MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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記事製作日誌(240316ver.)

 2週間ぐらい前までは野球の資料整頓もできていましたが、そこから日常の仕事がちょこっと、社会活動ががっさりと忙しくなってしまい、社会人野球の資料整頓の続きを書くことができなくなりました。

 都市対抗岩手予選がもう1ヶ月後に開幕ですか。それを考えると計画的に記事作ってかないと、と思うのですが、今現在ではその計画も立てられない。考えられていた時点での計画は下記の通り。

・「社会人野球の歴史」→当面の残りを山形のみにしていて、図表は完成していますが文面の製作には至らず。これまでバラバラに記述してきた部分の統合作業に手間取っています。

 山梨に関しては追加記述+図表追加があり、記述については追加済み。図表についてはPC作業が必要なので(スマホからの作業では図表がうまく表示されない)後刻アップし、完全に変更後リンク貼って紹介します。

・2023年未記載/2024年都市対抗岩手予選

 3月第4週まで日程つまっているので、3月25日~4月10日までに「歴史・山形」「一関大会まとめ概略」「クラブ選手権本大会まとめ」「2023年岩手社会人野球まとめ」、4月10日~4月18日「都市対抗野球岩手一次予選見どころ」を製作。

・「島根県社会人野球挑戦記」

 当初は3月まで、と考えていましたが「中間報告 社会人野球の歴史」製作もあり押してしまいました。上記記事製作状況を見て可能なら4月半ばまでに、無理なら5月の大型連休に製作します。応援準備と並行なのはしんどいですが書ききれればと考えています。

・一連過ぎたら

 後はシーズン入っての通常記録作業に。今年は国会図書館に行けないので既存資料の整理に力を入れます。冬に「挑戦記」山梨or佐賀or沖縄を。

 故郷・大船渡は花粉が爆発的に出ているようで、ショック起こす危険性考えると当面は岩手内陸部の滞在が続きます。「もうひとつの主題」併せて、任されたものを無事に完遂できるように努めます。

13回目の“3・11”、大船渡に。

 3月11日。

 私は大船渡に行ってきましたが滞在時間は2時間。これまでの人生を思い起こしながらこれからも頑張っていく誓いをすることしかできませんでした。記事も書こうと思いましたが、野球ブログ単独記事は作るのが難しいです。大部分共通記事としてアップする予定で、もし出ていたらお付き合いよろしくお願いします。今回写真は道中とらえた「住田町営球場で見た夜明け」。f:id:b-itoh1975:20240312040123j:image

東日本大震災から13年①-ひとまず書けることから(野球ブログver.)。

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 東日本大震災から13年が経ちます。津波の震災被害に関すして今更私が加えて書くものはありません。あの時期に全国の野球人から受けたご厚意はありがたいものがありました。それは直接道具などの援助もそうだし、野球の試合・交流というのもそう。野球をはじめ、スポーツは人間の居場所の一つでもあるわけで、震災で受けた被害による“ゆるくない思い”を紛らし、この後生きていく道標を作っていく貴重な場所になったもの、と認識しています。

 1月1日に起きた能登北陸地震も強大な被害を生じました。そして、今後も地震大陸と言われる日本はこのような被害を受ける震災が出てしまうのでしょう。

 そんでも。

 その都度その都度傷つく人を健在な人がカバーしていけばいい。自己責任も一定必要な要素と思いますが、ここに書いた「助け合い」を絶やさずに動いていければと思っています。

 11日早朝、大船渡に行ってきます。昼には仕事があるので居住地に帰ってくる強行日程。大船渡の空気を吸って思い起こしたことをまた書ければと考えています。

鳥山明さんの急逝より-「残り時間」と「してきた/していくこと」。

 今記事は3媒体共通です。

 先日、実家処理の今後を兄貴と相談した中で。兄貴がつぶやいた「俺が定年になるまであと10年だからそれ以内には…」という言葉、じわじわと効いています。ああそうか、そういう年齢になってきたんだなと。兄貴は今年で52、俺は49。俺自身は34歳以降の人生はおまけと考えているからあまり一般的な見方をしていないけど、一般的な見方はそうなんだよな、と思い知らされる会話でした。

