前年シーズン後に病気を発症させてしまい、2年間いたガソリンスタンドを辞めざるを得なくなってしまいました。その関係もあり、佐藤組北上球友も選手登録を外し、未登録のチームスタッフとしてチームを支えていくことにしました。
この年最初に行われた大会は都市対抗野球。5月15日に江刺運動公園で行われた県クラブ予選二回戦の対戦相手は奇しくも故郷・赤崎野球クラブ。北上球友は秋田経法大で活躍した千葉公一郎さん、専修大北上高軟式チームのエースとなっていた金濱潤君が加入し、初戦突破を目指します。
試合は予想通りの接戦となります。北上球友の先発は速球派の伊藤芳道さん、赤崎クもエースの高橋俊裕さん。北上球友はこの年JAいわてから移籍した及川義彦さん、キャッチャーの小菅義美さんの本塁打で赤崎クの3投手を攻略。伊藤さんも速球がさえ5-0で勝利することができました。試合が終わった後、突き刺さるような視線が束になって私に向けられていたのは言うまでもありません。19年後には逆の立ち位置で視線が束になって向けられることとなります。こんなんばかりで。
5月16日。会場は同じ江刺市でも根岸球場。前日の雨天から一転、晴れた天気ではありましたが、北上球友は長距離打者が多く欠場し、4番には本来投手(当時)の及川球士君を据えての戦いとなりました。相手の宮高倶楽部(いまの宮古倶楽部。ユニフォームは変わっていません)も本予選進出常連チーム。右サイドの石田、左上手の吉浜と左右の強力なエースがいて手強い相手でしたが、北上球友は8回までに6点を挙げ県本予選大会進出まであと1イニングと迫りました。
しかし野球は終わってみなければわからないもので、9回、エラーからリズムが乱れ5点差があっという間に消え、連投となった伊藤芳道さんの力投むなしく本予選進出を宮高倶楽部に持っていかれてしまいました。
約10日後に行われた県本予選大会でも番狂わせは続出し、二回戦では近年3年で2回西武球場に行っている釜石野球団が久慈クラブに、前年復活し快進撃を見せたJAいわてがアイワ岩手に、また上位常連の秩父小野田は宮城建設との試合、最終回あわや逆転というシーンで打球のきわどい判定で試合終了。コールが告げられても秩父小野田の選手の激しい抗議の姿があったのを覚えています。このように序盤戦で予想外、あるいはつぶし合いの展開があり、終わってみれば宮城建設が初優勝、アイワ岩手と水沢駒形が東北予選初進出という結果になりました。
7月に行われたクラブ野球選手権。佐藤組北上球友は他の大会の影響で約10人が出場できない状態に。都市対抗で破れた宮高倶楽部にリベンジを誓いましたが、2−6で敗戦。8月に行われた毎日旗秋季大会も盛岡倶楽部に8−10で敗れ(この試合には帯同できず)、この年のシーズンを終えました。
この年の岩手県勢の活躍を見てみると、都市対抗東北予選では水沢駒形が山形しあわせ銀行(いまのきらやか銀行)に1勝したのみで早期敗退。クラブ選手権では本大会に進出した水沢駒形が、大会直前に食あたりのアクシデントがありながら全太田倶、札幌倶楽部、WIENベースボールを破り決勝進出。鹿島レインボーズには惜しくも及ばなかったものの、新田、小野寺、小岩、菊池各投手の奮闘で全国準優勝を果たしました。日本選手権はJAいわてが都市対抗のリベンジとばかりに優勝。宮城建設、水沢駒形と3チームで東北大会に挑み、JAいわてがJTとの代表決定戦に挑みましたが、序盤の失点を覆せず3年ぶりの本大会進出はなりませんでした。
その他のトピックスで言いますと…5月に行われた県知事春季大会・久慈クラブ対岩手東芝の試合で37-3という試合を見ました。殊に、7回のイニング28点は仰天。打者4巡の攻撃を受けていた岩手東芝ベンチは誰も一言も発することができない状態に陥っていました。途中までは接戦だったのですが…。
この年から私はコンビニエンスストアの夜勤で働くことになりました。選手登録を外れたのもそういう事情からです。この時期は社会人野球の他にも母校大船渡農業高校のアドバイザーもしていたので、合間を見計らってはスクーターで大船渡に行って後輩の練習を手伝いました。最も手伝いになったかどうかは不安なところですが…。年始めに2ヶ月療養していたこともあり、野球に関わる密度が一番少なかった一年でした。次号は「激動の97年」を記していきます。