MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

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八木中和ク、都市対抗本大会出場!明暗経験した48〜50年の3年間―「奈良県社会人野球挑戦記」中編

5.近畿の壁ついに突破!八木中和クラブ、都市対抗野球本大会に
 
 それまで何かに押さえつけられていたような社会から、一気に爆発的な開放感にあふれた日本社会。それは野球にも現れ、この時期の奈良の新聞でも各種野球大会の様子が書かれています。とはいえ、常時硬式で野球をやるのは簡単ではなく、企業をバックアップにしたチームならともかく、そうでないチームは「硬式ボールを握るのは都市対抗の時だけ」というチームが多数派。加えて戦後直後は新聞の保存が完全になされていたわけではなく、特に1948年あたりは6〜8月期の「抜け」が多かったのが残念ですが、拾えた記事を基にこの年の偉業を紹介します。
 
 “最多参加”6チームの県予選
 
 この年の都市対抗奈良県予選には、2年連続優勝の全五條、連続参加の全高田に加え、大和運送、全田原本、ゼーオークラブ、そして大会直前に全八木から硬式チームへ鞍替えした中和クラブの6チームが参加します。
 大会初日、全五條と大和運送の試合は5対3で全五條、中和クラブと全高田の試合は2対0で中和が競り勝ち。続けて行われた準決勝は全田原本が6対1で全五條を破り、中和クラブが10対5でゼーオークラブに打ち勝ち、決勝進出チームが決定。
 翌28日に行われた中和クラブと全田原本の決勝戦。全田原本が序盤に先制も、中和クラブが一度逆転。七回に5点を挙げた全田原本が再逆転しますが、中和クラブが追いついて延長に突入。13回に及んだ激戦は中和クラブのサヨナラ勝ちという結果で決着しました。
 
 あれよあれよの本大会進出
 
 7月9日から甲子園で行われた近畿予選。この年から福井県、石川県、滋賀県は北陸地区として分割独立。前年度近畿代表で本大会準優勝の鐘紡高砂はじめ5県6チームの参加で行われました。
 組み合わせ上準決勝から登場した中和クラブは、兵庫県の姫路合同貨物相手に13対6で打ち勝ち決勝進出。反対ブロックは前出の鐘紡高砂と古豪の大鉄吹田が激しく競り合い、10対8で大鉄吹田が勝ち上がります。
 ここまで幾度となく奈良県の上位進出を阻んできた大鉄吹田。更に中和は正捕手が負傷でスタメンから外れた中吹田に先行を許し、五回終わった時点で吹田が7対1でリード。しかし、中和クラブは六回以降激しく追い上げ、2点差で迎えた九回には3安打2フォアボールで追い付き、相手ミスを誘ってとうとう逆転サヨナラ勝ち、あれよあれよと勢いに乗り、本大会出場を決めました。近畿予選に臨む際、安井奈良治郎監督は「優勝は困難だが、不真面目な負け方はしない。捨て身の戦法で奮闘する」と述べましたが、それを遥かに超えての本大会出場となりました。
 
 景色が違った後楽園
 
 7月末に毎日新聞奈良県版8月1日に奈良日日新聞に全国大会に向けてのチーム紹介が記されていました。両記事をまとめると…「大会直前どころか1週間前の6月20日頃に(八木中和クとして)結成」「畝傍中学OBの集合チームでメンバーは八木町在住とチームワークが強み」、この間にチームのメンバー紹介の記事が連ねられた後、「練習不足だが安井監督を中心にカバーして期待に背かぬ活躍をするであろう」と締められていました。都会である東京での滞在に様々難儀しながら望んだ都市対抗野球本大会、対戦相手は北陸地区代表で、繊維産業の好況に乗り、後にプロ野球のエースとなる大島信雄投手など有力な選手が集合した大塚産業。
 この日は地元東京代表・全藤倉も出場する日程で、後楽園球場は満員。「近畿予選は多くて100人程度」からガラッと変わった環境下のゲームは、初回から大塚産業ペースで進み、いきなり無死満塁からエラーが重なり4失点、二回にもエラーから2失点、三回表に満塁のチャンスをつかみましたが逃すと、六回までに0対9とビハインド。七回に八木中和クラブは反撃に出、上田、大竹選手のヒットで1点。さらに伊藤選手の現在なら犠牲フライ(新聞記事には「凡飛で1点」、当時の犠牲フライルール未確認)でもう1点奪い意地を見せましたが、試合を覆せず2対10で敗戦。奈良県勢初の都市対抗野球本大会挑戦は終わりました。
 