 金曜日、漫画家の鳥山明さんがなくなられていたことが報道されていました。鳥山さんの業績は私ごときが語るまででもないでしょう。現時点でドラゴンボールは語が進行しているわけで(作画を別な人が担当)。今後どうなるのかな。少し前、キャプテン翼作者の高橋陽一さんが自らの作画による作品制作を終了して、今後はストーリーの制作に務める、との話も思い出し。

 ここまで3題の話見て思ったことは「自分は一生の中でどんな足跡が残せている/きたのかな」。

 社会人野球も、社会活動も、今年で活動を始めて30年になります。その間どのぐらいの物事を成してきたか。走ってる最中は無我夢中で、目の前の成果をもぎ取りに行くのに必死で、「一般的な人生」とか「俯瞰的に計画的な人生設計」を考えたことなかった。果たしてどこまで何を重ねたのかな、と思い返したり悩んだりしています。

 最近の新聞報道で「郷土の特産品制作に取り組む」あるいは「震災語り部として活動している」同年代の取り組みを報道を通して目にしました。彼/彼女らだけでなく、「この歳なら~~できて当然」ができないまま50年近く生きてきた俺。それができている同年代はすごいと思いながらも、自分も無為には生きているつもりはない-ってのはほぼ強がり。そんな思い抱きながらの毎日日誌代わりの駄文書き連ねているSNS、きょうもおつきあいいただきありがとうございました。

記事製作日記(240305ver.)/雪が降り注ぐ3月。

①「社会人野球の記録」、前回福島県の記述しました。福島の資料収集は薄い部分があるのは以前に述べましたが、加えると20世紀部分では地域ブロック部分の大会の記事が新聞になかったor見つけられませんでした。福島はスポニチが独自ページを持っているので、そちらを見なければならないかな、と考えていますが、旅費がありません。独自研究はこの部分大変です。今年は有る分の整理&まとめ記述に充てるとします。

 次はあと1週間内に山形県を書ければと思っています。山形県の記事対応パネルと、4月までに制作する予定の島根県資料整頓は終わりました。あとは構想→“肉付け”→記述と進めるのみです。

Facebook・インスタグラムを見てると各地で練習試合の様子が書かれてますが、関東地区あたりまでで東北地区のチームはさすがにこの雪なので練習試合という記述はありません。それでも室内で野球の練習ができる環境が整っている様子が各チームの記事から見えます。岩手の都市対抗野球は4月の第3週から開始。4月の第1週あたりには組み合わせなどの概要が決まります。この雪模様を見て「あと1ヶ月で野球できる状況になるのかな」と不安になりますが、何とか無事にシーズン迎えたいですね。

社会人野球の記録 「常磐」「清峰」「ベニマル」が活躍した20世紀と、クラブチームが奮戦する21世紀 福島社会人野球。

 「社会人野球の記録」と題して、調べ物の中間報告的記事を記してきました。前回の記事制作日記で記した通り、3月中に山形、福島、島根の3県を書ききって(島根は中間報告じゃないですが)シーズンを迎えようと考えています。前回の記事では山形の方を上に紹介していましたが、制作は福島を先に行うことにします。

1 1969年毎日新聞記事「福島県40年のあゆみ」より。

 福島県社会人野球、昔は常磐炭鉱、清峰伸銅、20世紀後半期にはヨークベニマルが先陣を切って全国にその威を示してきました。1999年にヨークベニマルが活動休止になって以降は、クラブ選手権部分では存在感を見せることもありましたが、全般的には苦戦を強いられています。一時期は33チーム在籍と巨大な勢力をもった福島社会人野球どういう足跡をたどってきたのか、端的に記していくことにします。

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 1969年の毎日新聞福島版では都市対抗野球に参加してから40年を記念した「都市対抗野球物語 福島県40年のあゆみ」という特集が掲載されていました。全11話の概要は以下の通りです。

① 1930年第4回大会の福島県勢初挑戦の裏話。

② 1933年、県予選初開催/福島クラブ(現在休部中)本大会初出場。

③ 加熱する野球熱-1936年県決勝戦没収試合/当時の寛容なルール適用(試合に出ている選手の代走起用など)

