「ベーブルース杯」福井にて開催―全福井の挑戦
1965年、ベーブルース杯大会が福井県で行われることが決定。1947年に始まったベーブルース杯は主に東海地域で本大会が開催。第2部で登場した安田商店が第1回大会に参加して以来 、今のJABA全国大会にあたる全国区大会の出場はなかった福井県勢ですが、地元開催ということもあり全福井が参加。他に全国から《北海道》富士鉄室蘭(現・室蘭シャークス)、《東北》オール常磐《関東》日本石油(現・ENEOS)、熊谷組、電電関東《中部(静岡、山梨、長野、新潟、富山)》日本軽金属《東海》日通名古屋、三重交通、 王子製紙(現・王子)、西濃運輸(現存)《近畿》三菱重工神戸(現・三菱重工WEST)、日本生命(現存)、全鐘紡《中国》電電中国《九州》三菱重工長崎(三菱造船表記もあり)《北陸》電電北陸の17チームが集まる大会に地元の球趣は高まりました。
5月1日から始まった大会でしたが、途中雨にたたられ3日、4日と雨天順延。選手もコンディションを維持するのに苦戦した様子が新聞紙面からも現れ、毎日新聞紙面では足羽川河川敷の正式なグラウンドでない箇所で数チームが呉越同舟的に練習をしている様子が書かれていました。
全福井は大会2日目の5月2日に登場。三菱重工長崎と対戦します。三菱重工長崎は長年先行を許していた県内先達チームに追いつかんと数年をかけての強化策の最中で臨んだ大会でその技量を発揮。序盤から攻勢をかけ二回までに3点、四回に1点を追加してペースを握ります。
全福井は本格派海道投手→ベテラン木下投手と継投し中盤以降失点を防ぎます。攻撃陣は初回先制のチャンスを選手の怪我で不意にするなど不運もあり七回まで無得点でしたが、八回、相手投手の乱調から下位打線の連打で3点を返し1点差。しかし逆転にはあと一歩届かず、大舞台での1勝を逃しました。
5日間の熱戦で目立ったのが東北から出場したオール常磐。数年前まで常磐炭鉱として活動していたチームで、一度活動休止に追い込まれましたが関連会社と合わせて再起。アンダーシャツや文字、背番号を赤色にした派手なユニフォームは目を引き大会2勝、準決勝では日本石油に惜敗。決勝戦では日本生命が日本石油を破り優勝を勝ち取りました。
様相変わる北陸地区予選
選手、運営共に大きな経験をした福井社会人野球。7月4日から大津で行われる都市対抗野球二次北陸予選に参戦します。14連覇を成し遂げるなど北陸地区の盟主として活動していた東レが出場を取りやめ、滋賀県からは西田善一大津市長が音頭を取り編成した全大津に、膳所中OB岩見一男氏を中心に6月12日に結成した大津クラブが出場※石川県からの電電北陸と合わせた4チームが参加します。
※全国面では「東レメンバーが大津クラブに参加」趣旨の記述がありましたが、メンバー表をつき合わすと移動した選手は見えませんでした。
全福井の一回戦は「1956年棄権試合」の因縁もある全大津との対戦。全福井は二回にダブルスチールで1点先制。その後は 投手戦が続きますが、九回に柳田投手のタイムリーで追加点、その裏の全大津の反撃を1点に抑え2対1で勝ち決勝進出。相手は大津クラブを20対1で破った電電北陸。奮闘を見せますが、四回に5点、七回にも3点と集中打を浴びせた電電北陸がリード、全福井打線は2安打を放つのがやっとで0対8と敗れ、電電北陸の2連覇を見届けることとなってしまいました。
年に一度の大舞台で見せる執念
1966年。北陸3県大会など他大会の参加はなく、7月10日に石川兼六園で行われた都市対抗野球二次北陸地区予選に参戦。長年全福井でプレイするベテラン投手陣が奮戦しますが、初回に4失点をくらうと、中盤以降小刻みに失点を受け、攻撃陣も八回まで無安打。九回に初ヒットを放った後一気に攻勢をかけ、ダブルスチール、タイムリーで2点を返しますが、時すでに遅し。試合そのものは2対7で敗退。この年活動再開した東レとの激戦を制した電電北陸が優勝となりました。
全福井初戦の相手は専売金沢。四回まで投手戦で推移しましたが、五回に先制すると、七、八回に追加点。守備でも相手の攻撃を0に抑えますが、エースが八回に捉えられ、2つの適時打で1点差に詰められます。九回、全福井は2安打とダブルスチールで再び点を広げたものの専売金沢の勢いは止まらず、九回裏あと1アウトまで持ってきたものの、安打、フォアボールで出塁を許した後に相手4番打者に逆転さよなら3点本塁打。全福井は劇的な形で逆転負けを喫しました。
この後の東レ対電電北陸の対決は東レが3対2で制し、決勝は第1試合の勢いをかって専売金沢が食らいつきましたが、九回に1点をもぎ取った東レが4年ぶりに北陸王座に。専売金沢はこの激闘を置き土産にこのシーズンで活動を終えます。
