MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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社会人野球の記録 杵島炭鉱2度の後楽園、自衛隊目達原の産別出場-存在感も示した佐賀県社会人野球第1期。

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 現在佐賀県で社会人野球の活動をしているのは佐賀魂(スピリッツ)1チーム。2005年クラブチーム拡大期の中でできたチームで、クラブ選手権本大会出場を一度経験しています。九州地区で長く“不遇”の位置にいることの多い佐賀県社会人野球はどんな歴史を刻んできたか。急遽調べもの対象にした佐賀の第1期活動(~1969年)の足跡を調べてみることとします。

1 黎明期→杵島炭鉱・全唐津2強の戦いに

 1927年に始まった都市対抗野球、認知度が高まるにつれ参加チームが増加。各地で予選が開催されるように。佐賀県のチームは1932年鳥栖鉄道が初参加。1936年に大町杵島炭鉱も参加し初の県予選が行われ杵島が勝利。九州予選でも佐賀県勢初の一勝を挙げることとなります。1937年には有田チームも参戦し3チームリーグ戦で県予選。その後鳥栖鉄道が欠場した時期もありましたが、基本的に杵島炭鉱、鳥栖鉄道が佐賀社会人野球を支える状態でした。

 大日本帝国の戦争が終わり、1946年に社会人野球が復活。戦前から活動する鳥栖鉄道、杵島炭鉱の他に唐津の野球人で形成する全唐津が新たに参加。その全唐津が初参加いきなり優勝を成します。

 1947年には佐賀クラブも参加。この年から九州予選は福岡・佐賀・長崎ので北九州地区、熊本・大分・宮崎・鹿児島で南九州地区の2地区に別れて予選を形成します。1949年までに佐賀クラブと鳥栖鉄道が活動を休止。2リーグ制になってチーム増加したプロ野球に人材を輩出した全唐津と杵島炭鉱の2チームが佐賀野球の代表として活動することとなります。

2 1952~53年 杵島炭鉱都市対抗本大会出場

 杵島炭鉱・全唐津の2強対決は佐賀の野球界を賑わすものとなり、1951年都市対抗県予選は3勝先取5回戦で、1952円は2勝先取3回戦で行われます。この間に九州地区の予選地区割は大きく変動し、北九州地区は福岡県のみ。それ以外の6県が南九州地区で、この年から当時アメリカ施政下の沖縄が戦前通じてはじめて都市対抗野球に参加します。その沖縄の都市対抗初試合は杵島炭鉱が相手となり12対5で全那覇に勝利、その勢いをかった決勝戦も鹿児島鉄道に勝ち抜き、佐賀県勢初の本大会進出。本大会では京都クラブと対戦、延長13回まで戦いましたが0-2で惜敗しました

 1953年も杵島炭鉱が勢いに乗り続け、長崎三菱造船所、熊本鉄道に競り勝ち、鹿児島市電には大勝し再び本大会出場。直前の豪雨災害を超えて3日がかりで東京に。地元からの応援団も多くは派遣できない状況の中臨んだ本大会は、前年優勝の全鐘紡と対戦しましたが、0-3で敗退という結果に終わりました。

 この2度の都市対抗本大会進出は、大町町杵島炭鉱の熱意を野球で表したものとして、大きく印象に残るものとなります。

3 杵島、全唐津撤退と全佐賀の挑戦

 大町の熱意を発揮した杵島炭鉱の都市対抗本大会出場でしたが、その後わずか数年で産業構造が変わり杵島炭鉱野球部は解散に追いやられます。その後地道に活動してきた全唐津に加えて、1960年には佐賀市内の有志で全佐賀野球団が結成。全唐津と2勝先取3本勝負の予選を戦い、新しくできた熱意そのままに全佐賀が優勝を勝ち取ります。この年は都市対抗二次予選が佐賀県で行われることとなり、全佐賀、全唐津2チームともに二次予選に出場。唐津は初戦敗退でしたが、全佐賀は手負いの全宮崎に勝ち、準決勝の鹿児島市電にも0対1で善戦し足跡を残しました。

 戦後直後から長年佐賀の社会人野球を支えた全唐津は60~61年にかけて活動休止となります。

4 「産別」4度出場、都市対抗もあと一歩まで迫った自衛隊目達原

 全佐賀1チームになった状態に新たに加わったのが自衛隊目達原チーム。60年代前半は全国各地で自衛隊チームが社会人野球に参戦。九州地区では西部目達原が1962年から参加、全佐賀との3本勝負を制して九州予選に進出。この時期の陣容は「投手や捕手も“昨年まで野球をやったことのないものばかり”(新聞記事)」という中、佐賀県を超えた部分での戦いに臨み経験を積みます。

 当初、都市対抗は九州地区予選で苦戦を強いられますが、産業別対抗大会では一足早く官公・公社部門で本大会に出場(1964年、1966年。全自衛隊として)。その経験が都市対抗でも発揮されたのは1967年。初戦は開催地三菱重工長崎との対戦でしたがそれを破ると、準決勝では電電九州も2対1で破り決勝進出。決勝こそ日鉱佐賀関に0対6で敗れますが、大きい存在感を見せることとなりました。

 その後産別での官公・公社部門では予選を勝ち抜き、67年から3年間は目達原単独チームとして出場。本大会ではサッポロビール、全大昭和製紙(静岡と白老の連合チーム)、電電東京に敗戦しますが目覚ましい戦いを見せます。