④ 戦前後期の福島社会人野球の状況/東洋紡チームの二重登録(ほぼ同メンバーで福島→新潟予選出場)

⑤ 戦争終了、県予選復活の歩み

⑥ 1946年都市対抗野球東北予選・福島誘致裏話(宮城との誘致合戦が加熱し、東北各県持ち回りの原因に)

⑦ 日東紡、今泉産業など繊維産業チーム台頭。“オール福島”巨人・東急連合に大勝/福島社会人野球から日本プロ野球日東紡・八島米雄選手)進出。

⑧ 台頭する常磐炭鉱・日東紡2強時代も…分かれる明暗(+1950年以降、クラブチーム出場が縮小)

⑨ 清峰伸銅の千葉から福島転籍→常磐炭鉱と新福島2強形成

⑩ 「常磐炭鉱」から「オール常盤」に-フラダンスチームの応援活動/清峰伸銅廃部。

⑪福島社会人野球を支えた人

 -という塩梅で記事が書き進められてきました。

 有力チームはそれぞれの産業の波に乗った企業チームが全国単位での活躍も見せていましたが、クラブチームがその実力を発揮する機会を失い、1966年には清峰伸銅の予想外の廃部-一説には「お家騒動の余波」もあり、登録チームがオール常磐と福島クラブの2チームにまで落ち込みました。

2 福島社会人野球の大伸長-ヨークベニマルの全国出場

 硬式社会人チームこそ2チームに落ち込みましたが、野球熱そのものは軟式野球や「市町村対抗県軟式野球大会(当初は全市、現在は全自治体が参加する大会)」が開催されるなど潜在的に強いものを持っていた福島県の野球社会。1967年に保原クラブが創部されて以降、毎年のように新たな挑戦者が名乗り出、年を追うごとにチーム数は増加の一途を見せます。全国的にクラブチームにも活躍の機会を、と作られたクラブ野球選手権の存在も大きく、1976年には都市対抗野球参加19チーム→1982年には参加24チーム→1992年までには33チームにまで参加チームが増加することとなります。

 1975年に創部されたのはヨークベニマル野球部。戦後創業された紅丸商店が1973年にヨークベニマルと称号を変更した会社が野球部をもち、当初は先達のチームに敗れる場面もありましたが、有力選手が集まり力をつけ始めると、1979年には都市対抗野球本大会初出場。1981年には日本選手権本大会出場。1979年の初出場の際にはスーパーの売り場で働く選手たちの姿が紹介記事に並べられました。

 当時は「新日鐵釜石」「盛岡鉄道」「岩手銀行」と強豪が揃っていた岩手、あるいはNTT東北、日本たばこの宮城県勢と競り合い、1980年代後半には台湾代表選手が加わり87年都市対抗ではベスト8、90年代にはプロ野球にも進出する選手(平松省二、村上真哉)がそろう投手陣の活躍もあり、1994年都市対抗でもベスト8に進出するなど活躍を見せます。

3 ヨークベニマル以外の奮戦、そして99年の終演。

 87年辺りからはヨークベニマル都市対抗の県予選がスーパーシード扱いとなりますが、その間福島の他のチームは指を加えてヨークベニマルの活躍を見ていただけだったのか、といえばそうでありません。

 70年代はオール常盤解散(71年)後を継いだいわきクラブがヨークベニマルを驚かし、1980年日本選手権ではヨークベニマルの県予選初戦敗退(対川俣クラブ)という大波乱の間隙をぬってオール常交クラブが県予選優勝→東北予選も勝ち抜き日本選手権本大会出場。1983年都市対抗県予選では郡山水産クラブが打撃戦の末県大会優勝をもぎ取り、1989年に創部されたクリーニング業同仁社は1992年都市対抗県予選でヨークベニマルを4対3で破り初優勝するなど大きな存在感を見せました。

 が、いわきクラブはオール常磐経験者の野球卒業とともに力を失い、郡山水産ク、同仁社は長い活動には至らず、オール常交は1988年で活動を終えました(オールいわきはその後継)。ヨークベニマルの後に続こうという企業チームは現れないまま、クラブチームの盛況とは別にヨークベニマルの独走状態が続きます。

