MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

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全福井と大喜運送、北陸絶対王者東レに迫る!―「福井社会人野球挑戦記」1950〜1957(3)

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 東レに猛追!全福井の奮闘
 
 1950年は産業構造の変化から企業系の2チームが都市対抗野球から撤退。全福井、全三国、全山仙に3年ぶりに全敦賀が申し込みトーナメントを行う予定でしたが、全敦賀が辞退して3チームのリーグ戦に変更。山仙が三国を19対2で破りますが、福井が三国を15対5、山仙を4対0で破り、リーグ戦を制覇。北陸予選では東レと対戦、延長10回まで善戦するも1対2で惜敗という結果となります。どういう試合だったのか掴みたかったのですが、肝心の毎日新聞福井版が福井県立、国会図書館でも保存がなく、調査が利きませんでした。後年の牧田太郎氏インタビューではこの試合が印象深かった試合のうちの1つと述べています。
 1951年も十分な記述を見つけられず結果のみの記載に。7月1日に行われた県予選には全福井、全山仙に単独チームとしては戦前以来の参加となる丸岡同志会の3チームが参加。リーグ戦は全山仙が5対4で丸岡同志会を破りますが、全福井が丸岡同志会を9対3、全山仙を9対4で破り県3連覇。7月9日に行われた北陸二次予選では再び東レと対戦。今度は打撃戦となりましたが8対10で惜敗という結果となります。
 1952年、都市対抗県予選のエントリーは丸岡同志会と全福井のみ。この2チームの対抗戦は全福井が7対0で丸岡同志会を破り県4連覇となります。この年も新聞からの記録収集が思うようにいかず、福井県で二次予選が7月6日開幕しましたが十分な記録を取れませんでした。全福井が決勝に進んだことは毎日新聞縮刷版から分かりましたが、試合は3対9で東レに敗れ本大会進出はなりませんでした。
 翌1953年は都市対抗野球の開催自体が早くなり、福井県予選は5月31日に開催。参加チームは前年に続き全福井、丸岡同志会の2チームで代表決定戦が行われ、福井が15安打9盗塁と猛攻、10対1で圧勝し5年連続優勝を成し遂げます。7月14日に行われた北陸二次予選では東レと相対しますが、数年の全国経験は東レの力量を高めるものとなり、0対4で迎えた四回に1点を返すものの、六回以降大崩れし1対18の大敗を喫しました。
 
 大野大喜運送など新たな挑戦者
 
 全福井の奮戦も東レの壁もあり、縮小傾向が続いていた福井社会人野球ですが、1954年の大会では継続参加の福井、丸岡同志会に大野・大喜運送(大喜スターズとも表記)、福井OB(全福井のOBではなく、福井市内高校のOB)が参加します。
 当初は6月20日開催予定だった県予選でしたが、雨天順延が重なり、開催は北陸予選前日(!)の7月3日。初戦は対抗馬と目された大野大喜運送と全福井がいきなり対決。序盤は互角に渡り合うも、後半得点が動き始めたが、全福井が七回、九回に集中得点を浴びせ8対4で勝利。福井OB対丸岡同志会の第2試合は両チームの乱打戦となり、丸岡が二回に大量リードを奪ったものの福井OBが七回までに同点、九回の点の取り合いを制した福井OBが決勝進出。全福井と福井OBの決勝戦は、前試合の乱れを締め直した福井OBが躍動し七回にあげた3点で一時は逆転。しかし途中でエース投手が退出するアクシデントもあり、万全な体制を取れなくなった福井OBは八回に勝ち越しを許し、初参加初優勝はなりませんでした。
 優勝した全福井は翌日7月4日、兼六園で行われた北陸予選に参加。石川代表の専売金沢と対戦しましたが、初回に5点奪われる苦しい展開。福井は必死に追い上げを見せたものの、主力選手が国体軟式野球予選出場で欠場したのが響き、4対9で敗れました。
 
