今日は。月曜日をもって野球の調査を終えて、帰宅しています。戦後直後の都市対抗記事は、主催の毎日新聞でも予選全試合はとらえきれていない様子で、岩手県にある書物で得られるデータはすべて揃えていたつもりでしたが、「各都道府県版」「大阪本社版」を浚ってみたらごそっと新しいデータが。
6月に日刊スポーツが1950年周辺に存在していたキャバレーチーム(キャバレー春美、チーム名は「春美」)を紹介していましたが、戦争も終わり、様々あったうっ積を晴らさんと多くのチームが都市対抗野球に乗り込んできた様子を見た思いです。
都市対抗野球の歴史を調べるにあたって、一番難儀するのが1946〜52年あたりの「戦後直後」。戦後直後は
1946年→表裏2ページ
1947年→表裏どころかA3を横にした感じの紙面の時もあり
1948年→時折4ページ紙面。
1949年→4ページ紙面安定化へ
1950年→この頃から県版1ページ多くなる
1952年→時折6ページ、8ページも
―という案配。大きい事件や災害などがあると野球は割愛され、後日のフォローもなかったので「不明」も多くあります。
このような状態は地方新聞も同じで、奈良県(※)の八木中和クラブが都市対抗本大会に出た記事を当時の県紙「大和タイムス(いまの奈良新聞)」で調べましたが、該当3記事が合わせて一段(一列)の文量で済んでしまいました。
…「では何故1930年代より状況酷いの」についてですが、簡単に言えば「戦争の影響」。それ以上は当方のブログでは扱いかねるので、記述は別な媒体に。こっから2ヶ月かけて、資料整備して次回に備えます。おつきあいいただきありがとうございました。
※いまでこそ約10チーム近くあって賑やかですが、戦前は出場チームがひとつあれば御の字、戦後には5チームで県予選をしたときはありますが、1954年〜1994年までは所属チームゼロの時代もありました。
※2 北上大会は金曜日までに書けるように努めます。