 1998年晩秋、スーパー事業に集中するため野球部の活動を休止することを発表。翌1999年の都市対抗野球県予選は3試合68得点という爆発力を見せ最後の優勝を飾り東北予選に臨みましたが、最後敗者復活戦(対JAいわて)で「勝利まで1アウト」から満塁本塁打→更に連打を浴び逆転サヨナラの敗戦。劇的な敗戦でヨークベニマルの活動は終わりを告げました。この試合は直接見届けています。

 なお、クラブ野球選手権の部分では第3回大会から福島県単独で全国大会出場枠を得て、1980年には先述のオール常交が全国優勝。1984年には郡山水産クラブが全国ベスト4、1992年には郡山ベースボールクラブが準優勝を果たすなど確かな力量を見せてきました。

4 ベニマル無き後の福島県社会人野球の奮戦。

 ヨークベニマル廃部後、福島県社会人野球はクラブチームの群雄割拠の時代がやってきます。

 2000年代前半に奮戦を見せたのは福島硬友クラブ。1978年チーム創設即都市対抗東北予選進出したチームは、2000年代前半~半ばに上位大会に進出し、2003年はクラブ選手権本大会に出場します。

 かつてのオール常交の流れをくむオールいわきもチーム力をつけ度々上位に進出することに。いわき菊田クラブも強力選手加入で全国大会を経験。須賀川クラブも上位大会に進出するようになり、2008年の日本選手権東北予選では本格強化前ではありますが東北進出は常連になっていた日本製紙石巻に1対0で勝つという快挙を成し遂げています。

 2011年に起きた東日本大震災及び福島原発事故福島県に住む方々の生活に大きい影響を及ぼしました。1992年の在籍33チーム時から縮小傾向を続けてきた福島県社会人野球に2012年新たに加わったのが富士通アイソテックベースボールクラブ。クラブチームであるものの強力な体制を作り、あっという間に福島県トップの座に上り詰めると、2015年にはクラブ野球選手権本大会ベスト4、2017年都市対抗では七十七銀行を破り4位相当の成績を残します。サポート企業だった富士通アイソテックの業績不振により、2021年からはサポート企業がエフコムに移管。コロナ感染拡大により活動を停止して時期もありましたが、福島県トップクラスの実績を残しているチームであ

ることは間違いありません。同時期に創設された郡山イーストジャパンは東北クラブカップ初代優勝チームとなりました。

 主に富士通→エフコムやオールいわきが東北部で戦いを展開している一方で、活動チーム数は減少の一途をたどり、2001年時点では27チームが2023年時点では12チームまで減少する状況に。そういう状況の中新たに活動の場を福島県に見出したのがEKC習志野。当初は他県での登録を目指していましたが諸事情により職場のある福島県での登録に。初めて参加したクラブ選手権大会では全国大会進出。秋の東北連盟会長大会ではクラブの部優勝を成しました。

5 縮小はしているが…新たな活路を見出だしに行く。

 一時期は33チームを数えるほどの野球熱を保っている福島県社会人野球。様々な社会の激動的変化の影響もあり活動でできているチーム数が激減していますが、それでも福島県は一時活動2チームまで縮小した時がありながら大きく威を盛り返し、大きい力を保った時もありました。

 人間社会、移り変わりというのはあり得るものですが潜在的に持っている野球熱を表せる状況になれば再び福島社会人野球が隆盛の位置にいることもできるはずだと期待して、福島の記述を終わらせていただきます。

記事製作日誌(240227ver.)/岩手県連盟会議ありました。

① 社会人野球のシーズン開幕を告げるスポニチ大会まであと2週間もない状況になってきました。例年なら「岩手はまだ雪ですよ~でも野球やるの早いですね」なんて言葉も出てきますが、東北地方にも多くの雪が降らず、野球をしても違和感のない状況です(この一週間は違っていますが)。

 私の記事制作も計画を練り直して4月後半から始まる都市対抗野球予選から逆算して書いていかなきゃならない状態です。今年に入って「社会人野球の記録」と題した記事を出していますが、これにかかれるのは と6週間。それまでに