 こうして地歩を築いてきた自衛隊目達原ですが、1970年からはその足跡が途絶えることとなります。1960年代前半にできた自衛隊チームの多くは早々に活動を閉じ、空自千歳が2回日本選手権本大会に出場というのを別にすれば、青森、福島(共に2023年で活動終了)、防府といったチームが長く活動していますが、千歳以外の主要大会代表決定戦進出は1997年日本選手権の自衛隊青森とこの目達原の例があるのみ。希少な経験を積んだ自衛隊目達原の休止以降、佐賀社会人野球の歩みそのものも止まることとなります。

5 『ビクトリー』掴むために『スピリッツ』抱いての活動-佐賀県社会人野球第2期。

 

 1970年に途絶えた佐賀県社会人野球。その後36年の時を経て、文頭に書いた通り佐賀魂が活動を始めます。クラブ野球選手権では九州地区の本大会進出枠が1ということもあり、上位大会に進出する間口は狭いものがありますが、地元学校との連携など工夫を凝らしてた活動が続けられ存在感を見せています。

 もう1チーム、野球をする人の間口を広げるために、と作られたビクトリークロウというチームも活動していましたが、こちらは残念ながら数年の活動のみで撤退ということに相成りました。

 佐賀県に関しては調査が後発のため、第2期の活動に関しては一切の記録をしていません。杵島炭鉱が2度の本大会出場していますが、全般的に硬式社会人野球の部分では苦戦を強いられている地域。それでも地道に活動しているチームが長く存在しているので、いずれその熱を高めることはできるんじゃないかなと思って、佐賀魂の活動に注目し、同時にそこまで持ってきた先達のチームの足跡を残そうとは考えております。

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 中間報告的「社会人野球の記録」、このあとは山形県福島県の記述を予定しています。

社会人野球の記録・鳥取県社会人野球-米鉄、王子、キタロウズ3チームの足跡をたどる。

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 社会人野球調べ物の中間報告記事、ここまで島根の裏話→鳥取の裏話→山梨1960年代まで概要→青森“第一期”と書いてきまして、ここでは鳥取を記します。幾度か書いてきた通り、鳥取の社会人野球は米子鉄道局→王子製紙米子→鳥取キタロウズの3チームが主な活動チーム。今回の記事ではここまでとらえた部分での記述を記していきます。

1 米子鉄道局時代-中四国地区3連覇の偉業

 1927年・昭和2年に始まった都市対抗野球、山陰地方でも1931年から予選が始まりました。当時の中国・四国地方予選は岡山・広島・山口の3県で山陽地区、鳥取・島根の両県で山陰地区と区割りがなされていました。鉄道チームが各地で“随一の強豪”にのし上がっていて、山陰地区でも唯一の職域チーム米子鉄道局が境実業団や全鳥取など他の地域発のチームを圧倒。1933年には中国地区代表決定戦に進出。1934年から36年までは3年連続で中四国地区の代表を勝ち取りました(本大会では34年、35年満州倶楽部、36年全大阪に敗退)。

 黄金期を築いていた米子鉄道局ですが、鉄道チームが1937年から都市対抗野球不出場。併せて日本の戦況が深化したことから野球に対する目線が厳しいものとなり、「野球排撃論」が唱えられる世相に。山陰地方の両県ははその波にいち早く乗り、盛況を示していた高校野球も1940年あたりから足跡が見えなくなってしまいました。社会人野球でも1938年から足跡が見えなくなり、エントリーはされた大会はありましたが実際の試合に臨むことができず、そのまま大日本帝国の戦争終了まで突き進むこととなります。

2 戦後直後-米子鉄道局に挑んだクラブチーム

 戦後野球も再開されますが、鳥取県では硬式社会人野球にまでその威光が届くことがなく、戦後数年は米子鉄道局が単独で挑むことに。1949年あたりから数年間は地域発クラブチームも参加して県予選が開催されます。

 この数年間に参加したチームは全鳥取、全米子、全倉吉、鳥西クラブ(鳥取西高OB)。1950年の日本海新聞では「鳥西クが優位」という記述がありましたが、長年トップクラスの位置で戦い続けてきた意地を見せ米子鉄道局が優勝。1953年は鳥取でニ次予選が開催され、全倉吉、鳥取西クラブも直接ニ次予選に直接臨みますが、全倉吉は東洋紡岩国に敗退、鳥取西は雨天延期に対応できず棄権という結果に。これらクラブチームはその後活動継続できず、米子鉄道局のみが中国地区の強豪に挑むこととなります。

3 山陰の雄としてあと一歩まで迫るも…米鉄活動終了。

 鉄道に関する環境が激変する中、米子鉄道局野球部は山陰の雄としての誇りを持ち戦い続け、1957年中国予選では代表決定戦に進出します。一方で1959年東中国予選(記念大会で中国地区枠1増。岡山、島根、鳥取で東ブロック、広島、山口で西ブロックに)では島根の大社クラブに敗戦するという浮き沈みも経験。1961年には5県代表チームのリーグ戦で3連勝し王手をかけるも倉レ岡山に敗退するなど、あと一歩で「4度目の本大会出場」の夢はもぎ取られ、1965年あたりに始まった国鉄の規模縮小の影響から中国地区の国鉄チーム2つ-岡山と米子は1966年春までに活動終了となります。

4 1984~98年 王子製紙米子活動期

 1984年。

 19年ぶりに鳥取社会人野球活動チームが現れます。その名は王子製紙米子。当時の中国地区の社会人野球は山口、広島、岡山の山陽3県で行われていて、島根は活動休止。基本各県単位の一次予選は岡山県と共同で行われることとなります。

