に到達しました」という悲痛な声明が出されました。

 十数年、ほぼ青森林友単独で戦わせてしまったことが、1971年復帰の際に三菱製紙八戸だけの登録はせずに、八戸市水道局を誘っての復活という選択をさせたものと思われます。

 

5 始まりは青森。“社会人野球の先輩”の記録を汲み、顕彰と足跡を記し残す。

 

 こうして、厳しい環境の中戦い続けてきた青森林友を中心とした青森県社会人野球。青森営林署の雑誌「林友」に青森林友野球部に関する記述が多くなされており、特に1951~52年に監督をしていた岩山高遠氏による丁寧な記録は、私の調べ物進行の大きな助けとなりました。

 この時期の青森社会人野球は青森林友が大きな地歩を築いたわけですが、林友以外にもその熱意をもって戦おうとしていた人の思いというのもあるわけで、そのあたりの空気というのも拾えればとも考えています。

 ここ数年進めていた「社会人野球調べもの」、それを起意させたのは、「青森社会人野球に空白期が存在していたのは何なんだろう」、という疑問から。気がつけば開始6年になり、多くの資料が揃いました。複数の“調査テーマ”を進めているが故に本格的な記述に至っていませんが、そこに進めるための「ダイジェスト的」な記述を1~2年内で書ければ、と目論んでいます。

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