戦後間もなく活躍した安田商店に変わって、文字通り福井の総力を結集した全福井が先頭になって引っ張る福井社会人野球。その間に、大野大喜運送など少なくない挑戦者が現れたものの、長期的な活動に至らず、気がつけば全福井のみが支える状態に。そんな中、準硬式野球で台頭を見せていた敦賀の2チームが硬式社会人野球に参戦する年代を紹介していきます。
第1試合、敦賀セメントが二回にあげた1点をエースが守り切って専売金沢に勝ち決勝進出。第2試合に登場した全福井は東レに序盤から攻勢を許し、四回までに食らった6失点が響いて2対8で敗退。東レは決勝戦でも力の差を見せつけ、敦賀セメントに序盤から攻勢を浴びせ7対0、福井2チーム相手に快勝し後楽園に進出しました。敦賀セメントは一勝したものの、「北陸王者の壁」を実感した大会となりました。
尚、毎日新聞滋賀版6月26日付に気になる記述が。「北陸予選は明年から福井、石川、富山がブロックになるので東洋レは北陸予選に最後の出場となる」という記述でしたが、実行とならなかったようです。
“三つ巴”が熱を高めるも…
1959年には東洋紡敦賀も参戦。例年は春先に行われていた北陸3県社会人野球大会が秋に日程編成となり、5月22日に北陸銀行、専売金沢、敦賀セメントの交歓リーグ戦が開催。敦賀セメントは専売金沢に4対0で勝ち、北陸銀行には0対6で敗戦、1勝1敗という戦績でした。
1959年には東洋紡敦賀も参戦。例年は春先に行われていた北陸3県社会人野球大会が秋に日程編成となり、5月22日に北陸銀行、専売金沢、敦賀セメントの交歓リーグ戦が開催。敦賀セメントは専売金沢に4対0で勝ち、北陸銀行には0対6で敗戦、1勝1敗という戦績でした。
都市対抗県予選は6月7日に行われます。これまで県内の有力選手を集める形でチームを形成していた全福井。その中には敦賀の選手も含まれていましたが、セメント、東洋紡2チームに“移籍”する選手も多く、福井精錬、信越化学など市内軟式企業チームと協力して再編成をして大会に臨むこととなり、武生球場で行われるリーグ戦に臨みます。
第1試合は敦賀セメントと全福井の試合。途中までセメントがリードするものの、七回に全福井がひっくり返し4対3でまず1勝。第2試合は東洋紡敦賀が全福井のをミスに突け込み6対1でこちらも1勝をあげます。第3試合は敦賀市同士の対決。東洋紡が初回に3点を先制。セメントは猛追しますが、終盤に突き放した東洋紡が5対2とし2勝目をあげ、福井県予選初優勝を成し遂げます。
チームともほぼ実力互した戦いぶりを見せ、二次予選進出を決めた東洋紡にセメントから4人、全福井から1人補強選手が入り(当時は二次予選進出チームに一次予選敗退チームからの補強が認められていた)福井県悲願の本大会出場目指し万全の布陣を敷いて臨みましたが、北陸の盟主東レに序盤の先制期を逸すると、三回に7失点、五回に5失点をくらい0対12で敗戦。第一試合で専売金沢に勝っていた東レが北陸地区10連覇を達成。
秋開催となった北陸3県社会人野球大会は9月20日、福井県で開幕。福井県からは敦賀セメント、東洋紡敦賀の両チームが出場。東洋紡は富山電電に敗退も、敦賀セメントは北陸電電相手に五回に5点先制した後の猛追をかわし決勝進出。決勝戦も富山電電を激しく追い上げたものの、日没コールドに泣き、準優勝という結果と相なりました。
エースの逆転本塁打で代表決定戦進出も…
1960年。北陸3県社会人野球大会には敦賀セメント、東洋紡敦賀の2チームが参加。セメントは日本カーバイドに1対3で惜敗。東洋紡は不二越に2対1で競り勝ち準決勝に。電電富山には0対4で敗戦という結果となります。
6月12日に行われた一次予選は再び全福井、東洋紡敦賀、敦賀セメント3チームでのリーグ戦で行われます。第1試合、前年優勝した東洋紡がセメント打線を抑え6対3で勝ち上がりますが、第2試合で全福井が不安視されていた投手陣の奮起で東洋紡に2対0で勝ち、第3試合は全福井攻撃陣が初回6得点と爆発し波に乗り、6対3でセメントを破り県予選4年ぶりの優勝を成し遂げました。
6月19日、金沢で行われた北陸二次予選。全福井と専売金沢との試合は接戦になりましたが、8回に山尾投手が逆転ツーランを放ち2対1で逆転し決勝戦進出。しかし、東レとの決勝戦では5投手が11失点をくらい0対11で敗戦。11連覇を許すと結果となりました。
折角の「三強体制」も…敦賀2チームの苦境と意地
1961年。この2年間3チームが拮抗して上り調子だった福井県社会人野球でしたが、シーズン前に敦賀セメントが解散という憂き目にあいます。5月27日、金沢で開催された北陸3県社会人野球大会には東洋紡敦賀が参加しましたが、不二越に前年のリベンジを食って1対4で敗戦。