 当時の岡山県川崎製鉄水島(現JFE西日本)、三菱自動車水島(現三菱自動車倉敷オーシャンズ)という強力な2チームが在籍。84~96年の都市対抗野球・日本選手権一次予選は、参加チーム総当たりリーグ戦でを行いますが、王子製紙米子が一次予選で勝ったのは

1984都市対抗 3-2 三井造船玉野

1984年日本選手権8-0 三井造船玉野

三井造船玉野はこの年限りで活動終了

1988年都市対抗 5-4 川崎製鉄水島

1994年日本選手権4-3 三菱自動車水島

 4試合と苦しい戦いを強いられました。それでも地方大会では存在感を見せることもあり、1990年の徳山大会では準決勝進出。1993年には新王子製紙米子と名称が変更。

 1997年には島根県の島根商科専門学校が社会人野球に参戦したため、約60年ぶりに都市対抗“山陰予選”が復活。島根商科専門学校には優位に立ち、創部初の都市対抗野球二次予選に進出。チーム結成してから十数年経ち、一定の力量を示し始めたチームは97年、98年の徳山大会で準決勝に進出する成果を見せますが、「人材の集約化」を理由に愛知県の春日井チームに一本化、苫小牧、米子の両チームは活動終了することとなりました。15年の活動の中でプロ野球に嶋田哲也(タイガース)、玉峰伸典(ジャイアンツ)の2投手を輩出し、再び鳥取社会人野球は活動を休止します。

5 鳥取キタロウズ→ペアキングス10年の軌跡

 王子製紙米子が活動を休止して7年。2005年にわき上がったクラブチーム創設ラッシュは鳥取にも影響を及ぼし、2006年に鳥取県の著名人有志が集まり「鳥取キタロウズ」が結成されます。キタロウズの命名は同地出身の水木しげる氏作品「ゲゲゲの鬼太郎」から。当時の片山善博知事が名誉監督に就任し、川口和久氏、加藤伸一氏が指導陣に、浜名千広坊西浩嗣選手といった元NPB選手が加入。

 チーム結成当初は茨城ゴールデンゴールズとの定期有料試合も行われ、社会人野球に対する雰囲気も盛り上がりつつありましたが、都市対抗などの予選は強豪チームが揃う岡山県との戦いを余儀なくされ、主だった大会では序盤敗退。2009年のクラブ野球選手権中国一次予選では代表決定戦に進出しますが、倉敷ピーチジャックスに敗退します。

 この後2012年にキタロウズの名前を返還し、鳥取名産梨の英語名「ペアキングス」をチーム名称にして活動を続けますが、2016年日本野球連盟ホームページに活動休止が報告されます。2024年2月時点で活動休止継続中で、動きは全く見えない状態です。

 

6 実は調査途上、形にするには年単位で時間が必要です。

 

 2018年晩秋から始めた調べ物は、当時北上市立図書館に所蔵されていた毎日新聞に記載されている主要大会「都市対抗」「日本選手権」からはじめましたが、鳥取県チームはそれ以外の地方大会戦績の十分な記録収集ができてなく、米子鉄道局部分では国鉄大会の記録が、キタロウズ→ペアキングスの部分では2005年以降始まった各地方連盟部分クラブ大会の記録が十分とは言えません。

 特に後者は毎日新聞でも十分な記事発信がされておらず、参加チームの発信や連盟報によってようやく情報が得ることができる状態。JABAホームページは数年前に更新され、前ページ・アーカイブから記録を手繰るのが難しくなっているので、連盟報をさらって、刻んだ足跡を拾おうと考えています。

 

 まとめ

 

 この通り、鳥取県の社会人野球は長期活動3チームがそれぞれに残した足跡が全て、という感じで進行してきました。戦前に都市対抗本大会に進出した経験はありますが、その他は苦戦という言葉が頭に浮かぶ状況に。お隣の島根ではクラブチームが盛況となった時代もありましたが、鳥取では残念ながらそこに至らず。

 2005年にキタロウズが創設した当初は毎日新聞でもその動向が華々しく報じられもしましたが、それを長く継続させる状況には至らず休眠状態が続いています。他県の部分では「一度火をつけることができたのだから再び火を灯すこともできるはず」という言い方もしましたが、火がついた実績がそんなに多くなく、むしろ「厳しい現実」叩きつけられたなかで、熱意を焚きつけるには「準備しなければならないもの」というもの(別な言い方すれば“宿題”)は多そうです。

 ひとまずは刻んだ足跡を提示し、「鳥取県でも火をつけた人はいる」から再起の一助になれば幸いと勝手に考えて、この一文を記しておきます。次回は後発で調査対象にした佐賀県について触れていきます。

社会人野球の記録-都市対抗本大会出場は85年前。苦戦の中活路を見いだそうとする青森県について。

 ここ数回の記事では「これまでまとめを書いていない県の調べ物進行状況」を記しています。

 今回は青森県。昨年、長年県社会人野球を支えてきた自衛隊青森、三菱製紙八戸の両チームが解散という憂き目に遭いました。その際に拙稿では1971年に社会人野球が復帰してからの光景を記してきましたが、深掘りすればそこで書いた何倍もの「足跡」が。何しろ山梨同様約100年の歴史がありますからね。膨大なものがあります。

 今回は「青森社会人野球“第1期”」を取り上げますが、図表を用意することができませんでした。“第2期”については下記図表で、2023年拙稿で掲示したものを一部編集して再掲しています。

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1 都市対抗参加黎明期-勃興と縮小

 

 

 大正時代には青森県でも野球熱がだいぶ湧き上がっていましたが、その熱意は都市対抗野球という新設された大会に“着地”。当初大学野球経験者に率いられたオール八戸が東北の舞台に立ちましたが、瞬く間に他の“三大都市”青森、弘前、更には五所川原

