MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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宮崎県社会人野球挑戦記・後編〈改訂版〉

 当初の構想時点で前後編になるのは覚悟していましたが、まさかそれでも足りなくなって戦後部分を2つに分けて書くことになるとは思いませんでした。今項では1954年から1965年まで九州社会人野球史に足跡を刻もうと努力した様子を記述してまいります

◆戦後編2 
(1)「全延岡」挑戦記―分鉄に迫るも…
 中編の最後で記した通り、宮崎鉄道局は国鉄の機構改革により母体となっていた宮崎管理部がなくなり解散。1951年は全宮崎という名称で宮崎国鉄自動車に事務局を置く形で存続していましたが、この年限りで廃部届を出した模様です。そこから実質3年間、宮崎県から硬式社会人野球空白期が続きます。
 再び旗をあげたのは1954年に結成された全延岡。県境は越えますが近隣の先輩チーム・大分鉄道局が練習試合の相手となったのちに迎えた南九州予選―南九州と名はついていますが事実上福岡県以外の九州全地域が該当―の初戦の相手は、よりにもよって大分鉄道局!腕試しの2試合は計19失点くらっていただけに、まずディフェンスを力入れたものと思われますが、結果から言えば2本塁打が効いてしまい、0―6で敗れてしまいます。
 その年の秋に行われた九州選抜大会でも初戦は大分鉄道局とあたりましたが、9月の台風災害で分鉄メンバーが復旧作業に入っていたための不戦勝。進出した準決勝ではブリヂストンに1―15で敗退。
 1955年都市対抗で日鉄北松と対戦した全延岡はエース、四番など中心選手が仕事と重なり不参加という事態に。代わって入った選手が奮闘しますが、三回に8点を失うなど大差をつけられ、相手のミスで1点を返しましたが、コールドで敗退。この年12月(!)に鹿児島で行われた九州選抜大会では福岡県の日鐵嘉穂2―11で敗れました。
 1956年の都市対抗予選では鹿児島鉄道局と対戦。新人の矢野投手が鹿児島鉄道局に失点はくらうものの被安打は6に抑え試合の雰囲気は締めましたが、攻撃陣が得点を奪うことができず0―5で敗退。この年は他公式戦には参加していませんでした。
 結成当初は「九州の先達チーム何するものぞ」という意気込みも紙面で語られていましたが、「寄合所帯」とも称されるクラブチーム特有のチーム状況を覆すことができず、実戦での公式戦勝利を残せないまま、1957年年頭に解散となりました。
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(2)「全宮崎」挑戦記―華々しい出だしと、継続する苦労。
 3年間奮闘した全延岡に代わって宮崎県の代表格として社会人野球に乗り込んだのは全宮崎。監督に宮崎鉄道局時代の好打者・新名氏が就任。月300円(200円の記事もあり)会費でチームを運営し、6月22日の社会人野球宮崎県支部結成に先立って6月16日に3000人を集めて鹿児島鉄道局と結成記念試合を行うなど、宮崎野球界全体で盛り上げようという意気込みを強く見ました。
 主戦投手は大分鉄道局時代に後楽園を経験している黒田投手。初めての都市対抗の試合は杵島炭鉱との対戦。五回までに8奪三振を奪い、後楽園を経験したチーム相手でも「練習量を多くすればやってやれないことはない」という意気込みをもって臨んだ試合でしたが、終盤体力不足から流れを杵島炭鉱に明け渡す苦いデビューとなりました。
 1958年は都市対抗までに6試合を経験。さらに高卒の選手も補強して、都市対抗南九州二次予選に意気高く挑みます。前年の黒田投手に続いて、この年は鹿児島鉄道局から吉田投手も加わり、この二投手をもってすれば一勝も―という期待も寄せられました。
 さらに、都市対抗二次予選会場が宮崎県開催という好条件の中で大会を迎えました…が、当時、南九州地区の第一戦にいた大分鉄道局に打線が1安打に抑えられ、守備でも11エラーで黒田・吉田両投手の足を引っ張ってしまう格好となって初戦敗退。ただ、この二次予選大会の開催・運営は宮崎県野球史にとっては刺激となったとの談話もありました。1954年の高校野球選手権で宮崎県勢初出場から続く躍進の流れを社会人野球にもという意気込みは繋げられたものと思われます。
      ◆         ◆
 1959年に行われた 南九州予選では鹿児島市電に4―5と接戦に。五回に1安打と相手ミスをからめて3点を奪い逆転しましたが、四、五回集中的に5失点を食らい再逆転され、攻撃陣は二回に満塁のチャンスを掴んだものの1点にとどまったことが響いた格好となりました。しかし試合以外で気になる記述が。関係者談話として「存立が危ぶまれたが、1年でチームを潰すのが申し訳ない」という記述がありました。結成記念試合に3000人を迎え、大きな注目を浴びてスタートした宮崎ですが、活動2年にして存続が危ぶまれた、という記述があったのが気になりました。
 新聞の紙面からだけではチームの雰囲気がどういうふうに転がっていたかは知る由もありませんが、企業チームとは違ってクラブチームは、活動費の確保や選手集合などチームの運営はなかなか大変です。とくにこの時代は「クラブ選手権」のようなクラブチームだけに特化した大会はなく、企業チームよりチーム数多く活発に行われていた、というのは岩手と東京多摩地区、新潟くらい(全部クラブ、という栃木もありますが)。
 1960年シーズン。入部以来、数々の強豪を相手に互して投げてきた吉田投手がシーズン前に転勤となってしまいます。チーム結成から3年、選手の動態も起きて、メンバーを再編成して南九州予選に挑みましたが、九州予選初挑戦のオール佐賀との対戦で、八回に大量7失点をくらい一気にコールドに。参加した選手は真面目に奮闘をしましたが、厳しい現実を突きつけられます。