この年の都市対抗北陸予選は福井で開催となりますが、先述した通り敦賀セメントは解散、また、全福井も主力選手の欠場で都市対抗の参加を辞退し、唯一東洋紡敦賀が地元敦賀で行われる二次予選に出場します。リーグ戦の第2試合から登場した東洋紡敦賀は電電北陸と対戦。投手戦を演じますが、七回の2失点が響き0対2で敗戦。第1試合に勝っている東レとの試合に全てをかけますが、両チーム6安打ずつの接戦も、三回に食らった2失点が響いて再び0対2で敗れ、東レの12連覇達成を見届けることとなりました。
なお、二次予選開催寸前の7月2日の毎日新聞紙面には、全福井を支えた牧田太郎氏のインタビューが掲載。福井県社会人野球の足跡やチームを運営し続ける厳しさ、社会人野球から後進の指導者を排出した取り組みなどが述べられた貴重な記事となりました。
福井のチームがついにつかんだ「北陸地区優勝」
1962年。この年の北陸3県社会人野球選手権は福井県開催。当初は5月12、13日に開催予定でしたがグランドコンディション不良で延期。5月26、27日に再設定しましたが、26日も雨天中止。富山から参加する3チームは公式戦の日程が詰まっていたため、この大会の出場を辞退し、石川2、福井2の4チーム参加でようやく開幕にこぎつけます。
5月27日、この日も雨に祟られながら試合に臨んだ4チーム。東洋紡敦賀はエース山下投手が専売金沢に競り勝ちますが、全福井は点差以上に内容で差をつけられたと評される試合展開の上、天候にも見放され6回雨天コールドで敗退。決勝戦はさらに1週間延期され6月2日開催。両チーム投手陣をはじめとした鍔迫り合いは9回終わって1対1と勝負がつかず、延長戦に突入。延長12回表に勝ち越した東洋紡敦賀が、その裏の電電金沢の攻撃を封じ2対1、とうとう福井県勢初タイトルをもぎ取りました。
この調子で都市対抗も…と期待されますが、実は北陸3県大会前のチーム紹介で「東洋紡敦賀は都市対抗野球不参加」を早々に表明していました。戦力面でも「主力選手が抜け戦力が落ちた」という記載。この大会の優勝はそういう厳しい状況の中で示した選手の意地と言えるものでしょう。
この後の都市対抗二次北陸予選は全福井が一次予選なしで大会に臨みます。リーグ戦第1試合で専売金沢を破った東レは、第2試合で全福井と対戦。序盤三回は互角に戦ったもの、中盤以降は東レの攻撃陣が力を発揮。七回の6点がとどめとなり0対11で敗戦。東レの北陸地区連勝街道は13となりました。
1963年。5月18、19日に富山で行われた北陸3県社会人野球大会には東洋紡敦賀が参加しましたが、電電富山に序盤から攻勢を許し、5安打を放ったものの得点に結ばず0対9で敗戦。東洋紡はこの年も都市対抗野球に参加することができず、福井からは全福井が直接二次予選に参戦します。
東レ、専売金沢、電電北陸との4チームで争われた大会は初日の7月6日、一回戦で専売金沢と対戦しますが、三回までは0対0だったものの、四回に2失点、六、七回にも点を失い、五回にはチャンスを作ったもののランナーが本塁アウトで得点を逸するなど攻守ともに専売金沢に押し切られ0対4で敗退しました。東レはこの年も優勝し、都市対抗野球の歴史史上でも例を見ない14期連続地区優勝を成し遂げています。
ついに途切れた東レの覇道
福井で行われる二次予選は6月29日開幕。全福井が参加したものの、一次予選を経て乗り込んだ石川、滋賀県勢と勢いに差があり、一回戦では専売金沢と対戦したものの、序盤から攻勢をくらい、六回に2点を返しましたが2対11と大敗してしまいました。
大会自体も波乱が。前年まで14連覇を成し遂げていた東レが、一回戦で電電北陸に0対2で敗戦。石川県勢で争われた決勝戦は電電金沢が専売金沢に9対2で勝ち、都市対抗野球に1934年から参戦して以来、30年目の挑戦で初めて石川県勢が本大会に出場することとなります。
「全国でも数少ないクラブチームの一つ。それぞれ別の職場で働いてる選手たちが恵まれる条件のもとで練習しているそうだが、大差にめげずよく頑張った。今後の健闘に期待したい」―この記述は6月30日に毎日新聞福井版に記されたものです。実際、この頃は社会人野球加盟チームのうち8割近くが企業チームで占められる状態に。1970年代以降はクラブチーム向けの大会というのも作られるようになりましたが、この時期はそのような大会はなく、さらにこの2年前に社会人野球のシーズン短縮、公式戦の整理も行われたこともあり、継続して参加し続けているものの、全福井も厳しい状態になりつつありました。
最終第5章では、全福井、全武生が意地を見せて参加していた8シーズンの様子を記していくこととします。
※表の最後で敦賀セメントが参加した3チームリーグ戦を表記していますが、何年に行われたかの記録を怠ったため本文での記述からは外しています。