MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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『復活』三陸沿岸クラブ大会、釜石が優勝、住田準V、赤崎は緒戦敗退。【2020社会人野球】

 こんにちは。社会人野球の記事集中投稿の第二弾は、7月4、5日に行われた「第1回三陸沿岸クラブ野球大会」の雑観を、毎日新聞岩手版に掲載された記事をもとに記していきます。
 7月4日の早朝にアップした「大槌ロータリークラブ旗争奪三陸沿岸クラブ野球大会回顧」で記した通り、2011年の東日本大震災で同大会が中止になって以来の沿岸地区社会人野球大会。久慈クラブ、宮古倶楽部、釜石野球団、住田硬式ク、赤崎野球クの5チーム参加で宮古運動公園野球場を会場に行われました。
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◆一回戦 釜石野球団 16−13 久慈クラブ
 中盤までは久慈クラブが優勢に試合を進めていたが、釜石野球団が終盤の猛攻撃で逆転。終盤の乱打戦を制して準決勝に進出した。釜石は7、8回だけで13得点を挙げ、投げては乙津が完投勝利。久慈は5投手継投、山崎が大会1号本塁打を放ったが逃げ切ることができなかった。
◆準決勝 住田硬式ク 10−8 赤崎野球ク
 新人が多数加わった住田はその中の吉田が投打に活躍。チームで7長打を浴びせ30数年ぶりに赤崎に勝利した。赤崎は3、4回に7点を挙げ一度は逆転したが、住田が直後に4点を挙げて再逆転。赤崎は記録に表れないミスも出て住田に足をすくわれる結果となった。
◆準決勝 釜石野球団 3−1 宮古倶楽部
 地元開催で錦を飾りたかった宮古倶楽部は斎藤が奮闘したが、釜石新戦力の臼沢、中居林両投手に打線を封じられ惜しくも敗れ去った。釜石は初回に先制、5回に2点を挙げダメを押した。三浦が長打2本の活躍。
◆決勝戦 釜石野球団 7−2 住田硬式ク
 チーム結成以来初の決勝戦進出となった住田。勢いのままに一気に初優勝を狙ったが、一歩先にチーム力向上の波に乗っていた釜石が中盤までに満遍なく得点を重ね経験値の差を見せて初代王者に輝いた。菊池健、黄川田の「チーム力向上の象徴」の投げ合いは見事だった。
 この大会の表彰選手は以下の通りです。なお、吉田選手の写真はありません。ご容赦ください。
 菊池健太郎(釜石・最高殊勲選手賞)
 黄川田大雅(住田・敢闘賞)
 吉田凛之介(住田・首位打者賞)

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 岩手県連盟のホームページを見ましたが、菊池選手の顔構えにたくましさを増しました。3年前20歳の時からキャプテンを任され、場数と経験を踏んだ足跡をそこに見た思いです。住田の表彰選手二人はともに投打二刀流で活躍。なかなか結果には恵まれてこなかった住田クですが、大変な状況の中でも戦い続けてきた結果が一つ出たものと思います(自分の立場から見れば悔しいですけど)。赤崎野球クについては…記事中に書いた通り。文字通りの「過失で失う点」が多かったそうです。気を入れ直し次の戦いに臨んでいただきたいです。
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 今回は無観客試合ということもあり宮古に行くことを見合せました。さきにふれた大槌大会の記事では「岩手の社会人野球再開最初の大会が沿岸のクラブチーム大会というのも感慨深い」と記しましたが、じかに見届ける状況になかったこと自体は残念です。
 23日から行われる都市対抗野球からは野球場で直に試合を見ることができます。今年は全大会で楽曲応援をすることができなくなりましたが、27回目の社会人野球シーズン、「記録者」として皆さんの活躍を見届けようと思います。

 

1946~1952年都市対抗野球地区予選調査結果一覧表(2020年2月迄調査分)

 こんにちは。いよいよ今週は都市対抗開催の週となりました。木曜日の開幕を前に社会人野球の記事をいくつか投稿します。第1回は「以前の都市対抗野球地区予選の成績」。1927年から42年までの部分は先頃にアップしましたが今回はその続き、1946年から1952年の地区予選の成績をアップします。
 戦前は毎日新聞東京日日新聞の紙面が12〜16ページで編成されていましたが、戦後は表裏の2ページ(1946年)から6ページ(1952年)。その過程の中でプロ野球は戦前の最大9球団から2リーグ15球団に、ほかのスポーツも取り上げられるようになり、かなり窮屈に紙面の編成をしても漏れてしまう部分が。特に1950年から1952年の一次予選(基本道府県単位、北海道は6ブロック)は代表決定戦しか取り上げられないケースが多くありました。東日本17都道県は国会図書館にある毎日新聞地方版から記録を得ることができましたが、東海、北陸、近畿、四国、中国一部地区の毎日地方版は同図書館で所蔵されてなく、その部分は後刻調べようと思っていたところにコビック19・コロナ感染症が拡大してしまい、調査をあきらめざるを得なくなりました。現在は各県のレファレンスサービスを利用して調査をする準備をしていますが、その準備には時間がかかりそうです。
 したがって今回の記事も調査としては未完成のままアップすることに。去年の日刊スポーツでは戦後社会人野球チームが爆発的に増加した様子を、兵庫県にあった春美クラブを中心に取り上げられていましたが、その空気を一部分でも感じていただければ幸いです。
 