金木、野辺地といった地域のチームが参加し、賑わいを見せることになります。

 この中で強力なチーム体制を作ったのは青森林友。県内で有力な産業だった林業をバックに組織だったチーム作り、他チームの追随を許さないチーム力を身につけます。冷害などで地域発のチームが継続して活動するには困難を来たし、青森市内の官公署チーム(市役所、県庁、青森鉄道)は積極的な活動を見せますが、青森林友の強力さと反比例して活動休止を選択。県予選決勝戦ですら4回コールドになる実力差もあり、1930年代後半には県予選が開かれない状態に陥ります。

 

2 青森林友、夢の大舞台へ 都市対抗本大会出場/青森鉄道との延長17回の激闘

 

 こうして県内で確固たる力を得た青森林友は、東北での戦いにおいても徐々に力量を発揮。北東北地域の有力選手がこぞって林友に集い、成田友三郎、小田野柏、福士勇といった選手は当時できたばかりの日本プロ野球にも進出。1930年代後半には代表決定戦にたびたび進出し、1939年にはとうとう東北各地域のライバルチームを退けて東北予選優勝、本大会出場という栄誉を勝ち取ります。本大会では社会人野球花形チーム「東京クラブ」の後継的チーム・藤倉電線の前に完封負けを喫しますが、そこまでの行動を含め、大きな足跡を刻んだということは間違いありません。

 この時期は大日本帝国が行っている戦時体制が強化されていましたが、そんな中で青森鉄道が都市対抗野球に復帰。1940年には現在に至るまでいまのむつ市から唯一の出場となる大湊特殊鋼が出場(予選リーグ2敗)、1941年の県予選代表決定戦では林友と青鉄の一騎討ちとなり延長17回大激戦の末1対0で青鉄が県王者の座を奪還しました。

 しかし戦争の影響は青森社会人野球にも及び、1989年の60回大会記念特集「球宴マップ」では戦死した人や青森空襲の犠牲になった人の様子も描かれていました。

 

3 戦後-野球熱は社会人野球につながらず…

 

 1945年戦争が終了し、青森にも平時の生活が戻ってきましたが、戦前多い時には10チーム近く参加していた青森県予選の様相が、八戸、弘前、青森の各地域からだいたい1チームが出場するのみ、に。当時のマスコミには「(要旨)戦後高まりを見せた野球熱は資材の高騰などもあり、費用のかからない軟式野球で発揮される傾向となった」とも書かれていました。社会人野球を運営する側の都合もあったのか、1947年都市対抗野球では参加希望チームから絞る格好に。

 そんな中でも生活を取り戻す世相に合わせて硬式社会人野球も復活の道を刻み、1950年から数年間北海道・東北地区の強豪が集まる大会を開催。46年には都市対抗東北予選準優勝した林友が優位な状況にいた状況も、時折青森ユニオン、青森県庁が覆す場面もありましたが、多くのチームは長年の活動継続には至ることができませんでした。

 1952年の都市対抗野球を伝える記事では県連盟登録チームのうち青森県庁、青森市役所、弘前オリオン、青森ユニオン、弘前公陽が財政難で出場事態する旨の記述がありました(他に三沢アスレチックスも在籍)。

 

4 「孤塁を守る」林友、とうとう力尽く。「青森社会人野球第一期」終焉。

 

 1955年には東北二次予選が青森開催ということで、▽青森高校OBで形成する「青森甲田クラブ」▽青森商業卒業生で形成する「青森商門クラブ」▽オール弘前の性質を持つ双葉クラブの3チームがエントリーし、県予選段階から賑わいを見せましたが、これらチームの挑戦も1~2年程度で幕を閉じ、昭和で言う30年代は青森林友が単独で東北に挑み続ける構図に。

 1963年、8年ぶりに青森で行われた東北二次予選では日通弘前チームも挑戦しますが、林友共々東北の強豪に緒戦敗退。公務職であるが故に選手採用がままならず(要は「公務員試験を受からなければ職につけない」)1965年5月、ついに解散することとなりました。

 5月20日に出された解散声明では「青森林友が孤塁を守ってる間に他に後続チームが誕生し、青森球界振興の機運も高まるであろうと内部的な隘路を打開しつつ強化改善に努めてまいりましたが、その期待も虚しく(中略)関係者一同慎重に協議を重ねた末、いたずらに伝統にすがりつき、かえってその光輝を汚すより、思い切って解散することが最善の方法であるという結論に到達しました」という悲痛な声明が出されました。

 十数年、ほぼ青森林友単独で戦わせてしまったことが、1971年復帰の際に三菱製紙八戸だけの登録はせずに、八戸市水道局を誘っての復活という選択をさせたものと思われます。

 

5 始まりは青森。“社会人野球の先輩”の記録を汲み、顕彰と足跡を記し残す。

 

 こうして、厳しい環境の中戦い続けてきた青森林友を中心とした青森県社会人野球。青森営林署の雑誌「林友」に青森林友野球部に関する記述が多くなされており、特に1951~52年に監督をしていた岩山高遠氏による丁寧な記録は、私の調べ物進行の大きな助けとなりました。

 この時期の青森社会人野球は青森林友が大きな地歩を築いたわけですが、林友以外にもその熱意をもって戦おうとしていた人の思いというのもあるわけで、そのあたりの空気というのも拾えればとも考えています。

 ここ数年進めていた「社会人野球調べもの」、それを起意させたのは、「青森社会人野球に空白期が存在していたのは何なんだろう」、という疑問から。気がつけば開始6年になり、多くの資料が揃いました。複数の“調査テーマ”を進めているが故に本格的な記述に至っていませんが、そこに進めるための「ダイジェスト的」な記述を1~2年内で書ければ、と目論んでいます。

