2019年6月1日2時少し前。
仕事に出る直前まで見ていた社会人野球の試合が気になって、こっそりと携帯で情報をのぞき見た。
―やったな。宿願達成だ。
出る直前の時点で注目していたチームは、同時期に作られ、先に大舞台に立っていたチームに逆転をくらい、それでも「折れてらんねぇ」と満塁に詰めていた。駐車場で再び経過を見たら逆転。しかし、野球の試合は一旦荒れ出すと止まらないからな…と思いながら今日の仕事先に移動。気にはなりますが運転中は見られない。自動車学校の試合を道交法違反で見てだめでしょ(←自動車学校のでなくてもダメでしょ)。
右手に握りこぶし握って、内心「よっしゃ」と。そして、昨冬に探った「歴史」を思い返しました。
2.宮崎県社会人野球の歴史その1(1931〜1965)
宮崎鉄道が後楽園に迫るも…長い沈黙に。
「太陽と緑と神話のふるさと宮崎は社会人野球不毛の地なのだろうか。歴史をめくっても華やかな足跡を残したチームが見当たらない―」
(以上「」内、毎日新聞1989年6月記事より引用)
1989年、都市対抗野球60回大会を記念して毎日新聞に掲載されていた「球宴マップ」。この時で宮崎県に都市対抗を目指すチームがなくなって24年。ロッテオリオンズ(当時)の盗塁王・西村徳文さんなど県内の有力選手は鹿児島や大分など他県のチームに行き、「県出身者が頑張ってるなあ」という箇所でしか社会人野球と関われなかった様子が書かれていました。この記事、あるいは毎日新聞の縮刷版、更には1940年代後半の毎日新聞岩手版に付随して載っていた全国版運動面(新聞が2〜4面しかなかった時代で各県版があるページの3分の1程度のスペース。マイクロフィルムには1ページ毎の記載)から読み取れた「戦いの足跡」は下記一覧表の通りとなります。
初挑戦は1931年。1949年に挑戦した宮崎鉄道が後楽園行きに王手をかけたものの、プロ予備軍ともいわれた星野組に0−16で敗退。翌年は最終リーグ戦で熊本鉄道に1−2で敗れ後楽園行きを逃すと、国鉄合理化の煽りを受けて宮崎チームは活動終了。以降は全延岡、全宮崎、1965年には旭化成延岡が他県の強豪と戦いましたが勝つことができず、65年の挑戦を最後に長く沈黙の時を刻みます。
2.宮崎県社会人野球の歴史その2(2005〜)
茨城GGの親善試合から芽吹きはじめた社会人野球熱
日本球界の激動の年に意を持って取り組みを始める野球人が出てきた2005年。萩本欽一さん率いる茨城ゴールデンゴールズが全国を行脚する中で、宮崎県にも立ち寄り、練習試合をしていきました。そこからつくられたのが宮崎ゴールデンゴールズ。宮崎社会人野球の復興の祖に。宮崎梅田学園も同時期にクラブチームとして発足。ゴールデンゴールズが06年に、梅田学園も08年に西日本クラブカップで存在感を示し、梅田学園は2009年には企業チームに変更。「自動車学校の野球チーム」として注目を受け、2015年には信楽晃史投手がNPB・千葉ロッテマーリンズに進出します。
この間に2009年に宮崎医療カレッジがJABAに加盟、2016年には宮崎灼熱フェニックスが設立され翌年から公式戦に参加し始めるなど、40年沈黙していた分を取り戻すかのように積極的な動きを見せはじめた宮崎社会人野球。ゴールデンゴールズが休部に至ったのは残念ですが、高まる“熱”の先頭を行く梅田学園が伸長を見せ、昨年日本選手権に進出、今年は相応のマークを受けますが、都市対抗野球九州予選では敗者復活戦を不屈に戦い
第1T二)宮崎梅田学園1−2 ゴールデンラークス
第2T準)宮崎梅田学園2−6 ゴールデンラークス
今日の試合では途中逆転もされ、「対処間違えたら大量失点」の危機も、ファインプレーで意気を取り戻し、八回に逆転。
そして13時46分。
宮崎梅田学園 7=101000041
ゴールデンラークス 3=001000200
最初に挑みはじめてから89年、途中は戦う術をなくし他県チームに進んで頑張る同郷の選手に注目し、それでもきっかけをつかんで再興、各々の位置で戦いはじめて15年。
ついに結実しました。
すべての宮崎県社会人野球の関係者の皆様、そして、その最前線に立ち偉業を達成した宮崎梅田学園野球部の皆様、おめでとうございます。これから先のたたかい・歩みに期待することを申し上げ、拙稿の記述を終わります。
※今記事は毎日新聞の縮刷版各記事を基にして記述をしました。都市対抗東北予選の記事は別エントリでお送りします。【こちら】からご覧ください。