PS→表紙を作ることができなかったので、そこに入れる一文を下記の通り記します。当文から読み始める方を意識しています。
 社会人野球の調べもので、大きな基本となるのは「いつ・どこで・試合結果」が記された一覧表的な基礎資料の存在です。近隣の北上市図書館に保存されている毎日新聞縮刷版は1950年から、1952年までは増加する記事量に必要な紙面が追いついていなかったせいか、一次予選は決勝戦のみの記載になっているのが大多数でした。53年以降は縮刷版で調べることが可能でしたが、それ以前の一次決勝戦以外は
A.北上図書館にある朝日新聞縮刷版(こちらは1931年から)に記載されていた二次予選結果
B.その調査結果を基に46〜52年は岩手県立&盛岡市上田公民館で得られる限りの情報入手、28〜42年は福島県立図書館所蔵の東京日日新聞から情報入手
C.国会図書館で毎日地方版、地方本社(大阪、名古屋など)を基に情報入手
 …という段階を経て調べものを続けました。都市対抗野球が始まったのは1927年からですが、社会人野球を統括する団体は1949年頃の確立、冊子形の年報を出すのは1953年度記録版からで、どっちみち先のような経過は経なければならなかったわけです。
◎引用新聞と利用した図書館
▽新聞→毎日新聞・同地方版・同台湾版・同 満州版・同朝鮮版。地方新聞では岩手日報東奥日報河北新報福島民報下野新聞、山梨日日、福井新聞、大和タイムス(現・奈良新聞)、島根新聞(現・山陰中央)、
日向日日(現・宮崎日日)、大分日日、熊本日日、 南日本新聞沖縄タイムス。社会人野球記録・ 記念誌では岩手県連盟、秋田県連盟、宮城県連盟、九州地区連盟発行書から調査・引用。 図書館はここまでの表記以外で東京都立、青森県立、野球博物館のお世話になりました。
 文中の「調査未到達」は文字通り。記述の前後で錯誤があった場合はその状況に至った経過を記述します。日付はその事項の最終確認日。
 1946年以降は満州、中国、台湾、朝鮮の4地区大会は消滅。アメリカ統治下にある沖縄の初参加は1952年、それ以前の記述は省略しています。ご容赦ください。

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申しわけありませんが「存在の維持」を最優先にします。記事が遅れる可能性あるのをご容赦ください。

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 こんにちは。いよいよ社会人野球のシーズンも本格的に始まろうとします。今年は「日本選手権」「クラブ野球選手権」の全国的大会が中止。「都市対抗野球」が唯一の全国的大会となります。
 10数年社会人野球も書き続けているこのブログですが、制作環境が変わってしまい、2019年もそうでしたがこれまでのように毎日毎日スクエアに記事を出せる状況になくなってしまいました。状況があればこれまで通りに書き続けるつもりではいますが、正直簡単でないです。その場合は週単位で記事を書くということもあり得ますので、その部分も踏まえてどうかおつきあいよろしくお願いします。
 去年は3度も大きなダウンを経験し、今年3月に血糖値の異常が原因だというのが判明しました。いわゆる「基礎疾患」が2つになってしまい、がさつな自分なりに最悪の目に至らないように体調維持の取り組みはしています。

 まだこの場を去ることはできない。

 その意思を持ちながら、今年も社会人野球を見届けてまいります。

1927〜1942年都市対抗野球の各地区予選試合結果 調査一覧表。

2020年7月21日 写真を拡大修正しました。

2021年4月5日 30年代前半の山梨県・桂クラブの試合には誤りあります。次版には修正します。

 都市対抗野球は7月に入って各地で一次予選がはじまっています。岩手でも組み合わせ表が回ってきましたが、拙稿では三陸沿岸クラブ大会と併せ来週紹介にします。

 今記事ではFacebookで5月にアップした1927〜42年都市対抗野球地方予選一覧をJPEG形式で23ページでまとめたものを紹介します。過日の大槌大会は縦置きだったのである程度読みやすかったと思いますが、今項は横置きにしたので読みやすさが保証できない状態なのはお詫びします。記事に関しての但し書きは最初のページで。

