MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

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宮崎県社会人野球挑戦記・前編〈改訂版〉/一度見たロキテクノ富山について。【2022社会人野球】

 今日は。都市対抗野球もいよいよ開幕という状況になりました。拙稿ではここまで書いてこれなかった記事を追いかけてきましたが、今項では以前中途半端に終わった宮崎県社会人野球「挑戦の記録」を書きあげます。
◆富山編
 その前に、今大会唯一の初出場チームロキテクノ富山に関して。ロキテクノは当初クラブチームとして設立、近年企業チームへと転身した歴史を持ちます。
 クラブチーム時代の2017年に、クラブ野球選手権本大会に出場歴があります。この時は北海道胆振地震があり大きな影響を受けた中で出場したウイン北広島のサイドに立って試合を見ていましたが、ロキテクノ富山も会社・関係者が多く会場に来て、熱意を感じた記憶があります。夕方6時半頃からの開始で、試合が終わった時には11時になろうかという時間まで熱戦。北広島の2度の逆転劇に敗れたロキテクノ、その後企業チームに転換して今回の都市対抗ではとうとう北信越の代表をもぎ取った、そこに至る転換点だったのかな、と思っております。
 富山県の社会人野球―戦前から県予選レベルでも多くのチームが集まって活発に行われていた記録がありますが、一時期はチームが減少して電電富山と北陸銀行だけに。その後伏木海陸運送が加入も、長年支えてきた電電と北陸銀行が活動を縮小・停止。どうなるかと思われた矢先に富山ベースボールクラブが生まれ、ロキテクノやBANDITS-BCが設立されて、加盟4チームと北陸3県の中では一番の賑わいを見せている、そういう場所でもあります。ドームデビューをどう戦うか、注目していきたいです。

【宮崎県社会人野球挑戦記】
 さて宮崎県です。2019年の梅田学園初出場の際、北上市図書館で調べられるだけの調査はしたことがありますが、朝日新聞縮刷版で調べた31〜49年は二次予選の代表決定戦のみ、毎日新聞縮刷版で調べられた54年以降は宮崎県勢の参加が少なくなり、調査としては不完全なものに。その後国会図書館に行って毎日新聞宮崎版や日向日日→宮崎日日新聞の記事を元に、宮崎県社会人野球チームが都市対抗野球にどう臨んできたかを調べることができました。
 去年の栃木みたいに一回で書こうと思いましたが、下書きの下書き書き終えたら「無理」と判断。今回は1931年から42年までの戦前編を「前編」として記していきます。
1.戦前編
(1)都市対抗野球、挑戦はじめは宮崎市のチーム
 1927年に始まった都市対抗野球。第1回大会九州地区からは九州鉄道が出場。その後参加希望チームも増え、福岡は県単位の予選も行われるようになります。
 宮崎県チームの参加は1931年から。宮崎商業のOBチームである宮崎商業クラブが九州予選に参加し、一回戦で長崎の呑長クラブと対戦。県勢初参加の緊張からか、初回守備時に2アウトから4失点を食らうと、その後13エラーの13失点。先発した安藤投手は被安打4だったものの、非自責点が9(新聞記事の実況を基に)。守備の乱れで敗退と苦いデビュー戦となりました。
 翌年1932年は全宮崎という形で出場。宮崎中学野球界を賑わせた好投手平原選手によるタイムリーヒットで宮崎県勢初得点を挙げますが、鹿児島鉄道に敗退。1933年は宮崎協会に名称を変えて九州予選に参加しますが、門鉄小倉工場に1安打完封負けを喫します。
 このあたりは夏の時期に南九州選抜大会というのが行われ、拙調査では32、33年に開催予定記事を確認。試合結果までつかめた33年は宮崎が会場。宮崎協会は前年都市対抗予選で敗れた鹿児島鉄道を相手に9回の猛攻で逆転サヨナラ勝ちをあげました。