社会人野球の記録 山梨について中間報告。強豪県と同ブロックで不遇囲いながら残している足跡を記す。

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1950年代半ばまで野球の中心地だった県営飯田野球場。この通り周辺に住宅ができたため硬式はできなくなったものの現役で使われています。

1 山梨社会人野球の調査状況

 社会人野球の毎日新聞地方版資料を集める際、北海道、東北、関東、静岡、信越の18都道県は国会図書館で対応が利きます。私の調べ物対象区では青森、山形、福島、山梨。テキストのみの収集と併せて、青森、山形、山梨は2022年までの資料ほぼ全部揃いました。

 山梨を対象区にした理由は「都市対抗本大会に進出のない3県のひとつ(他2つは島根と福井)ですが、残してきた足跡というのは「出ていない県」だからと軽く見てはならないものがあります。

2 山梨社会人野球につきまとう「地域性」―強豪県と同ブロックになる不運

 戦前は県都甲府市のチームに東南部にある桂倶楽部が挑む構図がありました。1930年あたりに都市対抗野球の予選が山梨で行われるようになった当初は甲府市の有力チームの連合チームが優位に立ちますが、地域での野球熱が高い桂倶楽部が県の王座を奪還するようになります。

 戦後は桂倶楽部もリードしますが、甲府市中心に県下に散らばる個性派チームが次々と起意し、1950年周辺はだいたい10チームが都市対抗県予選を争う構図が出来ました。

 しかし、山梨県に降りかかるのは「予選地域の条件」。度重なる変更及び、実力的に格上の県と同一予選を戦う状態。都市対抗でいうと

▽当初は長野・新潟・富山と同一区域で甲信越区域

▽30年半ばに静岡、神奈川との甲神駿区域に変更。

▽戦後も数年を経て神奈川が独立し、89年あたりまで静岡と山静地区。

▽90~11年が埼玉・千葉と南関東地区。

▽12年から神奈川と西関東ブロックを形成。

 それぞれ太平洋岸地域にある強力な企業チームと対峙することとなり、予選の突破する可能性は限りなく低い状況にさせられてきました。

(24年4月5日追記 2024年シーズンから新たに「B - NEXT野球部」が加盟していることを紹介します)

3 静岡への挑戦者現れるも…善戦の足跡を刻むも続く苦戦と縮小期。

 50年代、60年代には甲府貯金局、富士急行といった企業もチームを編成し、地域発クラブチームの桂倶楽部や、商門クラブといった学校OBクラブが静岡地域の強豪に挑みましたが、高い壁に跳ね返されることが多く、他県の企業チームに勝ったケースは1955年の桂クラブのみ(相手は東芝富士)。補強選手選出も1956年に大昭和製紙に補強された桂クラブの高村和夫選手ひとり。都市対抗二次予選での表彰選手選出も1966年に奈良不二也(桂クラブ・元NPB選手→リッカーミシン)選手が敢闘賞を得たのみです。

 何度戦う場に立っても勝てないとなると…意欲にも響き、活動休止を選択するチームが続出。1960年代後半には登録チームが桂倶楽部と全韮崎の2つしかなくなるという事態も生じました。

4 クラブ選手権―全国優勝経験するも/それでも模索する山梨社会人野球。

 1976年、クラブ野球選手権が始まったことによりクラブチームの部分では静岡勢とも互角に戦い、1979年には山梨球友クラブが本大会優勝するなど実績を残しますが、こちらも1990年に区域割りが変更となり関東地区に編入されることになると、関東地域で長年強さを発揮したチームの壁にぶつかることとなります。2014年、20年ぶりに山梨球友クラブがクラブ選手権本大会に出場しタイミングがよく私も西武ドームでこのチームの戦いを見届けることができました。

 一方で…同時期の都市対抗野球山静予選は1969年から「有力企業チームがシードとして二次予選から出場、それ以外の企業チームと両県のクラブチームが一次予選から出場」という形になり、山梨県単独の一次予選が開催されなくなりました。それでも機をつかんで二次予選に進出しようという戦いも見せ、1975年には山梨クラブがクラブチーム決勝戦(勝ち抜けばノーシード企業チームとのニ次予選進出決定戦に)1980年は山梨クラブと桂クラブが二次予選まであと2勝と迫ります。
 1981年には山梨球友クが代表決定戦に進出。関東自動車相手に延長10回2点リードしましたが裏に逆転サヨナラをくらい敗退、この形式になってから初の二次予選進出を逃しました。山梨球友クは1985年にも代表決定戦に進出しましたが関東自動車に敗退。1989年までの21大会は二次予選進出を果たすことができませんでした。
 1990年に地区割りが変わり、中部地区から関東地区に変わったことに伴い予選形式が代わり、県予選が復活。

 今回はおおよそ1990年の関東連盟移籍以前について記述してきました。中々苦戦と書くことの多い山梨社会人野球ですが、それでもある状況の中で模索し、足跡を残そうと取り組んできたことそのものをなかったことにはさせたくない。経験を積もうとJABA地方大会に選抜チームを結成して乗り込んだこともあったし、関東強豪と地元で戦う目的を持って山梨県知事大会が行われてるというのも意欲の表れ。

 2024年初頭に一時期は企業チーム登録も目指して結成されたチームが活動休止になった、という一報も目にしました。それでも参加するチームの模索は続いている。在るものから発展して大きい成果を出す、というのは同じ県内にある山梨学院の全国大会優勝が示しているもの。