全武生結成も…全福井と共に「試練の大敗」
様々変わる野球をめぐる環境の中、くらいついて参加していた全福井ですが、1968年の都市対抗には不参加となってしまいます。牧田太郎氏は武生市の信越化学に参加を打診しましたが、この年国体強化チームとなり、標準を国体に合わせていた信越化学はこれを辞退。1934年以来都市対抗野球に参加し続けてきた福井県勢ですが、ついに欠場します。
1969年。全福井は体制を立て直し、福井、敦賀両市出身選手でチームを再編成、11人の新入部員を迎えます。一方前年は打診を断った信越化学ですが、同チームを主体とした全武生チームを結成・参加。7年ぶりに県予選大会が行われました。
ただ、この全武生の出場決定が大会3週間前で全武生としてのユニフォームは揃わないまま前年国体出場時のユニフォームで出場。背番号のないユニフォームを着たままプレイしようとして審判に止められる一幕も。試合は三回に全武生が追いつきましたが、全福井はその裏に逆転すると、五回に3点、六回に5点、八回には3点をあげる攻撃力で試合を掌握。全武生は七回にも1点を返し、打線は10安打6四球と出塁はしましたが11残塁。先達の全福井に予想以上の大差をつけられ14対2で敗戦しました。
もうひとつこぼれ話。この試合、以前から信越化学=全武生に参加を呼びかけ続けていた牧田氏は全福井の部長という立場ですが、この試合は完全中立の立場で見届けていたという記事がありました。
二次北陸予選は6月28日、金沢で開幕。参加チームは全福井に東レ、電電北陸に前年結成されたばかりの石川県西川物産の4チーム。都市対抗野球40回記念大会ということで、日本社会人野球協会から牧田太郎、林敏、藤井利一の3氏、東北北陸(新聞記事ママ)社会人野球連盟からは牧田、林、藤井3氏に加え小西宇吉、野田健、堀井亮治の計6氏が表彰を受けています。
第1試合に登場した全福井、全武生から平井秀士選手を補強選手として加えたものの選手の集合に苦しみ、特に予選大会でのクリーンアップトリオが2人欠場&1人スタメンから外れ、打線も守備も大幅に布陣変更した状態に。その影響を電電北陸は見逃さず、初回にいきなり5得点。その後全福井は大崩れはせずに食らいつきましたが、五回に2点を失うと、六回には打者16人の猛攻を受け12失点、六回を終わって0対21の大差。ここで堀井亮治監督は大会本部にコールド負けを申し入れ試合終了。
試合後、「主力を欠いたこともあって10点差ぐらいのゲームになると思っていたが、こんなに開くとは。とにかく全員が集まって練習をしたこともありませんので…(毎日新聞全国版69年6月30日紙面より引用)」と述べた堀井監督。「予想した以上」の大差の敗退のショックは大きかったのか、全福井はこの年で都市対抗野球への挑戦が途絶えてしまいます。大会は新鋭西川物産が制し、本大会でも大昭和製紙北海道と0対1の接戦を見せました。
オール武生再編成、東海地区強豪に挑戦
1970年。この年から都市対抗野球の区割りが変わり、北陸地区が解消。東レ野球部が完全に活動を終えた滋賀県が本来の近畿地区(野球連盟の所属は元から近畿地区)に。福井県、石川県は名古屋市を除く愛知県、三重県、岐阜県と北陸東海地区に編成されることとなりました。ただし、この年の大会には全福井、全武生両者とも前年の大敗が響いたのか出場しておりません。
1971年。前年休眠状態だった 全武生が体制を整え直してオール武生として都市対抗野球東海北陸予選に参加。大会形式は2つの代表を敗者復活方式で争う形に。北陸地区からは福井のオール武生、石川の電電北陸、西川物産が参加。
緒戦は同じ北陸の西川物産と対戦します。二年前に本大会を経験し、成長著しい西川物産に初回8得点を浴びる猛攻を食らってしまい、三回までに0対10の大差をつけられます。以降失点は抑えるも、打線も4安打と機を見い出せず七回コールドで敗退。敗者復活二回戦ではこれまた北陸勢の電電北陸相手に底力を見せ、初回に先制を許すものの、二回に1点、三回には6点を奪い7対3とリードします。しかし電電北陸も経験の差を見せはじめ、五回までに7対6と詰めると、六回に逆転。オール武生は後半得点を奪えず結果8対11で惜敗、大会敗退となりました。
この年の秋、東海北陸社会人野球秋季大会が金沢兼六園球場の開催ともあって、オール武生も参加、前日トヨタに逆転勝ちし勢いに乗る西濃運輸と対戦します。序盤は競り合いを見せましたが、四回裏に奪われた9失点が致命傷に。他大会で登板経験のない投手がこの試合1人奮闘しましたが、七回コールド0対12で敗退となりました。
