MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

下記ランキング参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村
社会人野球ランキング

宮崎県社会人野球挑戦記・中編〈改訂版〉【2022社会人野球】

◆戦後編①
(1)参加6チームからはじまった「再起の大会」。
 大日本帝国が長年行った戦争は今大きな傷を残し終戦。この間あった様々なうっ積を晴らす大きな舞台の一つは野球となりました。春先に都市対抗野球復活の告知がされると、各地で都市対抗野球の予選が再開され、宮崎県も7月7日、宮崎総合グラウンドで6チームが集まって予選が行われることとなりました。戦前からの参加は宮崎協会と全延岡(後述)。その他に旭化成都城クラブ、宮崎貨物に、戦前は参加歴がなかった宮崎鉄道局。
 戦前は地方紙でも8ページ〜12ページあり、ページ数相応に情報量がありましたが、戦後は物資不足で毎日新聞(S18年に大阪毎日と東京日日が統合)、日向日日(いまの宮崎日日)共に表裏2ページの発行。全国紙の地方版は裏面の3分の1〜4分の1の紙巾に抑えられ、情報は多く書かれていません。「全延岡」が戦前からの継続参加と書きましたが、九州予選のチーム紹介で「第16回の県代表(向陽会・旭ベンベルク)」という記述があったことを根拠にしています。
 消去法的に「麗陽会・レーヨン工場→旭化成?」というのも頭に浮かびましたが、確定的な証拠はつかめなかったので「筆者―伊東―の外れた仮説」としてください。
 大会の運営も2022年時点の基準から比べると大らかで、大会を知らせる毎日新聞宮崎版では試合の組み合わせが一回戦2試合→準決勝2試合と紹介されたあと、「なほ時間の都合で優勝戦が同日済まぬ場合は翌日に繰り越す」という記述。「“済んだ”場合は1日5試合やって1日で終わらせる気か」と驚きを覚えた記憶があります。
 また選手登録に関しても同様で、南方手帳シリーズNo13著者の谷村博武氏による「宮崎県野球史」には、戦後復員してきた野球経験者が友人を訪ねたら「球場にいますよ」と。球場行ってみたら都市対抗の試合中で、グラウンドにいる友人から誘われて、その場ですぐに入部・試合出場したという記述がありました。とにかく熱くなるものをを野球に求めた選手のぶつかり合いは7日、8日と行われ(さすがに1日で5試合は消化しきれませんでした)最終的には延岡向陽会の流れをくむと思われる全延岡が、一回戦から登場した宮崎協会に7―6で勝って、4日後に迫った九州予選に出場することとなります。
 全延岡の主戦投手は、延岡麗陽会時代に九州大会を経験している渡辺投手でしたが、ブランクが影響したのか佐賀県・全唐津打線の攻略を受け、1―6で敗れてしまいます。
 翌1947年は前年出場6チームから宮崎貨物が抜け、宮崎協会の選手の中から宮崎商業クラブが独立参加。さらに日南のチームが初参加します。宮崎の都市対抗初参加は宮崎商クで、その後宮崎市オールスター的チームの宮崎協会と発展した歴史を考えると何とも面白い因果とも言えましょう。
 6月14日から始まった宮崎県予選は、前年度代表の全延岡が宮崎鉄道局に敗退。一回戦では日南チームも倒して決勝に進出した宮崎鉄道局とはライバルと目された旭化成を3―2制し優勝。この年から分割された南九州予選に出場。熊本クラブに敗れはしましたが2―3と接戦を演じました。
 都市対抗以外では春先に憲法施行記念の大会が行われたとの記述がありますが、その大会に関しての様子は掴みきれませんでした。

 1948年大会は宮崎協会、旭化成、宮崎鉄道、延岡協会の4チームが参加。宮崎鉄道局が延岡協会、旭化成延岡市チームを破り、2年連続の優勝を成し遂げますが、南九州予選ではプロにも匹敵する強豪、大分星野組に0―10の敗退を喫します。