・山形中間報告

・福島中間報告

島根県の挑戦記

 を書いてシーズン突入、という感じになるでしょうか。前者2記事に関しては制作を進めています。その前に2023年の書き残しは

・一関大会

・クラブ選手権本大会詳細

・2023年岩手のまとめ

 ですか。3月は仕事で“大一番”ありまして、もう24時間管理体制で生活していますが、4月第1週までには計画的に行います。

② 過日、岩手県連盟の会議も開かれ、いよいよシーズンインを思わせる空気となりました。2024年もどういう足跡を刻んでいくか。私は何とかシーズン完走してそれを見届けられるように 心身ともに準備します。

社会人野球の記録 杵島炭鉱2度の後楽園、自衛隊目達原の産別出場-存在感も示した佐賀県社会人野球第1期。

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 現在佐賀県で社会人野球の活動をしているのは佐賀魂(スピリッツ)1チーム。2005年クラブチーム拡大期の中でできたチームで、クラブ選手権本大会出場を一度経験しています。九州地区で長く“不遇”の位置にいることの多い佐賀県社会人野球はどんな歴史を刻んできたか。急遽調べもの対象にした佐賀の第1期活動(~1969年)の足跡を調べてみることとします。

1 黎明期→杵島炭鉱・全唐津2強の戦いに

 1927年に始まった都市対抗野球、認知度が高まるにつれ参加チームが増加。各地で予選が開催されるように。佐賀県のチームは1932年鳥栖鉄道が初参加。1936年に大町杵島炭鉱も参加し初の県予選が行われ杵島が勝利。九州予選でも佐賀県勢初の一勝を挙げることとなります。1937年には有田チームも参戦し3チームリーグ戦で県予選。その後鳥栖鉄道が欠場した時期もありましたが、基本的に杵島炭鉱、鳥栖鉄道が佐賀社会人野球を支える状態でした。

 大日本帝国の戦争が終わり、1946年に社会人野球が復活。戦前から活動する鳥栖鉄道、杵島炭鉱の他に唐津の野球人で形成する全唐津が新たに参加。その全唐津が初参加いきなり優勝を成します。

 1947年には佐賀クラブも参加。この年から九州予選は福岡・佐賀・長崎ので北九州地区、熊本・大分・宮崎・鹿児島で南九州地区の2地区に別れて予選を形成します。1949年までに佐賀クラブと鳥栖鉄道が活動を休止。2リーグ制になってチーム増加したプロ野球に人材を輩出した全唐津と杵島炭鉱の2チームが佐賀野球の代表として活動することとなります。

 

2 1952~53年 杵島炭鉱都市対抗本大会出場

 

 杵島炭鉱・全唐津の2強対決は佐賀の野球界を賑わすものとなり、1951年都市対抗県予選は3勝先取5回戦で、1952円は2勝先取3回戦で行われます。この間に九州地区の予選地区割は大きく変動し、北九州地区は福岡県のみ。それ以外の6県が南九州地区で、この年から当時アメリカ施政下の沖縄が戦前通じてはじめて都市対抗野球に参加します。その沖縄の都市対抗初試合は杵島炭鉱が相手となり12対5で全那覇に勝利、その勢いをかった決勝戦も鹿児島鉄道に勝ち抜き、佐賀県勢初の本大会進出。本大会では京都クラブと対戦、延長13回まで戦いましたが0-2で惜敗しました

 1953年も杵島炭鉱が勢いに乗り続け、長崎三菱造船所、熊本鉄道に競り勝ち、鹿児島市電には大勝し再び本大会出場。直前の豪雨災害を超えて3日がかりで東京に。地元からの応援団も多くは派遣できない状況の中臨んだ本大会は、前年優勝の全鐘紡と対戦しましたが、0-3で敗退という結果に終わりました。

 この2度の都市対抗本大会進出は、大町町杵島炭鉱の熱意を野球で表したものとして、大きく印象に残るものとなります。

 

3 杵島、全唐津撤退と全佐賀の挑戦

 