(2)延岡チーム参戦、宮崎県予選始まる―野球熱沸騰へ
 1934年は延岡市チームが初参戦し、初めて県内の予選が開催されました。大きな立て看板が建てられ注目を浴びる中行われた初予選、エースのアクシデントに見舞われた宮崎協会が、攻撃陣の奮起で五回までに14得点。延岡も五回から反撃し4点を返すものの、宮崎協会が大勝しはじめての県予選優勝チームとして九州予選に進出します。ただ、先輩チームとの差はあり、九州予選では三回までに10失点をくらい、九回に6点を返したもののダブルスコアで敗戦。
 翌35年は「これまで工場の都合で都市対抗に参加できなかった」という旭ベンベルク工場が「延岡向陽会」というチーム名で参加。また宮崎協会OBチームが「白髪を染めて戦場に(大毎宮崎のチーム紹介より)」という形で都市対抗予選に参加。延岡向陽会は緒戦宮崎協会OBを、決勝戦で宮崎協会を破り、初参加優勝で九州予選に進出。九州予選では熊本鉄道と対戦し、三、四回にそれぞれ4失点を食らったのが響きダブルスコアの大敗と洗礼を受けました。
 1936年になると、都城市チームが、市内にある都城実業、都城鉄道両チームを中心に「都城協会」編成して出場。また、延岡市からはレーヨン工場が「延岡麗陽会」として参戦します。4チーム参加の県予選、一回戦は両延岡チームが勝ち、延岡対決となった決勝戦は向陽会が先達の力を見せて16―0の大差で2年連続の九州大会進出。九州大会では八回の守備で2アウトからエラーをきっかけに5失点、九回に3点を返すものの、大量失点が響いて敗れました。ただ、八回以前は接戦であり、宮崎野球界は力の差を段々詰めていきます。

(3)宮崎協会、本大会まであと一歩と迫る!
 延岡市2チームの伸長もあり、押されていた宮崎協会は、宮崎初挑戦時のエースで中心的存在の安藤選手を総帥職につけ、ライバルチームからの移籍選手もあり戦力を高める様子は「鉄桶の陣容」と評されるほど意欲的にとらえられ、ここ数年の雪辱を誓います。一方ここまで2年間九州大会に進出していた向陽会は選手の異動が多くなり、同じ延岡市からは新たに火薬工場野球部が出場するなど様々な動態を経て、五月の都市対抗宮崎予選開催を迎えます。
 大会初日に準決勝まで開催する予定だったようですが、準決勝第2試合の宮崎協会―火薬工場試合時に、堪えていた雨雲が耐えきれず、雨天順延。5月29日の試合で宮崎協会は火薬工場、向陽会を連破し、3年ぶりの九州大会進出を決めました。
 その九州大会も雨が大きく影響し、当初は6月5日から開催予定でしたが、初日こそ開催されたものの6日、7日になっても雨が収まらず、天気予報でも回復が見込めない状況から「選手の勤務に支障をきたす」ことを考慮し、梅雨明けを待って大会を再開するという決定をし、一度解散。
 7月3日から再開され九州予選。一回戦不戦一勝(いまなら「二回戦から登場」表記)の宮崎協会は、ここまで苦杯を喫する喫することの多かった熊本勢(逓郵クラブ)に先制→中押し→ダメ押しと得点を加え12―3と大勝し決勝に進出。決勝戦で相対するのは当時の九州絶対王者八幡製鉄でしたが、戦力編成から始まる取り組みに「この試合に勝てば初の全国大会」と意気込んだ宮崎協会は必死に挑みましたが、絶対王者の壁は厚く四回にダブルエラーから5失点、九回にも守備の乱れから2失点くらい、攻撃陣も幾度か機会はつかんだものの点に結びつけず0―8で敗退。神宮球場で行われる本大会進出はなりませんでした。

