MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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社会人野球の記録 杵島炭鉱2度の後楽園、自衛隊目達原の産別出場-存在感も示した佐賀県社会人野球第1期。

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 現在佐賀県で社会人野球の活動をしているのは佐賀魂(スピリッツ)1チーム。2005年クラブチーム拡大期の中でできたチームで、クラブ選手権本大会出場を一度経験しています。九州地区で長く“不遇”の位置にいることの多い佐賀県社会人野球はどんな歴史を刻んできたか。急遽調べもの対象にした佐賀の第1期活動(~1969年)の足跡を調べてみることとします。

1 黎明期→杵島炭鉱・全唐津2強の戦いに

 1927年に始まった都市対抗野球、認知度が高まるにつれ参加チームが増加。各地で予選が開催されるように。佐賀県のチームは1932年鳥栖鉄道が初参加。1936年に大町杵島炭鉱も参加し初の県予選が行われ杵島が勝利。九州予選でも佐賀県勢初の一勝を挙げることとなります。1937年には有田チームも参戦し3チームリーグ戦で県予選。その後鳥栖鉄道が欠場した時期もありましたが、基本的に杵島炭鉱、鳥栖鉄道が佐賀社会人野球を支える状態でした。

 大日本帝国の戦争が終わり、1946年に社会人野球が復活。戦前から活動する鳥栖鉄道、杵島炭鉱の他に唐津の野球人で形成する全唐津が新たに参加。その全唐津が初参加いきなり優勝を成します。

 1947年には佐賀クラブも参加。この年から九州予選は福岡・佐賀・長崎ので北九州地区、熊本・大分・宮崎・鹿児島で南九州地区の2地区に別れて予選を形成します。1949年までに佐賀クラブと鳥栖鉄道が活動を休止。2リーグ制になってチーム増加したプロ野球に人材を輩出した全唐津と杵島炭鉱の2チームが佐賀野球の代表として活動することとなります。

2 1952~53年 杵島炭鉱都市対抗本大会出場

 杵島炭鉱・全唐津の2強対決は佐賀の野球界を賑わすものとなり、1951年都市対抗県予選は3勝先取5回戦で、1952円は2勝先取3回戦で行われます。この間に九州地区の予選地区割は大きく変動し、北九州地区は福岡県のみ。それ以外の6県が南九州地区で、この年から当時アメリカ施政下の沖縄が戦前通じてはじめて都市対抗野球に参加します。その沖縄の都市対抗初試合は杵島炭鉱が相手となり12対5で全那覇に勝利、その勢いをかった決勝戦も鹿児島鉄道に勝ち抜き、佐賀県勢初の本大会進出。本大会では京都クラブと対戦、延長13回まで戦いましたが0-2で惜敗しました

 1953年も杵島炭鉱が勢いに乗り続け、長崎三菱造船所、熊本鉄道に競り勝ち、鹿児島市電には大勝し再び本大会出場。直前の豪雨災害を超えて3日がかりで東京に。地元からの応援団も多くは派遣できない状況の中臨んだ本大会は、前年優勝の全鐘紡と対戦しましたが、0-3で敗退という結果に終わりました。

 この2度の都市対抗本大会進出は、大町町杵島炭鉱の熱意を野球で表したものとして、大きく印象に残るものとなります。

3 杵島、全唐津撤退と全佐賀の挑戦

 大町の熱意を発揮した杵島炭鉱の都市対抗本大会出場でしたが、その後わずか数年で産業構造が変わり杵島炭鉱野球部は解散に追いやられます。その後地道に活動してきた全唐津に加えて、1960年には佐賀市内の有志で全佐賀野球団が結成。全唐津と2勝先取3本勝負の予選を戦い、新しくできた熱意そのままに全佐賀が優勝を勝ち取ります。この年は都市対抗二次予選が佐賀県で行われることとなり、全佐賀、全唐津2チームともに二次予選に出場。唐津は初戦敗退でしたが、全佐賀は手負いの全宮崎に勝ち、準決勝の鹿児島市電にも0対1で善戦し足跡を残しました。

 戦後直後から長年佐賀の社会人野球を支えた全唐津は60~61年にかけて活動休止となります。

4 「産別」4度出場、都市対抗もあと一歩まで迫った自衛隊目達原

 全佐賀1チームになった状態に新たに加わったのが自衛隊目達原チーム。60年代前半は全国各地で自衛隊チームが社会人野球に参戦。九州地区では西部目達原が1962年から参加、全佐賀との3本勝負を制して九州予選に進出。この時期の陣容は「投手や捕手も“昨年まで野球をやったことのないものばかり”(新聞記事)」という中、佐賀県を超えた部分での戦いに臨み経験を積みます。

 当初、都市対抗は九州地区予選で苦戦を強いられますが、産業別対抗大会では一足早く官公・公社部門で本大会に出場(1964年、1966年。全自衛隊として)。その経験が都市対抗でも発揮されたのは1967年。初戦は開催地三菱重工長崎との対戦でしたがそれを破ると、準決勝では電電九州も2対1で破り決勝進出。決勝こそ日鉱佐賀関に0対6で敗れますが、大きい存在感を見せることとなりました。

 その後産別での官公・公社部門では予選を勝ち抜き、67年から3年間は目達原単独チームとして出場。本大会ではサッポロビール、全大昭和製紙(静岡と白老の連合チーム)、電電東京に敗戦しますが目覚ましい戦いを見せます。

 こうして地歩を築いてきた自衛隊目達原ですが、1970年からはその足跡が途絶えることとなります。1960年代前半にできた自衛隊チームの多くは早々に活動を閉じ、空自千歳が2回日本選手権本大会に出場というのを別にすれば、青森、福島(共に2023年で活動終了)、防府といったチームが長く活動していますが、千歳以外の主要大会代表決定戦進出は1997年日本選手権の自衛隊青森とこの目達原の例があるのみ。希少な経験を積んだ自衛隊目達原の休止以降、佐賀社会人野球の歩みそのものも止まることとなります。

5 『ビクトリー』掴むために『スピリッツ』抱いての活動-佐賀県社会人野球第2期。

 

 1970年に途絶えた佐賀県社会人野球。その後36年の時を経て、文頭に書いた通り佐賀魂が活動を始めます。クラブ野球選手権では九州地区の本大会進出枠が1ということもあり、上位大会に進出する間口は狭いものがありますが、地元学校との連携など工夫を凝らしてた活動が続けられ存在感を見せています。

 もう1チーム、野球をする人の間口を広げるために、と作られたビクトリークロウというチームも活動していましたが、こちらは残念ながら数年の活動のみで撤退ということに相成りました。

 佐賀県に関しては調査が後発のため、第2期の活動に関しては一切の記録をしていません。杵島炭鉱が2度の本大会出場していますが、全般的に硬式社会人野球の部分では苦戦を強いられている地域。それでも地道に活動しているチームが長く存在しているので、いずれその熱を高めることはできるんじゃないかなと思って、佐賀魂の活動に注目し、同時にそこまで持ってきた先達のチームの足跡を残そうとは考えております。

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 中間報告的「社会人野球の記録」、このあとは山形県福島県の記述を予定しています。

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