今回記事は7月7日にFacebookに記した記事を転載します。
前回の記事では母の最期の1日についてふれました。なぜ「母の最期を悔いなく迎えさせる」ことに力を入れたか。それは父の時の「悔い」があったからでした。
父と母は私が中学生の時に離婚。その後父は大船渡を離れ埼玉の蕨市に移ります。高校の修学旅行の時は東京駅に来てもらって涙の再会を果たしましたが、その後高校卒業の時に一度貰っただけで以後は音信不通になります。それから15年が経ち、父は働けなくなって社会保障の世話になることに。その際父が居住していた自治体(千葉県)から連絡文書が来て所在地はわかりましたが、間もなく私が心筋梗塞で倒れます。これでは何もできません。
2010年。部分的に社会に復帰していた私は「機会を見つけて親父の所に行ってやろう」と。その機会は9月と設定し、別件の用事と併せて父の所に寄ろうと思っていた矢先、父がなくなっていたことを知らされました。2日違いで祖母もなくし、その際の対応でゴタクサも起き、居住地から父の遺骨は持って帰りましたが何か抜けてしまったような気持になり「別件の用足し」に行くのも断念。もっと早くに機会を見つけて一度でも会ってやれば良かったと激しく後悔したのを思い出します。
それから約半年後に東日本大震災。先に語った「別件の用足し」は社会人野球・クラブ選手権全国大会に出場した高田クラブの試合を見に行くことでしたがそれはかなわず、震災では高田クラブメンバーからも犠牲者が出て、陸前高田市も、大船渡市も…。私自身も3月11日は大船渡にいる予定でしたが、なぜか母がきかなくて大船渡行きを断念。ここまで書いたことを全部まとめて「何もできなかったこと」に悔しさを覚えました。
だから「今度こそ何もできなかったと後悔したくない」。そういう思いで2010年代を走り抜けてきました。侠気心が先走って「常識外」の行動もすることがありましたが。
ここまで触れてきた経験を踏まえて、父にはやろうと思ったことができなかった。だから母の時には「悔いなく」…と思ったわけです。人間100パーセント納得ずくで最期を迎えられることはないのでしょうが、納得行く人生を歩んで行こうと目標を定めて生きることはできるのではないでしょうか。これまでの不摂生がたたって「重し」がいくつもあるというのが実情ですが、最後まで歩みきった母の人生を見習って、最後まで生き抜くというのを意識しながらこれからも歩いて行きます。
母を悼む一文シリーズはここまで2つ記してきました。あとひとつ書いてこのシリーズを終えます。