MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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奈良鉄道・三笠クが本大会に迫る―など1932〜47年の活動を記録す。「奈良県社会人野球挑戦記」前編。

 プロローグ―29シーズン目の光景
 
 2023年シーズンを前に、現在埼玉県にチームを持っているSUNホールディングス野球部が奈良県に新チームを作ると発表しました。これで奈良県では2005年に活動休止したミキハウス以来18年ぶりの企業チーム設立となります。加盟となれば参加チームも10となり、復活して以来29回目のシーズンとなる奈良県社会人野球、ますます賑やかなものになりそうです。
 奈良県の社会人野球といえば大和高田クラブがすぐに浮かびます。クラブ野球選手権は5回優勝。2009年には近畿地区予選を勝ち抜いての日本選手権進出で本大会8強、2010年には都市対抗野球本大会にも出場する力量のあるチームです。
 他のチームもただ座していたわけではなく様々な階層、地域、活動形態から存在を見出し、硬式野球をする人の必要な場として活動しています。1995年に奈良産大OBクラブ(いまの関西HANG)が日本選手権近畿予選に参加し、38年ぶりに奈良県のチームが社会人野球に帰ってきて以来、13チームが賑やかに活動してきました。

 では、“その38年前”まではどうだったか、というと…1932年から1956年までの活動は、一度都市対抗野球本大会に出場した経験を持ちましたが、総じては「苦戦しながらも存在を示し続けた時期」。それでも、確かにその場で野球に情熱を傾けた姿はあったわけで、拙い筆致ではありますが、新聞から拾ったその模様を記して参ります。
 
1.都市対抗野球奈良県勢登場/事実上の県予選「県下硬式大会」について
 
 硬式野球そのものは明治30年代の頃から行われていましたが、当時の中学野球では和歌山県と一つのブロックを形成。和歌山県のチームが全国的にも強豪と言われた時期で、奈良県勢はその牙城に阻まれることが多く、甲子園初出場は1933年の郡山中学まで待つこととなります。中学野球では一歩先んじられていましたが、社会人部分の野球ではそれぞれに発展を遂げ、奈良県内では奈良鉄道チームが一歩抜きん出た力を持っていたようです。
 奈良県のチームが都市対抗に初めて挑戦したのは1932年。県下硬式野球大会の優勝チームを都市対抗野球の近畿予選大会に送り出す形式を取りました。大会には郡山中クラブ、生駒クラブ、三笠クラブ、宇陀中クラブ、高田体協の5チームが参加。初戦を27対0で勝った三笠クラブと2試合で26得点の攻撃力を持つ郡山中倶楽部が決勝で対戦。2対0で接戦を制した三笠クラブが優勝し、近畿大会に初参戦します。
 近畿大会では全京都と対戦。二回に先制するものの、その裏に全京都に逆転を許し、五回ツーアウトから三塁打→相手暴投で生還し同点、試合はこの後延長戦にもつれる熱戦。十一回に相手のスリーベース後犠牲フライでサヨナラ負けとなりましたが、この時登板していた村井投手の力投は、この後2年間の躍進を予感させるものとなりました。
 尚、県下硬式大会は1日で開催されていた様子で、郡山中クラブは一回戦、準決勝、決勝戦と1日で戦い、3連戦となった決勝戦ではさすがに疲れて敗戦してしまいました。奈良県立図書館では当時の奈良日日、大和新聞、大阪毎日新聞奈良県版とありましたが、限られた調査時間の影響で、1928年〜1931年(推測)までの4大会、1934年以降の県内大会を追いきれませんでした。
 
2.三笠倶楽部、2大会連続で「あと一歩」まで迫る!
 
