MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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34年から参加、近畿予選に挑む―「福井県社会人野球挑戦記」1934~1942(1)

 「県ごと社会人野球挑戦記」、22年7月に宮崎県(1931〜1965年)、23年3月に奈良県(1932〜1956年)を記してきました。第3段は福井県第一期(1934〜1972年)を記していきます。
 ただし、福井県のうち、1934〜42年は2020年に別な形で記述・アップしているので、該当部分はそのまま持ってきます。1946年以降が新規製作です。
 今回記述範囲内で39〜41年の中で一度県予選に出場し、1敗した「福井太陽」チームがあります(大阪毎日で確認)が、紙面をコピーせずメモ書きにして、そのメモを紛失したため、正確な参加年度を失念してしまいました。今回記事では記述保留とします。
 
▼1934年―都市対抗野球初参戦、初代福井王者はFB倶!
 
 1927年から始まった都市対抗野球、第1回こそ本大会出場全チームほぼ推薦出場(東北のみ代表決定戦有)でしたが、参加希望チームの増加により地区予選が行われるように。1935年の第9回大会から本大会出場全チームが地区予選を経ての参加となりますが、福井県はその前年にあたる34年から近畿地区予選に参加。遠征距離の関係からか、一般的な地方区分では北陸地区となる福井県ですが、隣県石川共々近畿地区への参加となりました。※当時の近畿地区→大阪市除く大阪府京都府、神戸市除く兵庫県奈良県和歌山県滋賀県。当時、大阪府大阪市兵庫県は神戸市で別にひとつの本大会参加枠がありました。
 東京日日新聞の大会告知記事で大文字で「福井、石川も参戦」と紹介され、福井国検と福井FB倶が参加。福井市で6月24日に近畿予選進出戦が行われました。
▽6/24 都市対抗一次(福井)
・決勝戦
 福井国検  1=000000100
 福井FB倶 13=00201352A
 後半の大量点で甲子園で行われる二次近畿予選に進出した福井FB倶でしたが、地区内強豪に成り上がりつつあった千里山鉄道と初戦で当たり、先手を奪われて初戦敗退と相成りました。
▽7/6 都市対抗二次(甲子園)
・一回戦
 福井FB倶 3=100000002
 千里山鉄道 6=31020000A
 
▼1935年―福中、福商など中学OB参戦も優勝は国検の手に。
 
 福井野球界に「都市対抗野球」という新しい視野が入り、大野実業、福井中倶楽部、福井商倶楽部の3チームが新たに参加しました。県予選は5チーム参加で6月15、16日に開催。
▽6/15、16 都市対抗一次(福井)
・15日 一回戦
 福井国検  11=104123000
 福井FB倶 7=014002000
・16日 準決勝
 大野実業  0=0000000
 福井商倶楽部20=0216101A
・16日 準決勝
 福井中倶楽部2=000002000
 福井国検  11=00312005A
・16日 決勝戦
 福井国検  16=004630102
 福井商倶楽部12=500012022
 一回戦は34年から参加の2チームがぶつかり、国検が前年のリベンジ。16日は準決勝、決勝が行われ、福商倶が大野を大差で破るも、都市対抗大会の部分で1日の長があった国検が福中倶、福商倶を連破し初優勝。しかし近畿大会では隣県石川代表の金沢KB倶に初回の大量失点が効いて大敗しました。
▽7/9 都市対抗二次(甲子園)
・一回戦
 福井国検  0=000000000
 金沢KB倶 10=80011000A
 
▼1936年―福商倶、前年の借り返すV!更に二次予選初勝利!
 
 36年は福井国検、福商倶、大野実業の連続出場組に、福中倶に代わって福井スター倶、双葉倶楽部の2チームが参戦。大野は県予選初勝利。準決勝で前年の決勝カード国検―福商倶がぶつかり、終盤もつれた試合を制した福商倶が決勝でも双葉倶との延長戦を制し初優勝。
 福商倶は勢いを近畿予選に持っていき、姫路東洋紡に県勢初勝利。前年本大会出場の千里山鉄道に敗れたものの、たしかな足跡を残しました。
▽6/20、21 都市対抗一次(福井)
20日 一回戦
 大野実業  18=1814103
 福井スター倶8=2020103
・21日 準決勝
 大野実業  0=0000000
 双葉倶楽部 14=400244A
・21日 準決勝
 福井商倶楽部8=110200013
 福井国検  6=100001031
・21日 決勝戦
 双葉倶楽部 11=0030040400
   ↓↓↓↓↓
▽7/3〜8 都市対抗二次(甲子園)
・3日 二回戦
 福井商倶楽部8=100302020
 姫路東洋紡 0=000000000
・4日 準決勝
 福井商倶楽部1=100000000
 千里山鉄道 11=24100040A
 