 社会人野球でそれを為すには簡単ではない部分もありますが、現場にいる方が足跡を刻み続けていれば、いずれは…という部分で歩みを続けていただければ、と。

5 図書館での会話―「いつか来る飛翔」のため、これまでの足跡を刻む。

 2022年、山梨の図書館。

 岩手から社会人野球の調べ物に来たと言うと驚かれました。同じ時期に大船渡出身の投手が2試合連続の完全投球を見せていたこともあり、「岩手からすごい人出たもんですね」と言われましたが「岩手もかつては意欲はあっても結果に届かなかった時期の方が多かったんです。様々な経過を経てここの選手が伸びる土壌が生まれて、大谷翔平君であり佐々木朗希君の存在が出てきた。いつかは山梨の社会人野球でもそういう伸長が来ると思うし、そこに至るまでの足跡を残しておきたいという気持ちで山梨に来ています」ということをお話しさせていただきました。

 この記録もそういう意志で行っているもの。これまで行ってきたor行おうとしている県に比べて長年の歴史探索となりますが、何とか形として成し遂げたいと考えております。

Vリーグ理事の震災逝去について/鳥取の調べ物をどうしよう。

① バレーボールVリーグの理事であった桂田隆行さんが、先の能登北陸震災に被災されなくなったことが報告されました。規模の大きい震災になるとスポーツ人の犠牲者も報じられます。東日本大震災では岩手社会人野球からもチーム登録者だけでも4人犠牲者を出しました。

 桂田さんに関してはその業績などを知る位置にありませんが、私と同年代の48歳であること、スポーツはそういう理事など現場以外の諸事をする人がいなければ成り立たないことと併せ、その逝去は残念なものです。心よりお悔やみ申し上げます。

② 調べ物に関して…前回記事では島根県の部分について触れましたが、お隣鳥取が“手詰まり”に。

 「11県まとめ」でもざっと書きましたが、鳥取の場合は戦前が島根と鳥取の2県で一次山陰予選を開催されていた状況もあり、島根サイドから一次予選の基礎的な新聞記事は集めているが、ニ次中国予選に関しては地方版記事があまり残っていないこともあり資料収集には苦戦。

 毎日新聞鳥取版の収集は薄く、日本海新聞では多くの記事を収集できません。鳥取県立図書館では戦後からの鳥取県版を保存されていますが、費用もかさみ、「他の資料を集める」方を優先させているため後回し。現状で鳥取の記事をまとめるとすれば、すでに集めていた他県の記事を寄せ集めて作るしかないのが実情です。

 幾度か書いている通り、鳥取県は長期に社会人野球活動を継続できたのが3チームしかなく、単独の県予選は1950年周辺に数回行われたのみ。どうにも山陰地方の硬式社会人野球の“薄さ”には残念な思いもあります。

 野球熱そのものは軟式で発揮されてはいるのでしょうが、一言で言えば「厳しい」のかな、と。キタロウズには川口和久さんとか加藤伸一さんなど、鳥取出身のプロ野球選手が尽力しましたが、それでも長年は持たなかったということを考えると、「継続の大変さ」、考えさせられます。

③ 島根の部分でも1950~53年部分でバラバラになっていたのがあったので資料を精査し直しています。すでに24時間管理で生活しているし、都市対抗野球岩手予選は4月半ばから始まるので、記事を書くとしたら3月末あたりの10日間を使うしかない。幸いなのは「余計に増えた家事」が早期進行に見通し立ったこと。まず、1日しっかり生き続けます。

 おつきあいいただきありがとうございました。

「島根県社会人野球挑戦記」下準備日誌。

 昨年1~3月の期間に福井県奈良県の「社会人野球挑戦記」を記してきました。そして今年は一時期約10チームが参戦し盛んだった島根県について記していこうと考えましたが、身の回りの状況が様々変わってしまい、少なくとも3月までは対応不可能に。

 それでも個々の資料の整理整頓は進めていて、1931~65年までの島根県社会人野球を調べる資料はそろい、あとはそれをどうまとめて記すかという段階に来ましたが、文章製作に必要な時間が取れる見通しがつかなくなりました。大船渡の用事が1月で片づかなかったのは痛恨。今記事では資料整理の様子を記したFacebook の記事を転載し、途中経過として紹介します。

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① 判読に難儀する複写物。

 スキャナーでJPEGデータ約1万5千枚に及ぶ資料を切り抜きして整頓していますが、全部が全部万全な状態で資料が出てくるわけではありません。特に地方の図書館などは保存状況が厳しいものもあり、コピー機に当てることができず、デジタル機器で撮影されたものが送られてくるものもあります。

 さすが専任職員だけあってその大多数はコピー機で取られたものと寸分ない原稿が来ますが、どうしても状況が厳しいものも。「そういうものが出てきますよ」という話は伝えられ、私もそれを承諾していますが現物を見ると「これは読み取るのが大変だ」と思わされます。

② 難読No.1は「毎日新聞岡山版1946年7月23日発行」。

 島根・中国地区に限らず私が得た資料の中で一番厳しいものとなった1946年7月23日毎日新聞岡山県版を写真に出しています。

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 新聞印刷の事情(端的に言えば活字は粒の集合体)で拡大すれば文字が見えるかといえばそうでもなく、コントラストを変更しても字が浮かび上がることもなく、この資料単独では記事の判読ができません。後に国会図書館で得ることのできた広島県版なども加味して清書をしています(下記写真)。

