昨日は20世紀後半における中国地区クラブチームに関して触れてきました。今日はもう少し突っ込んで、「中国・四国・九州で1ブロックだった時代、どんなチームがクラブ選手権に挑戦したか」を探り、その結果はっきり所在したことが分かっているチームと挑戦者の様子を記していきます。
まず参加チームの所在地ですが、1986年〜1999年あたりの連盟報はクラブ選予選やチーム動向の記述がない年が多く、今と比べると得られる情報量がやや薄い部分があります。各年度の登録に関しては都市対抗野球の試合を見ることによってそれを補う手法を取ります。四国地区に関しては83年から90年までの毎日新聞地方版の都市対抗野球記事を得ていたので、それを元にしてとらえられた部分の最大限を記していきます。
【中国地区】
…山口県のチームがもう少し多く活動しているかと思いましたが、オール防府、あいけいともに活動期間は短く、オール周南はクラブ選が始まる前に活動終了。五大化学も企業チームに移った部分も含めて3年間の活動。防府クラブ、柵原クラブの活動が中国クラブチーム活動のスタート地点であったことを改めて認識しました。オール防府4度の全国出場に感してはあとでまとめて。
【四国地区】
徳島が3チーム、愛媛は1チームが参加しています。徳島ク=徳島野球倶は現在も活動している徳島県唯一のチームということもあり、この時期もジグザグ有りながらも継続して活動している様子が見えました。
大林自動車は75年から91年まで活動。この時期は四国地区の企業チームが次々旗をたたむ中で粘り強く活動していたチームでありましたが、チーム運営に尽力していた方の逝去、スポンサー会社の火事などで活動する体力を失ない、90年で活動を終えたものと思われます。
鳴門クラブとオール徳島は1つの欄にして書いていますが…80年あたりに鳴門クラブの活動が見えない時期がありました。連盟報でチームの動態を捉えることができなかったので、果たして「同一チームの名称変更」か、「鳴門クが解散してオール徳島が入った」かの判別がつきませんでした。
オール松山は企業チームの相次ぐ解散を受けて「野球の灯を絶やさないため解散したチームの受け皿として結成。なかなかの実力を持ち、都市対抗野球でも二次予選決勝に進出したこともありましたが、残念ながら活動を確認できたのは4ヶ年でした。
【九州地区】
九州に至っては…クラブチームの活動がオール那覇→琉球銀行しか見つけられませんでした(新日鉄大分の後継“大分硬式野球倶楽部(大分ハーキュリーズ)”は、クラブ選手権に参加するクラブチームとは性格が違うと認識し含めていません)。
オール那覇は「都市対抗において沖縄県チームの出場を絶やさないために活動する」ということを主眼に結成。82年に琉球銀行の協力を得て「琉球銀行クラブ」と改名。97年のクラブ選予選の参加実績は確認しましたが、クラブ選手権には積極的に目線が向かなかったものと思われます。
【1つ疑問―クラブ選参加は隔年だった?】
参加チーム数が少なく、中国・四国・九州予選という割には事実上山口県と徳島県の対抗戦にしてしまってる―と私は昨日書きましたが、連盟報を見てみると、80年代の中盤まで予選が片方ずつしか行われなかった様子を見ました。
86年までは予選の記述がなかった年も含めて、全国大会出場チームが中国←→四国と交互になっています。中国地区にチームがなくなってしまった時は四国のチームが連続で出場している様子も見ますが、いかんせん予選の様子、あるいはレギュレーションを掴みきれず。当時は予選を開催するにも大変な状況もあったでしょうから―当時は鳴門大橋もなかったわけですし、隔年で挑戦権を、としていたのかもしれませんが、確たる文章は見つけられませんでした。私が調べられる手段ではこれ以上調べようがなく、各県図書館へ依頼するにも手間がとれないので、他の方々のご指摘を待つより他ありません。
以上の通り、私が調べられる限りの「76〜99年の中国・四国・九州クラブチーム状況」を記してきました。
岩手社会人野球は9月8日開幕の「日本選手権東北最終予選」、9月16日開幕の「東北地区連盟旗岩手予選」(赤崎野球クはエントリしていません)と寸前に近づいた身近な大会の記述の準備に入ります。おつきあいいただきましてありがとうございました。