▼1937年―国検、8チーム参加大会制すも過密日程に泣く 
 
 丸岡、武生地域のチームが初参加するなど戦前期…というより福井県都市対抗史上最多の8チームが参加。但し気候の状況もあり、地区予選の開催が近畿予選の寸前にまで詰まる状態に。
 一回戦は近畿予選参加歴のある国検、福商倶と初参加の武生、丸岡地区決戦を制した丸岡同志が勝ち上がり。準決勝は国検が大量点で武生をコールドで破ると、丸岡同志が決勝に進み、決勝では序盤の打ち合いを制した国検が逃げ切り2度目の優勝。
 熱く盛り上がったであろう大会だったが、当時の移動環境で2〜5日という準備期間は短すぎたのか、近畿予選では和歌山虎城倶に大敗を喫した。尚、参加チームにある「ジャガース」は特に戦前期では珍しい英語のチーム名でした。
▼6/26、27(+1?)都市対抗一次(福井商球場)
・26日 一回戦
 全武生   11=1030205
 大野実業  4=2000011
・26日 一回戦
 ジャガース 7=05101
 福井国検  17=5435A
・26日 一回戦
 福井中倶楽部0=00000
 福井商倶楽部11=1703A
・26日 一回戦
 丸岡実業  0=00000
 丸岡同志  25=12049A
・27日 準決勝
 全武生   5=2000021
 福井国検  13=3200071
・27日? 準決勝
 丸岡同志  ○―● 福井商倶楽部
・27〜30日 決勝戦
 丸岡同志  11=450000101
 福井国検  19=112400002A
 (丸)平野、岩田―松井
 (検)渡辺栄、栗田―内山
※28日東京日日紙面では準決勝2試合の内武生―国検のみ記載。福商倶―丸岡同志の勝敗は決勝進出チームで判断。決勝戦スコアは7月1日東日紙面に記載されていたが、何日に開催されていたかの記述が見つけられなかったため、上記のように表記しました。
   ↓↓↓↓↓
▼7/1〜 都市対抗二次(甲子園)
・7/3 一回戦
 福井国検  1=100000000
 和歌山虎城倶17=02145014A
 (検)渡辺栄―内山
 (和)梶本、田中―山中、松本
 
▼1938年―戦争の影響押し寄せる。全武生が初優勝。
 
 参加チーム数など昇り調子で盛り上がりを見せていた都市対抗も、前年7月からの戦争・戦況拡大もあり、見え始めた「実力差」も加わって参加チームが縮小する様子も見えてきました。東京日日の紙面にもそれが見え、それまで基本的にイニングスコアを載せていたのが、序盤戦は結果のみの記載に。
 福井県予選もこの年は6チームの参加となり、福中倶が「三度目の正直」で県予選初勝利。決勝は前年優勝の福井国検を破った全武生と、準決勝も大勝した福中倶との間で行われ、全武生が二回の大量点でリードを奪い初優勝。
 近畿予選では京都実業に敗退したが、このあと断片的ながら約40年福井社会人野球を支えたチームの躍進が始まったと言えるでしょう。
▼6/11、16、19 都市対抗一次(場所未記載)
・6/10 一回戦 福井中倶楽部15―2 ジャガーズ
         福井国険  6―5 丸岡同志倶
・6/16 準決勝
 福井中倶楽部21=110730
 福井ユニオン8=70100
・6/16 準決勝
 全武生   7=10312
 福井国検倶 2=00002
 ※17日東日紙面では5回までのスコアで止まっています。事情説明記述は見えませんでした。
・6/19 決勝戦
 福井中倶楽部4=000100300
 全武生   13=110000101A
(中)石黒―松井(武)佐々木―山口
   ↓↓↓↓↓
▽7/10 都市対抗二次(甲子園
・7/10 一回戦
 全武生   3=0010002
 京都実業  13=1200010A
(武)手塚、佐々木―山口
(実)鷲尾、佐川―山口
 
