社会人野球に参画して30年になります。野球連盟の登録は1995年と2005年の2ヶ年だけで、あとは未登録のチームスタッフという扱いで関わっています。30年というのはやっぱりひと時代。この間社会人野球というか、スポーツの担い手が「一部の強力な支援者&会社なども含めた支援者で支える」から「地域の力を集めて支える」という形態も模索され、その形で作られたクラブチームも多くなっています。ただ、日本のスポーツではその形が全部が全部うまくいっているというわけではなく、社会人野球ではJリーグチームを意識した広域企業チームという形態が模索されましたが、フェズント岩手が2015年に10年間の活動を終了してからはこの形で設立しようというチームは現れていません。
突然なぜこういうことを思い出したかというと、バレーボールVリーグ・大分三好ヴァイセアドラー(以下「三好」)の活動休止のニュースに触れたから。三好博さんが経営する病院がバックアップにつき、日本のトップリーグで活動していたチームでしたが、その三好さんが逝去され後続の体制を(チームの譲渡も含め)確立できなかったことから活動の休止になったと聞きます。
野球にしろバレーにしろ、活動するということは相応の熱量を発揮しなければならず、その熱量の発露-様々な基準がありますが-の仕方を「一人が大きく発する」という形は、その当事者が存在する限りにおいては有効に作用するけど、その人がいなくなったらどうなるのか。そこら辺の不安から「少数の“力持ち”に頼りすぎず競技を継続」させようと、Jリーグ・Bリーグやヨーロッパ地域クラブチームのように地域で支えるというやり方が出てきたものと思われます。
三好・三好さんの話を聞いて思い出したのが…かなり昔の話になりますが茨城県社会人野球チームの水海道。1930年代から40年代にかけての茨城県都市対抗野球記事を見ると…当時から日立製作所、日鉱日立の両チームが大きな地位を占めている茨城社会人野球でありますが、それに負けない存在感を放っていた。資料を見てみると、水海道チームを支えていた人物が「強力な存在感」を発揮。水海道チームが一定の力を保ち、都市対抗野球予選を水海道に招致できましたが、その方が一線を引いて以降水海道のチームが都市対抗野球に出てくることがなくなった-その様子が三好チームと重なりました。
近年活動を休止するチームも多く目にしますが、様子見てみると一定期間野球チームを運営する力はあったけども、その後続を確立できなかったことがチーム力の縮小→休部・廃部につながっている様子が見えています。拙稿でも「継続することの大変さ」と簡単に書いてしまいますが、それがどんなに大変なのか…というのは身にしみて思う次第です。
自分のような“小間使い”が、何10年も社会人野球に関わり続けるとは思いませんでした。それでも、自分たちより一回り若い年代の人たちがそれぞれの役割を務めようとしている様子も目の当たりにしています。大船渡の硬式野球をやる場を保たせる、というのは今私が活動している大きな理由の一つ。どこまで生きられるか分かりませんが熱意のバトンを渡せるように努めます。