(2)飛び出す宮崎鉄道と少なくなる挑戦者
 1948年の7月初旬の日向日日新聞で、宮崎県の野球情勢に関する記事が掲載されました。硬式野球の部では社会人野球と高校野球が取り上げられていましたが、社会人野球の記述のうち3分の2は宮崎鉄道の紹介。宮崎県内では頭一つ抜けた存在というひとつの証明記事と言えましょう。旭化成も元東京鉄道局(いまのJR東日本)の投手が加わるも苦戦している様子が書かれ、その他のチームは活動しているチーム名の紹介はあれども、クラブチームで寄合所帯で、恒常的な活動はできていない(趣旨)ことのみ記載されていました。
 同じ記事の軟式編では、宮崎市内に限らず県内各地で約200チームが活動している様子が触れられていましたが、その中で延岡市に関して以下の記述がありました。
 「旭化成の関連会社それぞれにチームを作って40ぐらいのチームが活動している」「職場レクリエーションの枠を越えて“オール旭化成”というチームがつくられてもいいのでは」。戦前はひとつの街で4チーム参加するほどの野球熱を持つ延岡市ですが、戦後社会人野球・都市対抗では発揮しきれていない様子が間接的に書かれています。
 青森県の話ですが、「戦後起こった野球熱はかかる費用の少ない軟式野球で発揮されていた」という趣旨の記述が野球評論記事にありましたが、宮崎県内の野球、特に延岡では似たような状況が起きていたのかな、と思わされました。
(3)宮鉄、後楽園まであと一歩に迫るも星野組に粉砕。
 1949年、都市対抗野球南九州予選は宮崎県での開催となりますが、宮崎県内の予選は行われることなく、宮崎鉄道局が早代表として決定して予選に臨むことが毎日宮崎版の紙面に載りました。宮鉄は攻撃に関しては一定の自信を持っている(前年日向日日記事より)ものの、投手に関しては中心選手へ、と目論んだ選手が次々と投手として故障。別チームの主戦投手の移籍も噂されましたが、最終的には一時体調を崩していた薄木元亮投手が体調を取り戻し、捕手もディフェンス力に優れた選手が加わり力をつけていきます。
 大分、宮崎、熊本、鹿児島の4県で行われていた南九州予選。前年本大会準優勝の星野組と、その星野組のライバル的存在である植良組の両チームがこの予選の注目チーム。宮崎鉄道はその植良組と緒戦であたります。植良組は前年高校野球で注目された“超高校級投手”を先発させますが、打順が一回りした四回に宮鉄打線がとらえ、10安打4得点を奪い攻略。投げては薄木投手が植良組打線を4安打に抑え完封。参加5チームという組み合わせの妙もありましたが決勝戦に進出します。
 一方反対ブロックは星野組、熊本鉄道局、鹿児島鉄道局の3チームが在籍していましたが、星野組は両チームを相手に前年度本大会準優勝の実力を見せ、一回戦の熊本鉄道局戦では“火の玉投手”と呼ばれた荒巻淳投手が完投し12―3で勝利。準決勝の鹿児島鉄道局相手には15―2圧倒し決勝戦へと進みます。
 前回代表決定戦に挑んだ宮崎協会も、当時地域最強の八幡製鉄が対戦相手でしたが、それより更に強度を増した相手にして宮崎県二度目の「本大会をかけた一戦」。各県代表チームに2試合27点をあげてきた星野組打線を相手に、技巧派タイプの薄木投手が地元の声援を受け、六回まで0―3と踏ん張りましたが、踏ん張れたのはそこまででした。
 星野組は終盤3イニングで13得点の猛攻を浴びせ、投げては“火の玉”荒巻投手は粒揃いの打者を揃えた宮鉄打線を11奪三振3安打に抑え、16―0という圧倒的大差で宮崎鉄道局を破りました。
 正直、相手が星野組でなければ…と考えた人もいたのでは、と思わされましたのではないか、と。星野組は本大会も力を発揮して優勝し、社会人野球から姿を消しました―
 なおこの年、秋に行われたノンプロ4国地区対抗オールスター戦に薄木投手が西部軍のメンバーとして選出され、九州・下関地区のメンバーとともに各地を転戦して活動しました。

(4)2年連続の次点と合理化で空白化。
 宮崎鉄道局は翌年1950年も都市対抗予選に参加します。戦後すぐの勃興期には数多くのチームが参加しましたが、その後日本社会人野球協会の設立による通年登録制度の設立や、戦後激変する生活環境もあり、さらに言えばプロ野球がそれまでの1リーグ8球団から2リーグ15球団へと拡大し、社会人野球に関わる環境は大きく変わりました。
 50年に行われた南九州予選、参加チームは4県合わせて3チーム。大分県は星野組と植良組が解散、大分鉄道局は活動休止で空白化。7月16日に行われた南九州予選は、参加できた熊本鉄道局、全鹿児島、宮崎鉄道局の3チームによるリーグ戦となります。主力打者の黒木宗弘選手が、前年大会後大陽ロビンス(50年広島カープ)に。国鉄職員の整理もあり、先行きが見通せないなか、それでも残った選手はライバルの鉄道曲チームを超えての全国行きを目指して戦いに挑みます。
 第1試合の熊本鉄道局戦では両チームは3安打ずつの投手戦。宮鉄は六回に同点に追いついたものの、八回に薄木投手の暴投で勝ち越し点を許し1―2で敗退。
 第2試合の全鹿児島チームとの対戦では2番手投手の田村投手が四回にとらえられるものの、代わった薄木投手が試合を締め直し、五回以降8得点をあげ12―6で勝ち、一縷の望みをつなぎます。
 第3試合は熊本鉄道局対全鹿児島。レギュレーションを確認できませんでしたが、当時は「得失点差での進出」という概念が見えなかったので、鹿児島が勝てば何らかの希望がつながる可能性がありました。しかし、試合は熊本鉄道局が5―4で全鹿児島を破り2連勝。後楽園進出はその腕からすり抜けてしまいました。この時期行われた国鉄事業合理化の影響により、宮崎鉄道局母体の宮崎管理局は大分管理局と鹿児島管理局に分かれ、宮鉄野球部は解散。51年から3年間、宮崎県の社会人野球は沈黙の時を過ごします。
f:id:b-itoh1975:20220718225321j:image

付足。当初計画ではこの記事を「戦前編」「戦後編」でまとめる予定でした。ところが、新聞文面に表れた「熱意」を見たら筆が止まらなくなりまして。50年までの部分書いた時に、前後半で収めるのを観念しました。
 この後の「戦後編2」は、前編、中編と違い苦戦続きの記述になりますが、どう熱意を紡ぎ続けようとしたか。それをご覧いただければ、と思います。
f:id:b-itoh1975:20220718224002j:image
 
下記ランキングに参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村