1.「いま有るベスト」で奮闘も、伸長・宮城建設に打ち砕かれる―都市対抗までの戦い。
前年までの数年間大きな成長を見せていた赤崎野球クラブですが、その原動力の山本淳一君が手術でこの年は登板不可能になり、チームを長年支えてきたベテランの先輩が次の道に歩むなど変化も起こり始めたシーズン。4月下旬に行われた大槌ロータリー大会は初戦に釜石野球団と当たり、終盤3イニング12失点を重ね1対16の大敗を喫したところからスタートしました。ちなみにこの大会の優勝チームは高田クラブ。金野潤也君(大震災で夭逝)がデビューした大会でした。
5月半ばに行われた都市対抗野球岩手クラブ予選。赤崎クは二回戦からの登場となり、一戸桜陵クと対戦。JAいわてで4番を打った小守さんを筆頭に打力のあるチームでしたが、投手陣は主力投手の入れ替わりの時期に入っていた状態で打撃戦が予想されました。この日の先発は右アンダーの大畑悟君で、二、三回には攻略も受けましたが、赤崎クは四回に集中打を浴びせて一気に7点、以降も追加点をあげ、終わってみれば19−4のコールドゲームで勝利しました。
県本予選進出戦の対戦相手は大槌球友から衣替えをした大槌倶楽部。二回戦・盛岡市立ク戦(現在活動停止、一部メンバーは盛岡桜窓クに)では終盤に逆転して勝ち上がってきたチームでしたが、経験値で上回る赤崎クは新生大槌を相手に先手をとり、佐藤琢哉君と木下清吾さんの本塁打。その後も小刻みに加点をし、投げては高橋俊裕さんが大槌打線を1点に抑え県本予選進出を決めました。
岩手県営球場で行われる県本予選、一回戦は宮城建設。この時期は北東北大学野球リーグの有望選手を次々に加え上位進出を目標にし始めた時期で、特に99年に入社した高橋優禎、藤村哲夫(二人は青森大出)鈴木敦則(秋田経法大出)各選手が強力な攻撃陣の形成に寄与。赤崎ク先発の大畑君、リリーフした高橋さん合わせて18失点をくらい、打線も宮城建設の投手陣をとらえることができず七回コールド、0−18で破れました。破れてなお向上心を失わない赤崎クメンバーですが、この日の大敗は応えたようでした。
2.苦杯は喫しても歩みは止めず―クラブ選、毎日旗の戦い。
前年の夏から大船渡で5日、北上市で2日勤務するという日程を過ごし、更に大船渡農業高校野球部にも関わっていた身としては社会人野球に集中しきることができず、この後行われた公式戦に満足に協力することができませんでした。当時の新聞などを基に記していきます。
クラブ野球選手権では宮高倶楽部に14-6、盛岡市立クラブに12-8と打ち勝ってきましたが、久慈クラブには4-5であと一歩届かず敗戦。毎日旗秋季野球大会では花巻硬友倶に17-1で勝ち、オール江刺にも13-0で勝ち準決勝に進出しましたが、再び対戦した久慈クラブには2-15と差をつけられて敗れました。エースが離脱という苦しい展開でしたが、その中でも地力はしっかり築き、強豪(当時は駒形、久慈、釜石、一関で4強、という見立てをしていました)チームには差をつけられることがあっても、それ以外の試合は粘って勝てるようになったことが一番の収穫と考えます。
3.岩手社会人野球全国への道
都市対抗野球県予選では、前年まで東北大会に進出していたJAいわてが久慈クに敗戦、一関三星倶は指名打者に入っていた選手が球場にたどり着けず没収試合となる状況に。様々な波乱が起こった大会ですが県大会優勝は太平洋セメント(2回目)。準決勝で宮城建設を破った水沢駒形倶が準優勝。第三代表決定戦は「久慈市代表決定戦」となり、宮城建設が久慈クラブを下し東北大会に進出。しかし東北大会では駒形がクラブチーム化したNTT宮城クラブに勝ったほかは軒並み辛酸を舐めさせられ、最後は太平洋セメントが自衛隊青森に、水沢駒形倶楽部が三菱製紙八戸に1点届かず東京ドームへの挑戦は終わりました。
日本選手権予選では太平洋、宮城建設に県予選で第3代表になったJAいわてが東北の舞台に挑みましたが、いずれも宮城のチームに大差をつけられて敗退。クラブ野球選手権は水沢駒形、久慈ク、高田クが東北大会に挑み、水沢駒形、久慈クは全国出場。高田クは新庄球友にあと2点届きませんでした。全国大会では駒形、久慈両チームとも1勝はあげましたが、駒形は伊勢崎に、久慈は全足利に敗れ全国制覇まで届きませんでした。なお、北上市長旗大会で前所属の佐藤組北上球友が、準決勝で岩手大学に23-16で勝つと、決勝で水沢駒形に12-10と打ち勝ち、1984年クラブ選岩手予選以来の大会優勝を決めました。
4.より強く感じさせられた「続けることの大変さ」。
この歳は年始めに東北住電装が、年度末には事業改編の影響で岩手東芝、更に会社のリストラの関係でアイワ岩手が活動休止というニュースも。様々な意味で野球を続けるということ自体の難しさを考えさせられる一年となりました。
先にも少々述べましたが、99年の途中から週7日、しかも働く場所を変えて仕事をするという、今から考えてみれば無茶苦茶なことをしています。それでも野球から完全に切れるということは考えずに、条件の許す限大会に帯同し続けその軌跡を直に見てきました。この時期に辞めなかったことが2018年現在続ける力になりましたし、見放さないでくれた赤崎クメンバーの皆様の厚意に感謝申し上げるものです。