 大町の熱意を発揮した杵島炭鉱の都市対抗本大会出場でしたが、その後わずか数年で産業構造が変わり杵島炭鉱野球部は解散に追いやられます。その後地道に活動してきた全唐津に加えて、1960年には佐賀市内の有志で全佐賀野球団が結成。全唐津と2勝先取3本勝負の予選を戦い、新しくできた熱意そのままに全佐賀が優勝を勝ち取ります。この年は都市対抗二次予選が佐賀県で行われることとなり、全佐賀、全唐津2チームともに二次予選に出場。唐津は初戦敗退でしたが、全佐賀は手負いの全宮崎に勝ち、準決勝の鹿児島市電にも0対1で善戦し足跡を残しました。

 戦後直後から長年佐賀の社会人野球を支えた全唐津は60~61年にかけて活動休止となります。

 

4 「産別」4度出場、都市対抗もあと一歩まで迫った自衛隊目達原

 

 全佐賀1チームになった状態に新たに加わったのが自衛隊目達原チーム。60年代前半は全国各地で自衛隊チームが社会人野球に参戦。九州地区では西部目達原が1962年から参加、全佐賀との3本勝負を制して九州予選に進出。この時期の陣容は「投手や捕手も“昨年まで野球をやったことのないものばかり”(新聞記事)」という中、佐賀県を超えた部分での戦いに臨み経験を積みます。

 当初、都市対抗は九州地区予選で苦戦を強いられますが、産業別対抗大会では一足早く官公・公社部門で本大会に出場(1964年、1966年。全自衛隊として)。その経験が都市対抗でも発揮されたのは1967年。初戦は開催地三菱重工長崎との対戦でしたがそれを破ると、準決勝では電電九州も2対1で破り決勝進出。決勝こそ日鉱佐賀関に0対6で敗れますが、大きい存在感を見せることとなりました。

 その後産別での官公・公社部門では予選を勝ち抜き、67年から3年間は目達原単独チームとして出場。本大会ではサッポロビール、全大昭和製紙(静岡と白老の連合チーム)、電電東京に敗戦しますが目覚ましい戦いを見せます。

 こうして地歩を築いてきた自衛隊目達原ですが、1970年からはその足跡が途絶えることとなります。1960年代前半にできた自衛隊チームの多くは早々に活動を閉じ、青森、福島(共に23年で活動終了)、防府といったチームは半世紀近く活動を続けてますが、主要大会の代表決定戦進出は1997年日本選手権の自衛隊青森とこの目達原の例があるのみ。希少な経験を積んだ自衛隊目達原の休止以降、佐賀社会人野球の歩みそのものも止まることとなります。

 

5 『ビクトリー』掴むために『スピリッツ』抱いての活動-佐賀県社会人野球第2期。

 

 1970年に途絶えた佐賀県社会人野球。その後36年の時を経て、文頭に書いた通り佐賀魂が活動を始めます。クラブ野球選手権では九州地区の本大会進出枠が1ということもあり、上位大会に進出する間口は狭いものがありますが、地元学校との連携など工夫を凝らしてた活動が続けられ存在感を見せています。

 もう1チーム、野球をする人の間口を広げるために、と作られたビクトリークロウというチームも活動していましたが、こちらは残念ながら数年の活動のみで撤退ということに相成りました。

 佐賀県に関しては調査が後発のため、第2期の活動に関しては一切の記録をしていません。杵島炭鉱が2度の本大会出場していますが、全般的に硬式社会人野球の部分では苦戦を強いられている地域。それでも地道に活動しているチームが長く存在しているので、いずれその熱を高めることはできるんじゃないかなと思って、佐賀魂の活動に注目し、同時にそこまで持ってきた先達のチームの足跡を残そうとは考えております。

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 中間報告的「社会人野球の記録」、このあとは山形県福島県の記述を予定しています。

社会人野球の記録・鳥取県社会人野球-米鉄、王子、キタロウズ3チームの足跡をたどる。

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 社会人野球調べ物の中間報告記事、ここまで島根の裏話→鳥取の裏話→山梨1960年代まで概要→青森“第一期”と書いてきまして、ここでは鳥取を記します。幾度か書いてきた通り、鳥取の社会人野球は米子鉄道局→王子製紙米子→鳥取キタロウズの3チームが主な活動チーム。今回の記事ではここまでとらえた部分での記述を記していきます。