 地元開催二次予選で福井勢、東レに屈す
 
 1955年。このあたりから全国各地域でブロックごとの春季または秋季大会が行われるようになります。社会人野球の支部所属と都市対抗野球の予選区割りがズレている石川県、福井県ですが、富山県との北陸3県ノンプロ大会が前年から開催。福井県勢は55年から参加、大野の大喜運送が出場します。6月7日に行われた試合、大喜運送は一回戦シーソーゲームの末8対7で富山電通に勝利。翌日の準決勝では北陸銀行に1対6で敗戦も地歩を築きました。
 その1週間後に行われた都市対抗福井県予選は大喜運送、全福井、福井OBの継続参加3チームに5月に硬式に転じたばかりの福井電通の4チームが参加。福井新聞の予想では「全福井が他チームより一歩先んじている」と見られていましたが、勢いに乗っている大喜運送が猛追。一回戦、毎回得点の猛攻で福井OBに20対9で勝利。第2試合は“若さの電通”に煽られる場面もあった全福井が、九回の5得点でとどめをさし12対3で勝利し、この時点で北陸二次予選進出は大喜運送、全福井の両チームに決定。赤獅子旗(県大会・一次予選優勝)をかけた決勝戦は全福井が先制するも、大喜運送がペースを握り、四回までに8対3でリード。八回にもダメを押して新王者誕生と思われたが、全福井が九回に追いつき延長戦に。十回に4点をあげ、13対9と大逆転で県予選7連覇を成し遂げました。
 7月3日、地元福井で開催された北陸二次予選には滋賀から絶対王者東レ、石川から専売金沢が乗り込み、地元2チームが迎え撃つ形で開催。春先からの勢いを東レにぶつけに行った大喜運送、安打数では互角だったものの7エラーが響き1対8で敗退。全福井は三、七回にあげた得点を好継投で切り抜けて専売金沢を5対4で破り決勝進出。
 決勝戦、全福井は東レに臆せず立ち向かい、4回に一度追いついたものの、東レの分厚い攻撃の前に点差を広げられ、1対6で敗退。しかし全国の経験を重ね強さを増している東レに福井の両チームが食らいつく姿を3000人の観衆の前に見せることはできました。
 
 再び全福井のみ前線に―予想外の没収試合遭遇。
 
 1956年。北陸3県社会人野球大会は福井県で開催。福井からは全福井と大喜運送の2チームが参加。全福井が専売金沢に1対4で、大喜運送は北陸銀行に1対7で敗戦という結果に終わります。
 6月26日に行われた都市対抗野球県予選はここ数年参加していた丸岡同志会、福井OB、福井電電が参加せず、全福井と大喜運送で代表決定戦を開催。大喜運送は11安打を放つも得点に結びつけることができず、逆にエラーに付け込んだ全福井が序盤の5得点が効いて大会8連覇を成し遂げました。
 7月8日に行われた北陸予選では予想外の出来事が起きます。
 この年は滋賀開催で当初7月1日開催予定も1日、2日共に雨天順延で一週間延期しての開催。全福井は緒戦、滋賀県第2代表として出場した全大津と対戦。全福井が7対4とリードして迎えた五回裏、全大津が判定に不満を持ち全員がベンチに引き上げ、滋賀県連盟理事長の試合続行勧告を拒み退場・放棄試合となってしまいました。
 この時期は野球に対する熱意が暴走という形で表れてしまう事態が頻発。二次予選だけでも北関東で審判の判定、東北・岩手で日没コールドの判断を巡り応援団が介入する事態も起き、一次予選にまで拡げると判定の抗議にバットを持って迫る行為も。前年の山梨・静岡予選決勝戦大昭和製紙日本軽金属では日軽が放棄試合をし一年の出場停止に。試合放棄をした全大津はこの後10年近く、社会人野球の表舞台から姿を消すこととなります。
 予想外の形で決勝に進出した全福井は東レとの代表決定戦に臨みますが、初回だけで投手3人をつぎ込む猛攻をくらい7失点。チャンスは作るものの点を奪えず0対13でこの年も決勝戦で敗退となります。
 1957年。この数年間賑やかに行われてきた福井県予選でしたが、この年は全福井以外のエントリーがなく無条件で2次予選進出。6月30日に行われた北陸二次予選では金沢鉄道局との対戦。県予選での実戦がなかったのは響いたのか、序盤から複数失点をくらい、五回と八回に1点を返したものの、2対8で敗戦という結果となりました。
 なお、この年の北陸3県社会人野球大会に関しては資料を取得できなかったので、記述保留とします。
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 存在し続けた全福井の意義と敦賀チームの参入
 
 戦後、福井県に限らず多くの地域で有志が集ったクラブチームが社会人野球を支えましたが、経済成長に伴い財力に秀でた企業がバックアップする実業団チームが社会人野球を席巻。地域の有望選手を集める実業団・企業チームと裏腹に、その実力に対抗しきれなくなったクラブチームはその数が少なくなっていきます。全福井が、東レに跳ね返されながらも強力に県トップクラスの力を維持し続けられたのは、福井県の野球を支える人たちが、文字通り“全福井”の力を結集して活動したことが原動力になっています。
 この時期の福井県の準硬式、あるいは軟式野球の資料を付属的に保持してきましたが、その中には丸岡同志会や福井国検など硬式社会人から活動の場を移したチームや、福井精錬(いまは福井セーレン)といった2023年時点でも実力を発揮し続けているチームもあります。そして、敦賀セメントと東洋紡敦賀の2チームが、準硬式での経験を経て社会人野球に参入。一つの旋風を巻き起こすこととなります。
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