1972年。北陸3県社会人野球選手権大会は64年以降富山、石川県勢のみの参加で、途中開催しなかった年次もありながら開催し続けていました。この年は9年ぶりに福井県勢として参加、一回戦で電電北陸と対戦します。前年都市対抗では僅差まで迫りましたが、この試合は毎回の16失点をくらい、打線も2安打のみと抑えられ0対16で敗戦。
オール武生は引き続き6月26日から始まった都市対抗野球・東海北陸地区予選に臨みますが、王子製紙との初戦は初回に3点失うと、五回に4点、六回にも6点失うなど0対16で敗戦。敗者復活二回戦は28日に行われますが、二回以降トヨタに毎回失点をくらい0対12で敗退しました。
この時の新聞ですが、扱いがとても小さくなっていまして、毎日新聞福井版ですら王子製紙戦はイニングスコアと数行の記事のみ、トヨタ戦ではイニングスコアすらなし(全国版にはあり)、福井新聞に至ってはスポーツ欄に記載なしという状況になってしまい、これ以上の状況がつかめませんでした。
このような経過をたどり、オール武生も1973年以降の各種大会にエントリーした様子がありません。この後数年間登録は残っていましたが、オール武生は1974年12月31日付で、全福井は1977年の1月10日付で解散したことが連盟報で告知。73年以降33年間、福井の社会人野球は沈黙の時を過ごします。
その後の福井社会人野球―福井ミリオンドリームスを中心に
・戦前の全武生で活動した小西宇吉氏による近畿予選参加証言
きっかけは“欽ちゃん”
―福井ミリオンドリームス2006〜2021活動短報。
“欽ちゃん”こと萩本欽一さんが主宰し発足した茨城ゴールデンゴールズは全国を巡業。福井でも試合開催の運びとなり、福井県内の硬式野球経験者で暫定的に作られた「福井ミリオンドリームス」と対戦。試合は6対12でミリオンドリームスが敗れましたが「1試合で終わらすのはもったいない」と2007年に常設のチームが作られました。
チームの監督にはタイガースの代打の切り札で活躍した川藤幸三氏実兄、元NPB選手の川藤龍之輔氏が就任。若狭高校から西鉄ライオンズに進んだ乗替寿好氏がコーチ、川藤幸三氏もシニアディレクターとして協力するチームはその後発展を遂げ、2008年にはクラブ選手権本大会初出場、2009年には都市対抗予選で本大会出場経験チームの伏木海陸運送に2対3と肉薄し、2010年のクラブ選手権ではゴールデンリバース、新日鐵大分を破り、優勝した所沢には惜しくも敗れたもののベスト4。
その後クラブ野球選手権には2011、13、15年と出場。特に2015年は代表枠が2から1に減る中北陸王者となっての本大会進出を果たします。2013年にはJABA富山大会で都市対抗本大会出場常連となっているセガサミーに延長戦までもつれ込む激戦(10回タイブレーク、6対7)を見せます。
ただ。
社会人野球、ことにクラブチームは3年も経てばチーム事情も戦い方も大きく変わるのが特徴で、人事異動などでチームの上位進出が難しくなる状況にもなりました。長年監督→部長としてチームを支え続けた川藤龍之輔氏は2021年に逝去。チームも部員不足状態になり、2022年3月6日毎日新聞福井/石川/富山版に休部になることが報じられました。
“不死鳥”福井、また立ちあがる日を
1961年7月の記事。「財政面は別としても地理的に秋の終わりから春さきにかけては全く空白で、シーズン開幕となっても、練習試合や交歓試合の相手はなく、それに人材の発掘が極めてむずかしい。このためせっかくチームをつくりながら線香花火のようにあえなく消えていった球団もいくつかある」という記述がありました。
それでも第1期、第2期ともに社会人野球に関わった全ての人が、自分のしている社会人野球が盛んになるよう必死でプレーをし、行動した。
だけども
残念ながら努力は必ず実るとは限らない。そういう厳しさもあり、全県的な規模の活動休止にあっています。
それでも
例えば軟式野球では福井セーレンが全国制覇を果たしたり、その他にも硬式軟式の違いこそあれ野球の息吹は続いてるじゃないですか。高校は言わずもがな、大学も福井工大が奮闘。独立リーグも近年撤退の憂き目に遭いましたが、環境を覆してチームを置き続けた底力はある。
一度道が途切れてしまったとしても、そこからの経験を踏まえて再起を道を辿るというのは「あり」じゃないでしょうか。一度熱を持てたら何度でも熱は持てるはず。私はそれを信じて、福井社会人野球の復興を待つことにします。
2023年4月12日 伊東 勉
▽参考にした雑誌 日本社会人野球連盟報