「福井県社会人野球挑戦記」、ここからは1946年からの記述に入ります。
戦後直後の熱意は少ない記事からでも顕に
県予選参加8チームまで賑わった福井県社会人野球でしたが、戦争によってその勢いは一時中断。大日本帝国の起こした戦争は1945年8月に終了し、人々は通常の生活に戻っていきます。その中で野球も復興しようという動きとなり、1946年には各段階の野球が再開。社会人野球も6月30日に行われた県下実業野球大会(中日新聞福井版)全国実業団野球大会県予選(福井新聞)などと呼称が様々ですが、都市対抗野球につながる大会が始まりました。
大会には全福井(後年チームとは別体系と思われます)全丸岡、全武生、全敦賀、全小浜の5チームが参加。残念ながら詳細な戦績を記した記事が見当たらなかった(毎日新聞福井版は見つけることができなかった)ので結果のみの記載になります。第一試合は全敦賀が14対8で全小浜に勝ち、戦前近畿大会に出場した地域同士の対決となった第2試合は全丸岡が全武生に19対12で乱打戦を制し、準決勝は全敦賀が15対1で大空襲による破壊越えて出場してきた全福井を破り、決勝戦は1日3試合目になる全敦賀が12対7で全丸岡を破り敦賀地域としては初めて2次近畿予選進出となります。
7月12日から始まった近畿予選では隣県の小松製作所(神戸新聞は小松製鉄表記)相手に三回までに9点を奪うと、五回には5点、七回は4点をあげ18対10とコールド勝ちをし、準決勝では和歌山の海南日東紡と対戦。この年近畿代表となったチームに三回の7失点以降崩れてしまい、2点返しましたが敗退しました。
1947年。県予選には全敦賀、小浜青戸好球、中央繊維、全武生、福井クラブ、山仙工業、全三国、安田商店の8チームがエントリーしましたが、中日新聞福井版、福井新聞での記述があまり多くなかったことと合わせ最低限の記述しかできません。
初日に勝ち上がったのは小浜青戸、全武生、安田商店、山仙工業の4チームですが、山仙工業は2日目棄権※。全武生と小浜青戸の準決勝戦は延長11回にもつれ込む熱線となりましたが全武生が勝ち越して決勝進出。決勝戦では県内では随一の強さを証明しつつある安田商店が三回から五回の8得点が効き、9対1で全武生を破り県大会優勝を決めます。
※47年7月―日福井新聞『第一回戦に勝ち越した小浜青戸、全武生、安田商店の争覇三つ巴戦は6日午前10時から開始された(山仙工業は2日目棄権)』という記述から上記記述しました。この余波で、一回戦の安田商店―福井クラブが毎日全国版では準決勝として記載されることに。
7月13日から甲子園で行われた近畿予選、一回戦は京都の全舞鶴と対戦。二回までに4点を先取すると、中盤に点を失ったものの八、九回に4点を追加し準決勝進出。準決勝は和歌山名草クラブと対戦し、先手を取られるも四回までに逆転、六回に一度逆転されるも八回に追いつきシーソーゲームを展開しましたが、サヨナラ負けで惜しくも決勝進出はなりませんでした。
再びの災禍「福井震災」超えての激戦。
1948年。この年から二次予選の区割りが変わり、これまで近畿地区に参加していた福井県は石川県、滋賀県と合わせて北陸地区として独立。都市対抗福井予選には前年優勝の安田商店、前年出場の小浜青戸、福井クラブ、山仙工業、中央繊維、三国フレンドの合わせて6チームが出場して6月26、27日の2日間で開催。
初日は前年1勝の小浜が9対0で福井クラブを、三国フレンドが山仙工業を5対1で破り準決勝進出。シード格の両チームが登場した2日目は第1試合に安田商店が小浜青戸を10対1、第2試合は中央繊維が18対6で三国フレンドを破り決勝戦に。シード格両チームによる息詰まる試合となりましたが、四回にあげた2点を守り切った安田商店が県予選優勝。レギュレーションでは準決勝に勝った2チームが北陸予選出場となっていました(48年中日福井記述より)が、大震災が運命を変えることとなります。
大会終了翌日、6月28日午後4時13分頃に起きた地震はマグニチュード7・1、福井市の震度は当時の最大階級の6を記録。死亡者だけでも3769人、自治体によっては人口あたり死亡率5%、地域のインフラが壊滅する大きなダメージを負いました。収集した新聞に明確な記述はありませんでしたが、中央繊維チームは二次予選を辞退(毎日滋賀県版記載の組合表に名前無し)。安田商店も困難な状況を超えて二次予選にエントリー。大会自体も当初7月3日開始予定を一週間遅らせての開催となります。