 57年越しの「検証&顕彰」
 
 奈良の社会人野球が復活して10年、都市対抗本大会の特別出場枠が与えられた2005年、毎日新聞奈良県版は「中和クラブ物語」と銘打った特集記事を掲載します。第1話では戦後直後の八木町周辺の野球環境、第2話では中和クラブ結成から都市対抗県予選、補強選手選出と近畿予選の裏話、第3話は慣れない東京遠征と環境の様子、第4話はそれまで経験したことのない後楽園大観衆の中での試合、第5話は意地の2点をもぎ取った様子と大会に臨む後輩へのエールが書かれていました。この中で「大塚産業の投手が大島選手から交代した七回に2点を返した」記述がありましたが、都市対抗の公式記録では大島投手から2得点を奪った(大島投手が8回二死まで登板)ことになっています。
 2005年時点で既に80歳を超えていた先輩方が、必死に生きてきた長い人生の暦をくり返し、インタビューに臨んでいたいた様子が印象深かったです。
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6.社会人野球連盟設立も―恒常的な参加に難儀
 
 揺れ動いた準備ー1949年予選
 
 1949年2月に日本社会人野球連盟が設立され、奈良県は登録5チームでスタートします。都市対抗野球もその5チーム参加で開催…と思いきや、大和運送が全日本軟式野球大会出場で辞退、残った金龍産業、日紡高田、天理クラブ、中和クラブの4チームで開催をめざし、前年度近畿王者の八木中和クラブは無条件で2次予選進出のため、残った3チームの中でリーグ戦最上位チームが近畿予選進出という取り決めで行われようとしましたが、今度は日紡高田、八木中和クが棄権。八木中和クは前年の都市対抗本大会出場で野球活動継続するための費用が枯渇してしまい、県大会部分は棄権を選択せざるを得ませんでした。
 最終的には2年ぶり出場の天理クラブと全田原本の流れをくむ金龍産業の2チームで三本勝負という形式で行われた県予選は6月26日天理グランドで開幕。第1戦は五回裏に金龍が4点をあげ、天理が終盤に追い上げたものの5対4で逃げ切り。翌日に行われた第2戦では天理が初回4点先取するも、金龍が三回までに逆転。六回にダメを押して8対6で勝ち、近畿予選出場と相成りました。
 全田原本→金龍産業は前年県予選決勝で敗退も、八木中和クに補強された選手もいました。今回はそれぞれのチームで近畿予選を戦うということになり、7月15日の近畿予選に奈良県の両チームが出場します。
 まず第一試合、先に述べた活動困難を越えて中和クラブが試合に臨みましたが、県部分で試合できなかったブランクは大きく和歌山の海南日東紡に初回3点、四回5点と点を奪われ、最終的に0対14で敗退。続く第2試合に金龍産業が鐘紡高砂と対戦しましたが、こちらも三回までに13失点奪われ劣勢。攻撃陣が四回に1点、六回に5点奪い返すものの、毎回のように失点を浴び、6対24で敗退という結果となりました。
 
 日紡高田の近畿初挑戦
 
 1950年、参加予定チームには日紡高田、金龍産業、中和クラブに新参の全奈良が記されていましたが、先に述べた事情で中和クラブは棄権。会場も当初予定されていた郡山高校球場から奈良高校球場に変更して、6月28日にワンデーリーグ戦で行われました。
 一回戦の日紡高田―全奈良の試合は、日紡高田が二回から四回までにあげた8得点を守り、全奈良の後半の反撃をかわして8対6で1勝。日紡高田は前年近畿予選参加の金龍産業との連戦に臨み、二回にあげた6点で試合を掌握。金龍産業は三回に4点を返すものの、日紡高田が小刻みに点を重ね、13対7で2連勝し優勝の座を勝ち取りました。
 7月8日から日生球場で行われた二次近畿予選。この年はプロ野球が2リーグ化、球団増となり、多数プロ野球へと人が流れ、また産業構造も戦後直後からの変化も激しくなったことから参加チームの動態がが激しくなりました。初戦で対戦した海南日東紡とは「紡績企業対決」となりましたが、実績に一歩秀でていた海南日東紡が三回までに11点あげると、五回にも6点追加するなど20点。軟式大会も含めると県内で高い評価を受けていた日紡高田でしたが、三回に1点、六回に4点を挙げる意地は見せたもののの勝負の流れを覆せないまま初戦敗退となります。


 この項では、都市対抗野球本大会に出場した八木中和クが大会・連盟にに登録していた3年間の動きを記してきました。一つの大きな成果と、体制を作り、維持することの困難さと証明して約3年の活動を続けた八木中和クの先輩方に改めて敬意を表すものです。
 後編は1951年から1956年までの活動の様子を記します。
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