▼1939年―参加3チームに。全武生2連覇。
 
 前年に増して「参加しづらい状況」は増して、2度県優勝の福井国検が不参加になるなど福井予選の参加チームは3に減少。前年から参加のユニオンが県予選初勝利をあげたが、決勝では前年優勝の全武生が経験の差を見せ大勝し近畿予選に。しかしその近畿予選では台頭してきた企業チームに序盤大量点を食らい敗退。
▽6/3 都市対抗一次(北陸中G)
・一回戦 福井ユニオン13―4 ジャガーズ
・決勝戦 全武生   24―0 福井ユニオン
   ↓↓↓↓↓
▽7/2〜 都市対抗二次(甲子園)
・7/3 二回戦
 日鉄(広畑)13=6402010
 全武生   1=0100000
 
▼1940年―最大のダブルスコアで全武生3連覇!
 
 1930年年代、朝日や東京日日といった商業新聞では一面に全面広告を載せるなど華やかな雰囲気を醸し出していましたが、38年あたりからそういう雰囲気は見えなくなり、都市対抗などスポーツの報道も薄くなっていきます。地方予選の報道も目立たなくなり、ようやく見つけ出せた福井予選の記事は下記試合結果を報ずる数行のみでした。
 しかし、その試合は凄まじいもので、県予選四度参加のジャガーズは20点もぎ取ったものの、全武生はその倍の41点!都市対抗史上最大級クラスのダブルスコアで3連覇。近畿大会では後にプロ野球名物オーナーとして名を馳せる田村駒次郎氏が関与する田村駒商店と対戦し、後半突き放され緒戦敗退でした。
▽6/8 都市対抗一次(場所未記載)
・決勝戦 全武生   41―20 ジャガーズ
   ↓↓↓↓↓
▽7/5 都市対抗二次(甲子園)
・7/5 一回戦
 全武生   0=000000000
 田村駒商店 7=00100312A
 
▼1941年―丸岡三度目の正直!4連覇目指す武生破る
 
 この年は更に戦時色が強まり、7月の東京日日地方版紙面には戦費調達を目的とした「預金運動」が大体的に載っていました。そんな中ですが都市対抗の予選は行われ始めていて、福井でも前年優勝の全武生と丸岡同志会が参加。召集などの異動があったものと思われますが、丸岡同志会が三度目の挑戦(40年除く)で全武生を破り初優勝。近畿予選では前年本大会出場を果たした大津青嵐会にコールドで敗退した。
 この年は「全国的集会の禁止」で都市対抗本大会が中止になる事態に。大津2番手登板投手の広瀬習一は大会後東京巨人軍に入団。一瞬だが目覚ましい活躍を見せた後に戦争の犠牲となりました。
▽6/16 都市対抗一次(場所未記載)
・決勝戦 丸岡同志会 13―10 全武生
   ↓↓↓↓↓
▽7/4〜 都市対抗二次(甲子園)
・7/5 一回戦
 丸岡同志会 0=0000000
 大津青嵐会 12=252021A
(丸)藤田(青)小田、広瀬習一
 
▼1942年―全武生が“最後の挑戦”も田村駒に返り討ちに 
 
 前年は本大会が中止になり、その間にアメリカとも開戦。開催は難しいかと思われたが、6月上旬の東日紙面に「国民精神振興」を目的としての開催が報じられた。
 これまでの府県など一次予選無しで、各地二次予選のみの開催と伝えられたが、調べることのできた県の中には、茨城のように日立製作所日立鉱山2チーム互角だったり、福島のように前年優勝チームの解散で他チームが横一線だ、という理由で「実業野球大会」を開催し、そのチームを二次予選進出チームにするという「事実上の一次予選」を行った箇所も。福井県はどのような対処したかを知ることはできなかったが、二次予選には38〜40年に県3連覇した全武生が出場。2年前に敗れている田村駒商店に挑んだが、その間に後楽園本大会も経験した強豪の前に敗退。
 そして、戦争が深化し、43〜45年大会中止という動きになっていきます。
▽7/3〜5 都市対抗二次(甲子園)
・7/3 一回戦 全武生   0―9 田村駒商店

 第2部では、戦後の数少ない記事からとらえた「戦争・震災から復興を図る福井社会人野球」の模様を記します。
 
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