2日前になりますが、3月9日は、東日本大震災の予震となった地震が起きた日でありました。通常のツイートの中に震災から1年目〜2年目を振り返っていくことにします。
あの日から、故郷大船渡・陸前高田をはじめとした被災地を頭から離した事はありません。ただ一方では心身ともに優れず、日常に生きることで精一杯で、現地に向かう回数が減ってしまいました。
被災県と言われる岩手県ではありますが、内陸地方では震災前と変わらず、元に戻ったように感じます。ただ、一人一人の心中はどうでしょうか。有ったものが一気にもぎ取られた事によるショックと、一方での日常に紛れる思いと。両方持ちながら生きているというのが現状と思います。
先日、あるフォロワーの記事に気付かされた事があった。その方の呟きは「“3・11”から起きた事を思い返してみよう」。
で、思い返してみた。
津波の被害こそはなかったけど、ライフラインは壊れ、物流が止まった結果として生活に必要なものが手に入らなくなった。
ガソリンの確保は特に難儀を極めた。大手の精製・流通ルートはストップ。独自ルートを持った所が奮闘しましたが、燃料が必要な人との激しい軋轢という場面も数多く。その前線に立っていた店員の方が、落ち着いた頃にその場を離れた話を聞くと「過重負担にさせた」と残念に思ったものでした。
もうひとつ難儀したのは食料の確保。震災直後は店頭での販売。その後も個数限定での販売が続きました。地震直前に買い物していたとはいえ、やはり何日かに一度は食料確保に走らなきゃなりません。
車がほぼガス欠になってしまっていたので、カートを引きずりながら街中を歩いていたのを思い出します。 やはり流通が壊れていた中、当面は在庫分。その内に種類も増えていきましたが、あきらかに他地域商品の姿もありました。
その後も商品こそ揃うようにはなりましたが、暫く買い物には難儀したのを覚えています。地震前の水準に戻ったのは5、6月だったかな。そんな記憶です。
一方で被災地は…一ヶ月後に行ってみましたが、コンビニでもストアでも物が入っておらず、空の棚が影響の甚大さを物語っていました。
続いて津波そのもの。自分は沿岸地域を歩く際に「もし津波が来たらここに〜」と考えていた場所がいくつかあった。
しかし、今回の津波はその規模をはるかにぶっ飛ばし、殊に陸前高田市、南三陸町志津川、石巻市に関しては自分の「避難場所」は完全に役に立たなかった。
陸前高田は竹駒町、下矢作地区など「ここまでは」と思った所が浸水。志津川では街中に入っていたらおそらく車では抜け出せず、比較的高層の建築物も完全に波を被った。石巻でも広い範囲に人持っていくぐらいの浸水…。特にこの3地区の浸水具合にショックを受けたが、他の自治体…大船渡にしても、赤崎、大船渡町北部、盛町までが波を被ったのが予想外。釜石も鵜住居地区が、大槌も大槌地区が広範囲に食らい、吉里吉里地区でも予想外に高いところに来たのがショックでした。
この震災で犠牲になられた方が1万5千人強。未だ行方が分からない方も3千人近く。避難生活を強いられている方が30万人以上。知人誰かをなくしたというキズを負った人は…無数。数字では計れないキズと、そんでも生きていかなきゃならない現実と。
震災・津波は対象選ばず、各々の生きる思いをもぎ取っていった。その無念が分かるだけに、たとえ一般人であろうが津波に対して軽んじも、侮辱する言動は許せない。「津波で死んだ奴は〜」「嫌いな属性の奴は警報出たら海岸で寝ろ」…死ぬ覚悟があったら現地で言ってみろ。そゆことだ。
3・11後どういう道を刻むか。地震で突きつけられた「弱さ」をどういう方向で解決していくか。刺々しく他人を圧する強さでなく、共に歩み続けられる強さを。いまは前者が押しているように見えますが、人間の発展力を信じ、働きかけることで逆転する事を願い、この一項を閉じます。
…まずここまで書いてみましたか。
思い出すことって思ったより多いな。それこそが忘却を許さない力になるのでしょうが、一方で人間の弱さ叩きつけられるようで。
でもな、しっかり向き合わな。
もう少し書く内容練って、暫く後に記事を続けます。