(4)戦争の影響も、グランドに立つ選手は奮闘す。
 それまで拡大の一途を辿ってきた宮崎県社会人野球も、前年に戦線が拡大した影響もあり、火薬工場、そして向陽会が「ベテラン選手の引退や応召(向陽会記事より)」もあり選手難で大会に出場できなくなりました。都城協会もこの年から不参加となります。
 前年全国まであと一歩と迫った宮崎協会と、後発ながらチーム力をじわりと上げてきた延岡麗陽会で行われた代表決定戦、宮崎協会が九回表までで7―5とリードたものの、九回裏に麗陽会は満塁のチャンスをつかむと、相手エラーでその全員が帰って逆転サヨナラ勝ちで初優勝、九州予選進出を決めました。
 初の九州予選では長崎の全三菱と対戦。宮崎協会を超えようと意気込みを持って臨んだものと思われますが、四、七回ににそれぞれ7失点をくらい、14被安打12与四球そして6エラーがこたえ、4―19の大差で苦い九州デビューとなりました。
 1939年。この大会から七回7点差以上のコールドゲームが明文化。向陽会が陣容を整え直して復帰、麗陽会、向陽会、宮崎協会の3チームで行われた予選は緒戦、前年優勝の麗陽会が、主軸選手が欠場した宮崎協会に大勝。その後決勝が行われる予定でしたが雨天順延となり、会場も宮崎県営球場から延岡市の旭ベンベルク球場へと変更。両者地元の延岡で行われた決勝戦は延長11回までもつれ込む激戦となりましたが、麗陽会が競り勝ち、2年連続の九州予選進出。前年の雪辱を誓って臨んだ九州予選では、福岡の日鉄二瀬相手に六回までは0―0と競るも、スタミナ切れから終盤七、八回に7失点食らい敗退。
 1940年は火薬工場も3年ぶりに出場。他に延岡クラブも参加し、延岡市から4チームの参加。会場も延岡旭ベンベルク球場で開催。唯一延岡市外から乗り込んできた宮崎協会が初戦で火薬工場に4―3で競り勝つ奮闘を見せたが、ここ数年最前線で戦ってきた麗陽会が決勝戦で宮崎協会に競り勝ち3年連続の優勝。九州予選では門鉄小倉工場に初回5失点を食らったのが響きコールドで敗退。
 1941年は麗陽会、向陽会、宮崎協会、火薬工場で県予選開催。この年は向陽会が過去数年の不遇を晴らさんと躍動。麗陽会との市内ライバルチーム対決を勝ち上がると、火薬工場との決勝戦では六回までに14得点を挙げ火薬工場が棄権する形で決着(新聞に六回棄権表記)、5年ぶりに九州予選に臨みましたが、大分鉄道に0―7で敗退という結果を味あわされます。
 宮崎協会が代表決定戦に進んで以降、県予選で熾烈な戦いを演じるも、九州予選ではなかなか力が発揮できない様相が見えました。ちなみに1941年は集会禁止令の影響もあり都市対抗野球の本大会開催は中止となります。

(5)“オール宮崎”で八幡製鉄に肉薄も…戦争により野球中断。
 そして1942年は「銃後地域高揚」という目的で都市対抗野球の開催が許されましたが、その決定が6月ということもあり、各都道府県単位の1次予選大会は原則行われずに、各県の推薦チームによる2次予選が行われるという形となりました。東日本地区では前年優勝チームが解散していたり(福島)、「どのチームも甲乙つけがたい」(茨城、秋田、青森)などの理由で「実業大会」という名の事実上の一次予選を行った県もありました。九州を見ると大方各県の推薦チーム出場という形で九州予選進出チームが決まったようです。
 宮崎県は前年優勝した延岡向陽会が出場。宮崎協会に在籍していた平原投手、麗陽会に在籍していた片岡捕手が集合し、一種の「オール宮崎」という形でチームを編成。長年九州のトップを走り続け、本大会優勝も成し遂げている八幡製鉄と対戦。平原投手の老獪な投球で1失点の好投、打線の援護がなくあと一歩及ばず敗退という結果となりました。

 数年前から野球は“敵性競技”として冷たい視線を受け、年代問わず野球から撤退するケースも相次ぎ、また太平洋戦争が始まっていて野球に向ける余力をうしないます。下記に大毎宮崎版の紙面を載せましたが、この通り戦争に関する報道が主で、主催者の大阪毎日新聞とはいえこのくらいのスペースしか与えられなかった様子が見えると思います。
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 この後戦争が激化し、グラブを置き、ユニフォームを脱いでいて戦場へ―という時代に入っていきます。
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