 1933年の県体育連盟主催県下野球選手権は奈良鉄道、郡山中倶楽部、宇陀中クラブ、畝傍中倶楽部、オール丹波市の5チーム参加で開催。前年同様一回戦から登場した郡山中クラブがメンバーを多くして連戦対応力を高めて参加。準決勝を控えメンバーで乗り切るつもりが、オール丹波市の猛攻の前に序盤からレギュラーを出さざるを得ず策が瓦解。結局は前年同様1日3連戦となり、初戦を五回コールドで勝ち上がった奈良鉄道に敗れる結果となりました(ここまで大和新報6月12、13日記述より)。
 近畿大会は7月3日から6県代表6チームで争われ、初戦は京都・福知山鉄道と対戦。初回に5点を先制しましたが、福知山に二回までに追いつかれ、以降は投手戦となりましたが、延長十回表に相手のミスから勝ち越し点を奪いそのまま逃げ切り初戦突破。
 準決勝は兵庫県の三菱生野鉱山に5対0で勝ち決勝進出すると、決勝は前年に全国大会初出場を果たしている大鉄吹田との「鉄道対決」。実績で一歩先んじられている吹田に序盤から攻勢を受け、六回までで0対5とビハインド。七回に1点を返しましたが6エラーが響き、全国に届きませんでした。
 
 再び頂点をめざし戦うも…
 
 翌1934年は県内大会の動向をつかめませんでしたが、引き続き三笠クラブが推薦で近畿大会に参戦。初戦優勝候補と目されている全京都との対戦では、二回にエース村井自ら三塁打プラス相手エラーでホームを踏み先制。六回にも押し出しで追加点を挙げると全京都打線を完封。準決勝の全大津戦は先制のチャンスをホーム空過で逸するなど1対2で迎えた六回、5安打3パスボールをからめて一挙8得点を挙げ逆転。最終的には10対3と快勝し決勝に進出しました。
 決勝は再び大鉄吹田との決戦。事前の練習試合では9対5で勝っていただけに意気込みを見せ、序盤は3対4と競り合いましたが、五、六回に5失点を奪われ、七回までに8対8と同点に追いつきましたが、八、九回に8失点で万事休す。9対16で敗れ、2年連続で大鉄吹田に全国大会進出を阻まれてしまいました。
 それでも、ここまで中学野球では和歌山県勢に押され気味だった奈良県の野球が、都市対抗という舞台で全国まであと一歩まで押し返したというのは、その後の発展につながったものと思われます。
 
3.苦戦はおろか、参加にも苦しんだ昭和10年代。
 
 都市対抗野球の認知度も上がり、野球そのものもとうとう職業野球が成立するまでに。我も我もと立ち上がる様子は、上位進出のハードルをさらに高めることとなります。
 35年も三笠クラブが奈良県推薦として近畿予選に参加しますが、2年前のリベンジを図る全京都が立ちはだかります。初回に4点を先制されると、五回に2点返しますが、以降6失点を奪われ、打線も3安打のみで2対10で敗退と相成りました。
 1936年はこれまで三笠クラブ名義で参加していたものを奈良鉄道と銘打っての参加となります。この年は都市対抗野球10回記念大会となり、出場枠がそれまでの16から20に拡大。近畿地区は前年、千里山鉄道クラブが初出場。奈良鉄道は復活出場目指すライバル大鉄吹田と初戦で対戦。三回に4点先制され、その裏に反撃を企しますが1点のみ。七回に2本のタイムリーヒットで3点を返し追いつきますが、八回に5点奪われ逆転されてしまいました。当時は選手の異動サイクルも早く、2年連続決勝に進出した際のエース村井選手は出場メンバーに名前がなく、代わった投手陣がこれまでのように踏ん張れませんでした。
 1937年。大阪毎日新聞奈良県版では「代表は奈良鉄道」という表記でしたが、近畿予選のエントリー表では「三笠クラブ」表記に。初戦で対戦したのは滋賀県の大津青嵐会。旭ベンベルグ工場野球部としての性格を持っていたチームとの対戦は、試合の入りに苦しみ、初回ツーアウト後に5失点を奪われる展開となり、三回と六回に1点ずつ返しましたが、大津青嵐会の牙城を崩せず2年連続の初戦敗退となりました。なお、大津青嵐会はこの年都市対抗本大会に出場することとなります。
 
