MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

下記ランキング参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村
社会人野球ランキング

天理クラブ、前川蒲団、積水化学…51〜56年の奮闘。「奈良県社会人野球挑戦記」後編。

7.天理クラブ中心の51〜54年活動記
 
 ―51年の熾烈な予選
 
 1951年の都市対抗野球には前年度優勝の日紡高田、全奈良が転じた奈良クラブが引き続き参加。天理クラブがこの年の2月に40年代参加チームとはとは別に編成・新登録。天王寺管理局大和クラブ(以下本稿では「天王寺大和ク」)が新たに参加し、4チームで行われました。
 6月28日の紙面では翌29日に郡山桜花球場で行われる県予選の組み合わせが掲載。一回戦の組み合わせは天理クラブ対全奈良、日紡高田対天王寺大和クラブに。クラブ2チームは「年に1度の硬球大会(で不利)」という紹介がなされる一方、日紡高田と天王寺大和クは常時硬式ボールを握っている様子が記されていて、後者2チームの対戦は「県予選の優勝戦」という紹介がなされていました。
 6月29日、雨の中始まった試合。日紡高田が初回に3点先制するも、天王寺大和クが九回に3対3と同点にしましたが、九回裏、日紡高田の下位打線が奮起しサヨナラ勝ちと、前評判に違わない好ゲームを見せました。第2試合以降天候が悪化し延期。7月5日に会場を天理グラウンドに移して残りの日程が行われます。
 第一試合はクラブチーム同士の決戦。天理クラブが小刻みに点を重ねなら、奈良クラブを五回の1点のみに抑え決勝に。決勝は「事実上の決勝」を制した日紡高田が待ち受けていましたが、勢いに乗る天理が二回までに3対0とリード。日紡高田が五回までに追いつき、七回に勝ち越したものの天理クが終盤に再び逆転し、事前の予想を覆しての県大会優勝となりました。
 この勢いを近畿大会に持ち込みたかった天理でしたが、どうもこの年の奈良社会人野球は雨に泣かされる傾向が強かったようで、鐘淵化学に6回雨天コールド0対8で敗退となりました。
 
 天理、近畿大会で奮戦。
 
 1952年は前年優勝の天理クラブと、田原本町から2年ぶり出場の田原本クラブで県代表権を争います。初回と六回に適時打でリードした田原本でしたが、天理は八回、無死満塁から4点を挙げ逆転し2年連続優勝。7月12日に日生球場で行われた二次予選でも日鉄広畑相手に七回まで0対0と接戦演ずるも、八回に5失点を奪われ敗退。打線が1安打に終わったことから打線の強化が課題として残りました。
 1953年、参加を表明したのは天理クラブ改め天理OBクラブのみ。近畿二次予選前には天理OBクラブを応援する新聞記事も載りましたが、近畿予選では海南日東紡に0―2と惜敗します。
 1954年も唯一の参加表明となった天理OBクラブが推薦出場。この年は近畿からの本大会出場枠が2となり、予選を京都府・兵庫で北近畿ブロック、大阪と奈良、和歌山(不参加)で南近畿ブロックと別けられての開催。7月6日、日生球場で行われた松下電器との試合で、松下打線を被安打5に抑えるも3失点。打線が高度化する野球についていけず4安打完封負けと他県強豪を覆せませんでした。(上記は毎日新聞奈良県版を基にした記述。社会人野球連盟報では松下5―3天理と記されていました)
 天理クラブは1955年シーズンを前に硬式チームを解散しましたが、この4年間、奈良硬式社会人野球の屋台骨を支えた存在としてその活動を評価されるべきものと思います。
 
8.積水化学、前川蒲団―新たな挑戦者
 
 前述の通り天理OBクラブが活動を終了。1955年都市対抗野球県予選では奈良市積水化学と五條町(当時)前川蒲団の両者が大会にエントリーします。積水化学のホームページが近年更新されまして、「県連盟からの要請があった」と経緯が書かれています。その要請に応えようと厚い戦力を用意した積水化学。一方で前川蒲団も、地域有力企業の意地を見せんと準備し、橿原球場で行われる三本勝負の県予選に臨むこととなります。
 6月26日、前川蒲団は3人投手を用意していましたが、2投手がアクシデントで登板できず、若干17歳のエースが孤軍奮闘したものの、積水化学は第1試合で8対0、第2試合は19対1と前川蒲団を圧倒し、二次近畿予選に進みます。しかし7月9日に行われた近畿予選では、鐘渕化学に初回7失点、五回を除く毎回失点くらい、二回に1点返しましたが、1対15で敗退しました。
 6月28日の毎日新聞奈良版に、社会人野球奈良支部長の中島駒次郎氏が講評を寄せ「県内社会人野球はすこぶる低調だが、そろそろ強くなって良い時期」「練習を積めば一流チームにも太刀打ちできる」と述べ、社会人野球の拡大を訴えました。
 