安田商店の対戦相手は大塚産業。大塚産業は後にプロに進む“完全試合投手”田中(プロ入り後武智に改姓)文雄、安田商店は後に広島カープの大エースとなる長谷川良平の両投手が先発。安田商店は大塚産業に五回まで1対6とリードを許しますが、中盤五回裏に4点を返し1点差に。この試合全体で13安打を放ちますが、八回の満塁のチャンスを逃したのが響き、大塚産業投手陣に抑えられ惜敗しました。
この試合に勝った大塚産業は北陸地区初代王者を勝ち取り、都市対抗本大会はでは奈良県の八木中和クラブに大勝するなど2勝をあげベスト8に進出。この時のメンバーから前述の田中投手、エースの大島信雄投手ら9人がプロ野球に進出しています。
安田商店というチーム
47、48年福井県を席巻した安田商店はどういうチームだったのか、ひとことで語れば、都市対抗野球参戦はわずか2年も、福井県では強い印象を残したチームです。福井県立図書館で見た新聞以外の資料には「硬式チームだが県内の全ての大会に参加。対戦チームは少しでも近づきたいとプレーした(軟式50年福井のあゆみ)」「戦後の福井市野球連盟発足時期、ずば抜けた力を持っていた。勝つなどということは夢のようなものの話」「大震災以降姿を消したものの、現在でも野球の話題には必ず出てくるチーム。技術が素晴らしかったことや練習方法など参考になった(福井県体育史)」との記述がありました。
戦後、社会人野球は数多くの大会が興ります。その中で現在でも社会人野球の中軸的な大会(JABA全国大会)として継続されているのがベーブルース杯。毎日新聞の記者がアメリカでルース氏にインタビューし、本人の承諾も得て始まった大会は1947年からスタートします。その第1回大会は名古屋鳴海球場で11月開催。近畿、東海地区の強豪に混ざって安田商店も参加。ただ、チーム紹介で安田商店だけがなかった(見つけられなかった)のが残念ですが…。大阪の鐘紡淀川との初戦は4回までに4対1とリード。七回まで堅守で失点を抑えていましたが、八回に4安打にエラー2つが絡んで4失点と逆転され4対5で敗戦という結果となりました。
安田商店に在籍したNPB選手は、確認できたところで先述した長谷川良平さん、戦後の新興球団セネタース(今の北海道日本ハムファイターズ)から加わった谷義夫さん、一言多十さん、熊耳武彦さん。日本野球最高峰で活躍した/する人が福井県でプレーし、福井野球の発展に努めました。
どういう経過を経て活動を休止になったのか探り当てられませんでしたが、強い印象を残したチームでした。
“不死鳥”のごとく―福井の総力「全福井」結成
1949年。安田商店がこの年から姿を消してしまいましたが、福井大空襲・福井大震災から不死鳥のごとく復興を目指す熱意は野球にも現れ、牧田太郎氏や後にNPBタイガースの監督も務めた岸一郎氏、NPB名古屋金鯱軍でもプレーした小林利蔵氏を中心として「福井・武生・敦賀3市のスタープレイヤーを網羅する」全福井が結成されます。さらに前年、北陸予選出場権を得ながら辞退した中央線維は山本繊維と改称し、他に全三国、全山仙、この年から加盟の信越化学の5チームが都市対抗福井予選に集います。
全福井の県内初戦はいきなり前年準優勝山本繊維との対戦。序盤は山本繊維が先行しますが四回から七回までで11点を奪い、12安打8四球を得て12対9で勝利。大会初日はもう1試合、は全山仙と全三国の試合も行われ、六回に三国が逆転するも、山仙が六回から八回までで計9点奪い、10対4で逆転勝ち。
翌日は全福井がスタープレイヤー揃いの底力を見せ、準決勝で12対3で信越化学に、決勝では全山仙を10対5で破り北陸予選に進出します。応援団も繰り出して臨んだ北陸地区予選は、前年北陸優勝の大塚産業と対戦。初回に7失点を食らうなど劣勢を強いられ、2対15で敗退。北陸代表は大塚産業が2年連続で勝ち取ります。
後年の牧田太郎氏のインタビューによると、この年富山で行われた選抜大会で東京の強豪小口製作所にあと一歩まで迫るなど、全福井もまた、存在感を示し始めた様子が語られていました。
今回は戦後1946年から4年間の様子を記してきました。次回は1950年代7年間の奮戦を記していきます。