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③ 結果的に中国地区全県が資料収集対象に。

 中国地方5県の中で私の調べもの対象は〔1〕鳥取県〔2〕島根県〔3〕付属的に他3県クラブチーム。〔1〕〔2〕を調べるのに万全を期そうと思うと地元県の資料だけでは足りず、中国5県全般から資料を入手する必要がありました(このあと写真2枚で説明)。

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 1930~1966年の部分はそうしないと都市対抗野球以外の鳥取/島根の歴史は探れなかったのが実情です(新聞記事に記述があっても試合そのものの記事を見つけられなかったものもあります)。

④ 公式戦開始は5月の見込み。多忙ですが「積み上げ」を。

 社会人野球のシーズンオフ、トヨタ自東以外の岩手県チームの場合は4月までですか。去年やっと4月のクラブチーム公式戦が復活(三陸沿岸クラブ大会)しましたが、今年は大会日程の変動もあるという話も聞いています。それを抜きにしても私自身4月までは色々目いっぱいで。かねがね書いていた「島根県の第1期(1931~65年)リポート」、難しくなったかな、とも。

 早く進めたいなと思うのと、色々あってそれが進まないという厳しい現実と考えると色々厳しい現実も見させられたりしますが、なんとか対象11県の調べ物を終えて、次の目標─戦前の都市対抗野球朝鮮地区予選に行けるようにしたいです(願望)。

社会人野球の記録 外伝 戦前の“外地”3地域について。

 2018年晩秋から社会人野球の調べものを続け、今年で6年目になります。企業チームもあり盛んな地域は事務局体制も整っていて、都道府県単位/チーム単位の記念誌が出されたりもしていますが、その体制が薄い箇所は行われる試合を行うので精一杯で、後進に記録を残す作業まで手が回らない状態です。それでも「実際に試合して残した足跡はあるでしょ。それをなかったことにはしたくない」という思いで北から青森、山形、福島、山梨、福井、奈良、鳥取、島根、佐賀、宮崎、沖縄の11県の記録を集めてきました。

 現状、まとめて形にしたのは宮崎、奈良、福井の3県で、余計な用事が増えて次にまとめようと思っていた島根の作業を行いあぐねている状況ですが、いずれは完遂にまで持っていきたい。そして、完遂に持っていった“次”と考えているのが戦前“外地”と言われていた「朝鮮」「台湾」「満州」の3地域。

 満州は「大連実業対満州倶楽部」対抗戦、朝鮮は京城地区の総当たり戦→優勝チーム中心にした全京城形成が話になることはあるものの、全体的にどう野球熱が伝わっていったのかをまんべんなく伝える資料は多くありません。

 近年、そのとっかかりになればと川西玲子氏「戦前外地の高校野球―台湾・朝鮮・満洲に花開いた球児たちの夢(彩流社)」を入手、購読。この作品を作るにあたって川西氏は西脇良朋氏の自費出版「台湾/朝鮮/満洲・関東州・華北中等学校野球史」を基にし、世相もくみ、社会人野球の記述も入っていたまさに労作。西脇氏や「朝鮮野球史」大島勝太郎氏、「台湾野球史」湯川充雄氏と、有志による自己製作・出版活動が歴史を掘り起こすことにもつながった様子も見ました。

 私がこの先達・先輩と同等などとは言えませんが、せめて「足跡」を残せるよう、過日のような体調を損ねるような真似はせず存在を保てるように努めます。

3媒体共通―ある漫画が思い起こしてくれたもの。「アイシールド21」と「“もがく”という行為」

【3媒体共通―ある漫画が思い起こしてくれたもの。「アイシールド21」と「“もがく”という行為」】

 その昔、週刊少年ジャンプで「アイシールド21(原作:稲垣理一郎氏、作画:村田雄介氏)」というアメフト漫画がありました。アメフトを分かりやすく伝えるだけでなく、最初は3人しかいなかった部員が「悪魔的策略家QB」と「パシリが生んだ高速のRB」を中心にライバルに立ち向かう情熱的な作品でした。

 主人公の小早川セナは「気弱な性格だけどもここぞで折れない」メンタリティを持つランニングバック。作中、関東大会で“極悪性格と至高の資質”を持った金剛阿含とのマッチアップ。前半で阿含のチームが大差をつけ「お前らカスどもの夢は終わりだ」と吐き捨てる阿含。それまでセナが持たなかった「獰猛な攻撃性」を仲間を守るために習得、自らの非力を省みず発揮した場面が印象に残っています。
 作画の村田雄介さんは「ワンパンマン」にも関わっていますが、同作にも「極悪な敵」に「月並みな人間の力しかもたない」無免ライダーが立ち向かう場面がありましたが、この二つのシーン、なぜか強く同調して心に残っています。

 関連する自分自身の話。高校までは在籍していた野球チームは強くはなく、社会人では運が良く県大会/カテゴリ別東北優勝というチームの一員の末席にいることもできましたが、次年に全国大会制覇を成し遂げるなど上位チームと対峙することも。そういう経緯から「勝負の世界」を描いたこの作品には思うところがあります。特に「秀でた能力を持たない人間が挑み続ける意味」という部分で。

 感想ですか。一言で言えば「“ある言葉”を言うために彼らキャラクターは帰ってきてくれたのか」。
 再び作品から離れますが…自分、ある議論についていけない部分があるんですね。安楽死推進者の主流に「他殺願望」を持つ者が…例えば障害者の存在を「生産性がない どうせこの世で苦労するなら“存在しない”方が楽だろ」などと言い立てる者がいる。

