2000年代半ば以降のオール江刺ビジターユニフォームは今回掲載写真のようなスタイルが続いていました。
東北連盟会長大会クラブ岩手県予選、オール江刺が優勝/参加6チーム判明。【2022社会人野球】
2000年代半ば以降のオール江刺ビジターユニフォームは今回掲載写真のようなスタイルが続いていました。
1.2022年9月8日。
きらやか銀行野球部の勇姿を確実にこの目に焼き付けておきたい―と、前の日からはほぼ徹夜になる状況になるのを承知で会場の石巻に向かった。「予定外」ありながら木曜の仕事終えたのは朝8時半。「試合の半分でも見られればいい」と思いながら石巻に向かい、11時近くに着いたときには七回裏TDKの攻撃中だった。
数ヵ月前に公的資金の投入が伝えられた時から“予感”はしたが、コロナ禍の影響が赤字として現れたと同時に、野球部の無期限休部が報じられた。大会一週間前に。
「リスク回避が〜」等となじるのは簡単だろうな。継続・存続すること〜野球部にしろ、融資にしろ〜をギリギリまで模索したんでしょうよ。その結果が、急転直下的な物事進行になったけど…俺は詰りたかない。
今日、きらやか銀行野球部や応援団はある力をギチギチに振り絞って、都市対抗野球本大会2勝のTDKに立ち向かった。後半を社会人野球日本代表も経験したエース投手を起用したものの、TDK攻撃陣が攻略。1―3で敗れ、最後の全国挑戦を終えました。
試合が終わった後、想いをボディランゲージにして表す様子があちこちに。TDKの佐藤監督がきら銀の村上監督を労っていた様子が印象的でした。
2.1952年からのあゆみ
きらやか銀行野球部…ひいては山形相互銀行→山形しあわせ銀行と続いてきた野球部は山形県の社会人野球の屋台骨を背負ったチームでした。創部当初は硬式以外の箇所で活動していたようですが、同年度限りで都市対抗野球出場経験のあるハッピーミシンが活動休止、酒田帝国石油は秋田県に移転(後に秋田勢初の都市対抗本大会出場)。酒田鉄興所もほぼ同時期に活動を止め、今間製作所は硬式野球挑戦数年数年で会社の存続危機に見舞われるなど、合併前の山形殖産銀行2年間も含めて、山形の企業チームは継続して活動することが自体が困難な状態が続きました。
昭和30年代半ばから硬式社会人野球に参戦した山形相互銀行(当時)も、1965年から2年間、また1972年から3年間活動休止。特に二度目の活動休止となった72年から74年は他に活動チームがなく、山形県の社会人野球に空白期をもたらしました。状況が整って1975年活動復帰。同年に加盟した日大山形OBや鶴商ク、同年から本格的に活動を始めた鶴岡ヤンガースとともに再起を歩み始め、80年代半ばには新庄球友クが再生、三川クラブや米沢中央ク、東海大山形クが新規創設するなど、山形社会人野球は一時期8チームと賑やかになった時期があります。下に活動チーム一覧を貼りますので拡大してご覧ください。
その後高校OBの2チーム、続いて米沢や三川ク→酒田が活動を止めるなど縮小傾向もありましたが、山形総合銀行→しあわせ銀行→きらやか銀行と続いた野球部は、山形県社会人野球の柱として、他県強豪に第一線で立ち向かいます。
そして2016年6月8日午後3時。
山形で行われた都市対抗野球2次予選大会で優勝し都市対抗野球本大会初出場。山形県勢としても66年ぶりの本大会進出を成し遂げたわけです。他県のいわゆる大企業と呼ばれるチームと違い、地方銀行が運営主体。企業の力や性格などを考えれば、硬式野球部を持ち続けるというのも簡単ではなかったと思います。
不穏な話というのは近年よく耳にしていました。そして、文頭で触れた状況。ほんと残念としか言えません。ヤフコメで 社会人野球の存在にまで幅を広げて「存在する価値なんかあるのか」といったきつい言葉がまき散らかされていましたが、地域の身近なところに全国トップレベルの野球と戦える存在があるということは、その地域で野球をする人たちの目標になり、“動力”になるもの。どうしてもしんどくて続けられないと言うのであれば活動停止も仕方がないとも思いますが、存在そのものを虚仮にされたくないという思いは持っています。
今日の試合、記事前半に書いた通りたった30分ほどの観戦時間でしたが、見届けることができた。そして「当たり前は、当たり前にあるわけではない」と、その時その時を一生懸命生きることが大事なんだということを、雄勝病院跡や大川小学校跡を回りながら強く思った次第です。
きらやか銀行野球部に関わった皆様。その場で戦い続けてくれてありがとう。そして山形県社会人野球がトップチームを失うという困難を越えて「身近なところで頑張り、目標にされる存在」を続けていけることを願うものです。
所用から帰宅し、来週水曜日までにブログ記事3本あげようと準備をし始めたら、こんなニュースが飛び込んできた。
「きらやか銀行野球部無期限休部」―。
二つの感情がこみ上げてきた。
ひとつは「やむを得ない」。しばらく前に公的融資の件が報じられた時に「この状態のまま野球部の活動が継続されるのは“周り”が許すまい」と。
もうひとつは「それでも、山形県の社会人野球を支える大きな柱のチームが舞台からいなくなることがさみしい」ということ。ことに2016年以来3度の都市対抗野球本大会出場は、山形の野球界に活気を及ぼした貴重なものがありました。
きらやか銀行野球部はこれまでに数度休部やクラブチーム化から復活。1965年からの2年間、1972年からの3年間は休部、2007年夏からの2年間はクラブチーム化して体制を縮小して活動…から、都度都度復活してきました。それだけに、今回も「困難を越えて戻ってきてほしい」という気持ちはあります。
そして、山形の社会人野球全体の活気。鶴岡、新庄のチームが長く活動し、今年に入って天童エンジェルズが社会人野球活動を終えたものの、片山商会という新チームが入って、私個人的には、以前関係者が述べていた「県内の五大都市―山形、鶴岡、酒田、米沢、新庄―にチームがあるようになれば活気づく」の発言を再び実現する状態に持っていければ(※)と思っていたところにこの一報が入ってきたのを残念に思います。
※→発言した81年は山形に3チーム(山形相互銀行、鶴岡クラブ、日大山形OB)。その後加盟チームが増え、一時は山形しあわせ銀行、鶴岡野球ク、日大山形OB、東海大山形OB、新庄球友ク、三川クラブ、米沢中央ク、新庄・ニューイーストの8チーム体制に。
色んな箇所で「縮小」が当たり前になり、その部分で達観の域にいる人も少なくありません。ただ、その流れで「場を失う」ことが当たり前だという空気にはさせたかないです。関わる皆様の取り組みに注目と期待をよせて、「社会人野球をする場、盛り上がれる場」が存在すること、そして8日から行われる日本選手権東北最終予選での全力プレーを望みます。
当初の記述で休部を廃部と間違って記載した部分がありました。お詫びを申し上げます