 41年、全郡山が都市対抗に挑む
 
 この後、1938年から1940年の間、奈良県チームによる都市対抗出場歴が見えませんでした。実はこの年から数年間、全国各地の鉄道局チームが都市対抗野球に不参加という状況になり、奈良鉄道もそれに倣ったものと思われます。戦争拡大の世の中もあり、新たに参加チームを送り込む余裕をなくした3年後1941年に、郡山中学OBを中心に編成した全郡山が大会参加に名乗り出ました。
 1941年7月2日の大阪毎日新聞奈良県版では出場メンバーが決定した旨の新聞記事が記載。7月4日から始まった二次近畿予選では、京都府舞鶴工廠に12対7で勝ち、準決勝の日鉄広畑には0対7で敗れましたが、善戦を見せました。大会結果を報告する大阪毎日新聞奈良県版では「組織だった後援団体によって取り組みに拍車をと」いう記述もありましたが、戦争の拡大はそれを許しません。1941年の都市対抗野球本大会は出場チームが決まった7月下旬、集会規制により中止となりました。
 翌1942年、大会は「意気発揚」のために開催が決まりましたが、同時に
・原則二次予選のみ、そこには前年一次優勝チームが出場。
・ただし廃部や編成困難、互した技量有したチームがある場合は(各県の責任で)選考大会を開く。大方は「実業野球大会」などと銘打って開催
 以上形式で行われました。が、奈良県からのエントリーはなし。都市対抗野球もその歩みを止めることとなります。
 
4.戦後初期の奈良社会人野球を支えた全五條はじめとした野球人。
 
 大日本帝国が起こした戦争が1945年8月に終わり、球音が帰ってきます。
 1946年6月21日付の毎日新聞奈良県版で、県予選開催の一報があり、28日付紙面には30日に橿原運動場で行われる組合せが掲載されました。しかし雨天で7月7日に順延となり会場も畝傍中グラウンドに変更。前回優勝扱いの全郡山に全五條、全畝傍(うねび)、野原クラブの4チームで、初の都市対抗野球県予選大会が行われました。
 第1試合は地元全畝傍が攻撃力を発揮し、野原クのエラーも重なって10対4で勝利。第2試合は「事実上の決勝」全郡山と全五條の試合でしたが、五條がまんべんなく加点し6対0で勝利。決勝は畝傍が先制しましたが、五條が三回に逆転すると、五回に8得点のビッグイニングを作り、15対1で圧勝し戦後初代王者に。
 7月12日に西宮球場で行われた近畿予選では兵庫県代表の掘抜帽子と対戦しましたが、初回6失点、六回に4失点と二度大量点を失ない、反撃も出来ず七回コールドで敗退という結果となりました。
 翌1947年、6月7日の毎日新聞奈良県版に開催要項が発表、25日に抽選が行われ前年優勝の全五條に橿原クラブ、新規出場の高田シェーバーリングと天理クラブが出場することが決まりましたが、開催日の6月28日が雨天となり7月3日に延期。
 第1試合、前年度優勝全五條を相手に高田が先制するも、全五條が二回に逆転。以降も小刻みに加点し初戦突破。第2試合は橿原が先制するも、天理が三回までに逆転、さらに得点を積み増し大勝し決勝に進出。7月4日付の毎日新聞では上記2試合のみの記載となりましたが、奈良日日新聞に決勝戦の記述があり、全五條が天理クラブを6対4で破り県2連覇を果たしました。
 7月12日から始まった近畿予選、全五條は13日に行われた二回戦から登場。前日に1勝を挙げた前年近畿地区代表の海南日東紡和歌山県)に序盤から攻撃を許し、五回、七回に1点ずつ返したものの七回コールドで敗退と相成りました。
 戦後直後の記事は多く書かれず、また新聞の保存も散発的な部分があり全容をつかむには至りませんでしたが、戦後直後は全五條が奈良県の野球を支えていた様子が見えました。


 前編は戦前から戦後直後の部分について記してきました。次号はこの記述の中で一番の山場となる「1948年八木中和クラブの都市対抗野球本大会出場」含む3年間を記していく予定です。
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