 それは違うだろ。

 どういう状態にあっても世の中に存在し力になっていることもあり、その想いを基に「生きていくための手立て」というのも作られてきた。その“発展”がなければ俺は小学校にすら入れませんでした。
 壁の分厚さにぶちのめされてうつむきたくなる 部分もありますが、それでも模索し続ける自分ではあり続けたい。そういう思いであっちもこっちも(社会人野球 社会活動)約30年、その場に立ち続けてきました。「ゆるぐねば“あがけ”」と考えられるだけでも幸せなのかなと思っています。

 もがき続けるという言葉

 俺にはちょうどいいや。

 それを思い出せた時でした。

 いつにもましての長文でしたが、おつきあいいただきありがとうございました。


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資料製作日誌―実家処理の影響はボディーブローのように堪えまして/11県調査の到達点を確認。

 12月時点では、2月半ばの「JR東日本新幹線も乗れる平日パス」を使って1日国会図書館に行こうとしましたが、実家処分がうまく行かず中止を余儀なくされました。ここでひとつ、「調査対象県で何ができていないか」をまとめることにします。

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▽沖縄

 沖縄の資料はオール那覇琉球銀行クラブ2001年までをと考えていますが、それを完全に揃えるには20世紀の春季石川杯/秋季RBC大会の記録を得る必要が。国会図書館使えない以上は沖縄県立図書館にレファレンス依頼をすることを考えます。

▽青森、山形

 04年までは紙面、05~23年はテキストで収集しましたが、実はボロボロと抜けが存在しています。

 山形1975年/青森1971年以降はほぼ手中にしたはずですが、山形はバラバラに行動した影響があり、“第一期”時代に抜けが。青森も「肝心な箇所」の抜けがありました。青森は県立図書館の対応が利きますが、山形はそれが利きません。走り陣立ての悪しき面(後に決めた基準を満たせない)を思い知らされています。

鳥取

 調査対象11県のなかで一番資料が薄いのは鳥取。長期活動チームが米子鉄道局、王子製紙米子、鳥取キタロウズ→pairKingsの3チームしかなく、後者2チームに関してはある程度の資料を得ましたが、米鉄に関しては調べ尽くしたとは言えません。

鳥取・島根

 戦前の島根、鳥取は両県で一次予選の開催で、大毎(大阪毎日新聞)山口、大毎広島、島根の地方紙2紙で島根側からの視点のみで調査を終え、戦後も島根視点では調査を進めましたが、鳥取・米鉄視点での調査は薄いものがありました。長い?人生のなかで補うとして、当面は広く得た中国地方の資料をもとに行います。

 できれば1970代に出された「中国地区連盟20年」を見ることができれば一番いいのですが(協会報に記述あるが各地図書館の所蔵確認できず)。ちなみに島根は23年までテキスト収集済み。

▽佐賀

 逆に意外と進んだのは佐賀県。戦後第一期は1946~69年が活動期ですが都市対抗は収集。薄いのは戦前の部分。国会図書館デジタルで見ることができる「九州連盟の記録」で下調べを進めるとします。

▽宮崎

 07~16年についてはテキストの収集を目論んだが未遂に。

▽奈良

 96~04年までの奈良版テキストは得ましたが、02年までは奈良新聞を見る必要あるかも、と思っていましたが、当面は不可能ですね。

▽福井

 07~20年まで紙面、21・22年テキスト入手。22年に福井MD休部、他の動きもナシ。“復活”待望。

▽山梨

 10年まで紙面、23年までテキストで収集。まずは資料の整頓。

▽福島

 資料収集は1976年まではフル、77~00年は「総会(→福島市長旗)→都市対抗チーム紹介とトーナメント表→クラブ選手権トーナメント表~全国大会→日本選手権トーナメント表」。連盟報の記述がなかったクラブ選手権予選の記録を得るため00年まで上記パターンで記録収集。01年以降についてどうするかは検討中。

 00年までの福島版紙面では都市対抗、クラブ選、日本選手権+郡山市長旗、福島市長旗以外の地域大会の記事が見えなかった(見つけられなかった)のが残念でした。

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 こうしてみると、「まだ足りないかな」と思うこともありますが、当面は国会図書館に行くことができないので、とりあえずは「テキスト資料の電子化」「既得資料の整頓」を進めて今年中には「島根挑戦記」「山梨、山形、青森短報」の完成を目指したいです。

社会人野球の日程発表と「継続」についての話。

 当方のブログは正月の記述後長く空白にしていました。能登北陸震災は数字だけでない多大なダメージを残すものとなりました。被害にあわれた皆様にお見舞いを、なくなられた方にお悔やみを申し上げます。

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 社会人野球の日程が日本野球連盟・JABAホームページで発表されました。都市対抗野球岩手予選が4月第3週開幕は予想外。近畿地方などでは3月から始まる場所もありましたし、約60年前の沖縄は1月から始まっていたときも(※当時の沖縄野球カレンダーや会場確保、競技環境の事情もあり)。

 岩手はこれまで一次予選の“トリ”をつとめる存在(岩手予選が終われば二次予選本格化)でしたが、今年は東北二次予選が岩手で行われるため準備も必要、と早期の開催となった模様です(岩手県連盟ページより)。

 20数チームが活動する岩手県、それぞれの時期、地域、条件ごとの大会が展開されますが、それを運営するというのも生易しくありません。それは各チームごとの運営にも言える話で、事務的方面で切り回す人がいないとチームが続かないのも実情。特にクラブチームは3年も時間が経てば選手個人も含め環境が大きく変わります。

 社会人野球のブログで事あるごとに「無事に大会に臨むこと」を願う記述をしていますが、それそのものが簡単ではないのは承知しています。私自身の継続は病気の状況などを踏まえて各所に相談した上で、ということになりますが、今年も社会人野球の場に立ち続けたいと思っています。

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