 積水、決勝リーグ進出も…
 
 しかし、中島支部長の訴えが残念ながら実に向かわず、1956年時点で登録は3チームでしたが前川蒲団も日紡高田も参加せず、積水化学が県連盟推薦で7月2日から始まった近畿予選に参加します。
 近畿からの出場枠が1954年から2に増えていましたが、これまでの純粋なトーナメントから、参加8チームを4チームに絞り込んだうえで4チームリーグ戦→上位2チームが本大会出場という形式がとられていました。
 積水化学は兵庫・播磨造船と対戦。初回3点を先制するも、三回に追いつかれ、小刻みに追加点を挙げるも七回に再び同点にされたが、七回裏に三度突き放し7対5で勝利、決勝リーグ戦に参戦。
 決勝リーグ戦に進んだ他のチームは大鉄吹田、松下電器、富士鉄広畑。長年奈良チームの壁であり続けた大鉄吹田には常時先行され、七回に1点返したが1安打に抑えられ1対7で敗戦。翌日の松下電器戦では序盤に奪われた4失点が響き、攻撃陣も4安打のみで得点を奪えず0対4で敗戦しこの時点で予選敗退が決定。せめてもの意地を、と目論んで臨んだ富士鉄広畑戦でしたが、この試合も二回までに奪われた4失点を攻撃陣が追いきれず、この試合も0対4で敗戦。決勝リーグ3試合で7安打という攻撃力不足に泣いた大会でした。
 そして、この年で奈良県の硬式社会人野球の歴史が一旦途切れることとなります。

f:id:b-itoh1975:20230325000632j:image
 エピローグ―戦った足跡は長い時を経ていまにつながる。
 
 積水化学はこの2年間の大敗からチーム編成を見直すこととなり、1957年からは京都市で新たに活動することになります。新生積水化学野球部は1959年に都市対抗野球本大会に初出場すると、その後6年連続本大会に出場。1963年には本大会優勝という偉業。その後クラブチーム化した1966年にも「全積水クラブ」として出場し、その翌年に活動を終えることとなります。
 一方、日本社会人野球連盟報では前川蒲団や日紡高田のチーム登録はされていた様子はありましたが、実戦参加の様子をつかめず、1958年連盟報記載のチーム一覧では記載なし。1959年3月30日までにチーム登録を抹消したことになり、この後長く社会人野球の足跡が途絶えます。
 1989年の都市対抗野球60回大会記念で掲載されていた特集「球宴マップ」では、八木中和クラブが出場した様子と、積水化学野球部の活動が後の全国制覇につながった様子を中心に記述。当時の県軟式野球連盟の常任理事は「中和クラブの伝統を受け継いでいきたい。硬式のクラブチームが復活できれば」というコメントがされていましたが、そこから6年の時を経て1995年に復活します。
 企業チームであるミキハウスや「大和高田市を背負ったチームを」と意気込んだ大和ガス中井隆男社長が設立した大和高田クラブを中心に活動が進められ、今では常時8チーム以上が活動(活動開始表明)をしています。
 2023年3月25日からは都市対抗野球県予選大会が開催。クラブ9チームが集まり今年の戦いが始まります。例年はクラブ野球選手権県予選と併催で行われていましたが、今年はクラブ野球選手権はまた別の大会で予選が行われる、とのこと。課題に向いて物事を進めようという意思も見える奈良社会人野球、これからも「働きながら、野球を通じて自分の存在価値を見出せる社会人野球」を発展して頂ければ、と願うものです。
 
      2023年3月25日 伊東 勉記
 
参考にした新聞:毎日新聞、奈良日日新聞、大和タイムス、大和新報、朝日新聞
参考にした雑誌:日本社会人野球連盟報
下記ランキングに参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村