 そして翌1961年。
 大会参加決定は6月末ギリギリだった様子が書かれています。試合に参加できた選手は監督含めてわずか10人。各職場での個人練習が主でチーム全体の練習ができず、大会当日に「チームとしての力をつけよう」と、鴨池球場で開会式前の朝6〜8時に練習していたという記述も。大分鉄道局との試合では、打線がわずか3安打、12三振をくらったものの、それでも意地でコールドだけは阻止しました。
 毎日新聞宮崎版にはチームマネージャーによる以下のコメントが記述されていました。
「『棄権だけはしたくない。宮崎市の旗を掲げるだけでも意味がある』とマネージャーは大会前は4日も休暇をとって資金集めに駆け巡った。それでも資金が足りず、選手の中には自分の小遣いを割いて出場した人もいるという。『旭化成、日パ、宮崎交通など大きな会社もあることだし、地元の理解でノンプロ野球を育ててもらいたいものです。その意味から勝負は度外視して大会に参加しました』(毎日新聞宮崎版 1961年7月3日)」
 ―企業・実業団に入れなかった社会人の野球選手にとって、自分の身近にある野球は会社や身近な所で行われている軟式チーム、硬式野球は地域野球の中心者が都市対抗に向けて、地域選抜的チームで作られるケースが多かったこの時代。しかし、実際強いチームを作れるのは実業団・会社チーム。59年の部分で記したように、目標を見出しにくい状況で、継続することが大変な中での5年間の活動、全宮崎は捨て身の覚悟で宮崎野球の意地を見せ続け、5年の活動を終了します。
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(3)旭化成の参戦も…宮崎県空白化 
 その後3年間は宮崎県からの都市対抗野球参加はなく、1965年に県内有数の企業旭化成硬式野球に転換して都市対抗に参加します。
 古くはベンベルク工場の向陽会、レーヨン工場の麗陽会という社会人野球チームを輩出した旭化成が、いよいよ乗り出してきたことで期待されましたが、都市対抗南九州二次予選では三菱重工長崎にホームラン攻勢でペースを握られてしまい、打線も2安打に抑えられて敗退。秋の九州選手権では八幡製鉄に相手にエースの調整不足から本来外野手の2番手投手が先発するも、二回まで8失点。途中から入った内野手が適時打を放つなど2点を返したもの、コールドで敗退となってしまいました。
 この後1966年、67年の硬式社会人野球の試合参加歴を見出すことができず、日本社会人野球連盟報に67年12月7日付で解散届が提出されたことが記されています。それ以来40年、宮崎の社会人野球はの空白期に入ります。
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◆2000年代―挑戦はじめて88年目で宮崎梅田学園ドームに。そして「延岡社会人野球」の復興。 
 2006年。茨城ゴールデンゴールズと宮崎県選抜チームとの試合から湧き上がった「社会人野球チームがあってもいいのでは」。茨城ゴールデンゴールズと対戦した選手たちにより宮崎ゴールデンゴールズが結成。更に自動車学校を運営する宮崎梅田学園が、当初はクラブチームとしてチーム結成。実はもう一つ、宮崎シティクラブも結成の準備にはかかっていましたが、春先に2度目の選手テスト募集の記事があったの最後に消息が見えなくなりました。
 その後宮崎医療福祉カレッジが加盟し、2010年代半ばには宮崎灼熱フェニックスも加わり宮崎県は加盟4チーム。ゴールデンゴールズが2020年に活動休止となりましたが、再び燃え上がった社会人野球熱は途切れず、特にその先頭を走る宮崎梅田学園は企業チームに転換。数々の大会で実績を積み重ね、2018年に日本選手権大会出場、そして2019年には宮崎県社会人野球の都市対抗野球挑戦88年目で初の本大会進出を決めます。
 そして2021年、延岡市北浦町にある水産加工販売業者・新海屋が硬式社会人野球チームを設立。2022年の都市対抗野球 南九州地区予選に参戦し、2敗で予選敗退となりましたが、65年ぶりの延岡市チーム参戦は「野球熱」のきっかけとなるでしょう。そして梅田学園が九州予選で初戦に敗戦するも、敗者復活戦を5連勝して、2度目の都市対抗本大会出場を決めました。

◆「文字数だけ大作」書き終えて。
 色んなスポーツで目指すところが広く高くなり、一方で先を担う子どもの人口は減って、さてこの先野球はどうなんでしょう…とは言われますが、要は野球という場にいる人たちが一生懸命頑張ると。それ以外に道を見出だしようはないでしょ。硬式社会人野球の宮崎県チームは途中その挑戦する場すらも置くことができなかった時代がありましたが、数々の挑戦が今につながってきた。その挑戦の様子を「なかった」ことに…言い換えれば埋もれさせるわけにいかない!という思いで、ここまで前編、中編、後編と分けて記述をしてきました。
 記事を書く過程で、1967年の朝日新聞に記されていた「宮崎の高校野球50年」の記事には社会人野球に関わった人の名前も記されていました。社会人野球選手・チームとしては及ばなかったものの、その熱は野球指導者として発揮された様子が記されています。
 本来は他カテゴリを含めた宮崎の野球界の空気というものを加味しながら作れれば一番良かったのですが、私の筆致と能力ではそこまでは至らず、獲得した新聞資料を基にしたこの通りの記述で仕上げるのをお許しください。
 大会に参加される宮崎梅田学園の皆様の奮闘を心より願うものです。
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