1 米子鉄道局時代-中四国地区3連覇の偉業

 1927年・昭和2年に始まった都市対抗野球、山陰地方でも1931年から予選が始まりました。当時の中国・四国地方予選は岡山・広島・山口の3県で山陽地区、鳥取・島根の両県で山陰地区と区割りがなされていました。鉄道チームが各地で“随一の強豪”にのし上がっていて、山陰地区でも唯一の職域チーム米子鉄道局が境実業団や全鳥取など他の地域発のチームを圧倒。1933年には中国地区代表決定戦に進出。1934年から36年までは3年連続で中四国地区の代表を勝ち取りました(本大会では34年、35年満州倶楽部、36年全大阪に敗退)。

 黄金期を築いていた米子鉄道局ですが、鉄道チームが1937年から都市対抗野球不出場。併せて日本の戦況が深化したことから野球に対する目線が厳しいものとなり、「野球排撃論」が唱えられる世相に。山陰地方の両県ははその波にいち早く乗り、盛況を示していた高校野球も1940年あたりから足跡が見えなくなってしまいました。社会人野球でも1938年から足跡が見えなくなり、エントリーはされた大会はありましたが実際の試合に臨むことができず、そのまま大日本帝国の戦争終了まで突き進むこととなります。

2 戦後直後-米子鉄道局に挑んだクラブチーム

 戦後野球も再開されますが、鳥取県では硬式社会人野球にまでその威光が届くことがなく、戦後数年は米子鉄道局が単独で挑むことに。1949年あたりから数年間は地域発クラブチームも参加して県予選が開催されます。

 この数年間に参加したチームは全鳥取、全米子、全倉吉、鳥西クラブ(鳥取西高OB)。1950年の日本海新聞では「鳥西クが優位」という記述がありましたが、長年トップクラスの位置で戦い続けてきた意地を見せ米子鉄道局が優勝。1953年は鳥取でニ次予選が開催され、全倉吉、鳥取西クラブも直接ニ次予選に直接臨みますが、全倉吉は東洋紡岩国に敗退、鳥取西は雨天延期に対応できず棄権という結果に。これらクラブチームはその後活動継続できず、米子鉄道局のみが中国地区の強豪に挑むこととなります。

3 山陰の雄としてあと一歩まで迫るも…米鉄活動終了。

 鉄道に関する環境が激変する中、米子鉄道局野球部は山陰の雄としての誇りを持ち戦い続け、1957年中国予選では代表決定戦に進出します。一方で1959年東中国予選(記念大会で中国地区枠1増。岡山、島根、鳥取で東ブロック、広島、山口で西ブロックに)では島根の大社クラブに敗戦するという浮き沈みも経験。1961年には5県代表チームのリーグ戦で3連勝し王手をかけるも倉レ岡山に敗退するなど、あと一歩で「4度目の本大会出場」の夢はもぎ取られ、1965年あたりに始まった国鉄の規模縮小の影響から中国地区の国鉄チーム2つ-岡山と米子は1966年春までに活動終了となります。

4 1984~98年 王子製紙米子活動期

 1984年。

 19年ぶりに鳥取社会人野球活動チームが現れます。その名は王子製紙米子。当時の中国地区の社会人野球は山口、広島、岡山の山陽3県で行われていて、島根は活動休止。基本各県単位の一次予選は岡山県と共同で行われることとなります。

 当時の岡山県川崎製鉄水島(現JFE西日本)、三菱自動車水島(現三菱自動車倉敷オーシャンズ)という強力な2チームが在籍。84~96年の都市対抗野球・日本選手権一次予選は、参加チーム総当たりリーグ戦でを行いますが、王子製紙米子が一次予選で勝ったのは

1984都市対抗 3-2 三井造船玉野

1984年日本選手権8-0 三井造船玉野

三井造船玉野はこの年限りで活動終了

1988年都市対抗 5-4 川崎製鉄水島

1994年日本選手権4-3 三菱自動車水島

 4試合と苦しい戦いを強いられました。それでも地方大会では存在感を見せることもあり、1990年の徳山大会では準決勝進出。1993年には新王子製紙米子と名称が変更。

 1997年には島根県の島根商科専門学校が社会人野球に参戦したため、約60年ぶりに都市対抗“山陰予選”が復活。島根商科専門学校には優位に立ち、創部初の都市対抗野球二次予選に進出。チーム結成してから十数年経ち、一定の力量を示し始めたチームは97年、98年の徳山大会で準決勝に進出する成果を見せますが、「人材の集約化」を理由に愛知県の春日井チームに一本化、苫小牧、米子の両チームは活動終了することとなりました。15年の活動の中でプロ野球に嶋田哲也(タイガース)、玉峰伸典(ジャイアンツ)の2投手を輩出し、再び鳥取社会人野球は活動を休止します。

5 鳥取キタロウズ→ペアキングス10年の軌跡

 王子製紙米子が活動を休止して7年。2005年にわき上がったクラブチーム創設ラッシュは鳥取にも影響を及ぼし、2006年に鳥取県の著名人有志が集まり「鳥取キタロウズ」が結成されます。キタロウズの命名は同地出身の水木しげる氏作品「ゲゲゲの鬼太郎」から。当時の片山善博知事が名誉監督に就任し、川口和久氏、加藤伸一氏が指導陣に、浜名千広坊西浩嗣選手といった元NPB選手が加入。

 チーム結成当初は茨城ゴールデンゴールズとの定期有料試合も行われ、社会人野球に対する雰囲気も盛り上がりつつありましたが、都市対抗などの予選は強豪チームが揃う岡山県との戦いを余儀なくされ、主だった大会では序盤敗退。2009年のクラブ野球選手権中国一次予選では代表決定戦に進出しますが、倉敷ピーチジャックスに敗退します。

 この後2012年にキタロウズの名前を返還し、鳥取名産梨の英語名「ペアキングス」をチーム名称にして活動を続けますが、2016年日本野球連盟ホームページに活動休止が報告されます。2024年2月時点で活動休止継続中で、動きは全く見えない状態です。

 

6 実は調査途上、形にするには年単位で時間が必要です。

 

 2018年晩秋から始めた調べ物は、当時北上市立図書館に所蔵されていた毎日新聞に記載されている主要大会「都市対抗」「日本選手権」からはじめましたが、鳥取県チームはそれ以外の地方大会戦績の十分な記録収集ができてなく、米子鉄道局部分では国鉄大会の記録が、キタロウズ→ペアキングスの部分では2005年以降始まった各地方連盟部分クラブ大会の記録が十分とは言えません。

 特に後者は毎日新聞でも十分な記事発信がされておらず、参加チームの発信や連盟報によってようやく情報が得ることができる状態。JABAホームページは数年前に更新され、前ページ・アーカイブから記録を手繰るのが難しくなっているので、連盟報をさらって、刻んだ足跡を拾おうと考えています。

 

 まとめ

 

 この通り、鳥取県の社会人野球は長期活動3チームがそれぞれに残した足跡が全て、という感じで進行してきました。戦前に都市対抗本大会に進出した経験はありますが、その他は苦戦という言葉が頭に浮かぶ状況に。お隣の島根ではクラブチームが盛況となった時代もありましたが、鳥取では残念ながらそこに至らず。

 2005年にキタロウズが創設した当初は毎日新聞でもその動向が華々しく報じられもしましたが、それを長く継続させる状況には至らず休眠状態が続いています。他県の部分では「一度火をつけることができたのだから再び火を灯すこともできるはず」という言い方もしましたが、火がついた実績がそんなに多くなく、むしろ「厳しい現実」叩きつけられたなかで、熱意を焚きつけるには「準備しなければならないもの」というもの(別な言い方すれば“宿題”)は多そうです。

 ひとまずは刻んだ足跡を提示し、「鳥取県でも火をつけた人はいる」から再起の一助になれば幸いと勝手に考えて、この一文を記しておきます。次回は後発で調査対象にした佐賀県について触れていきます。

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