 Facebookは諸事情で閲覧に制限をもうけているので、広く見ていただくためにブログで再アップすることにしました。時間許す限りどうぞおつきあいください。

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今度こそ後悔したくない−10年前の父の件から。

 今回記事は7月7日にFacebookに記した記事を転載します。


 前回の記事では母の最期の1日についてふれました。なぜ「母の最期を悔いなく迎えさせる」ことに力を入れたか。それは父の時の「悔い」があったからでした。
 父と母は私が中学生の時に離婚。その後父は大船渡を離れ埼玉の蕨市に移ります。高校の修学旅行の時は東京駅に来てもらって涙の再会を果たしましたが、その後高校卒業の時に一度貰っただけで以後は音信不通になります。それから15年が経ち、父は働けなくなって社会保障の世話になることに。その際父が居住していた自治体(千葉県)から連絡文書が来て所在地はわかりましたが、間もなく私が心筋梗塞で倒れます。これでは何もできません。
 2010年。部分的に社会に復帰していた私は「機会を見つけて親父の所に行ってやろう」と。その機会は9月と設定し、別件の用事と併せて父の所に寄ろうと思っていた矢先、父がなくなっていたことを知らされました。2日違いで祖母もなくし、その際の対応でゴタクサも起き、居住地から父の遺骨は持って帰りましたが何か抜けてしまったような気持になり「別件の用足し」に行くのも断念。もっと早くに機会を見つけて一度でも会ってやれば良かったと激しく後悔したのを思い出します。
 それから約半年後に東日本大震災。先に語った「別件の用足し」は社会人野球・クラブ選手権全国大会に出場した高田クラブの試合を見に行くことでしたがそれはかなわず、震災では高田クラブメンバーからも犠牲者が出て、陸前高田市も、大船渡市も…。私自身も3月11日は大船渡にいる予定でしたが、なぜか母がきかなくて大船渡行きを断念。ここまで書いたことを全部まとめて「何もできなかったこと」に悔しさを覚えました。
 だから「今度こそ何もできなかったと後悔したくない」。そういう思いで2010年代を走り抜けてきました。侠気心が先走って「常識外」の行動もすることがありましたが。
 ここまで触れてきた経験を踏まえて、父にはやろうと思ったことができなかった。だから母の時には「悔いなく」…と思ったわけです。人間100パーセント納得ずくで最期を迎えられることはないのでしょうが、納得行く人生を歩んで行こうと目標を定めて生きることはできるのではないでしょうか。これまでの不摂生がたたって「重し」がいくつもあるというのが実情ですが、最後まで歩みきった母の人生を見習って、最後まで生き抜くというのを意識しながらこれからも歩いて行きます。


 母を悼む一文シリーズはここまで2つ記してきました。あとひとつ書いてこのシリーズを終えます。

母の葬儀も終わりました。記事本格再開は日曜日を予定します。

 今日は。母の葬儀も9日に終えまして、一区切りがつきました。気にかけていただいた皆様、ありがとうございました。

 三陸沿岸クラブ大会など拙稿の本格的記述再開は日曜日を予定しています。

母の最後の1日。

1)昼に書いた一報でもお知らせしましたが、母が7月5日7時13分に永眠しました。

 79年にわたる人生、特にここ数年はあちこち手術を要する病気を発症し、その都度都度「もうだめだよ」と言われていました。しかし、土俵際に強い性質持っているのか、そういったところから何回も「生還」。一年前も病院移しての手術を越えてきました。その時点で医師が「手を打てる箇所はなくなった」と。あとは家族で覚悟を決めて「最期を悔いなくむかえられるように生きる」ことを意識して行動をしてきました。

2)母が最後に会った人間、結果的に私になりました。いまはコビット19・コロナの影響で15分くらいしか病室に居られないんですね。ここ1ヶ月で急激に体力が弱り、今まで歩けていた箇所も歩けない状態になり水曜日に入院。土曜日。締め切りある仕事を終えて病院に。この時は「長期戦」を考えて、今いる県立病院からどこに移ってどう対応するか、という感じで話を進めていました。どうも次の病院は遠そうだ、ならいるうちにできるだけ顔出すかと病院に。いつも入院時はテレビ見てのほほんとしていた母ですが今回はそれもできていませんでした。

 「勉、足痛い。解してくれ」

 ―左足は既に体温を感じなくなってしまってました。筋も痛くて眠れないと。いることのできた10数分間、ずっとさすってました。

 「楽になったわ。誰もやってくんなくてな。これで寝れそうだ」

 何言ってんだ、と。こんで眠れるようになるなら毎日来てさすってやるぞ、などとはなし語りして

 「じゃあな気をつけて歩けよ」

 これが最後の会話になりました。今朝、母がなくなったことを知らされたとき、なくなったことには驚きましたが、それ以上に「悔いは残さず送ってやれた」という思いでいます。悲しさ、寂しさはありますが。

3)45年前。母が私を妊娠した際、途中で盲腸手術をすることに。兄を出産して以来の妊娠がうまくいかなかったこともあり、周りからは「諦めろ」の声。しかし…普段マイペースな母ですが、一線越えるとぶっ切れる性格を持っていました。

 断固拒否。

 その結果、生まれてきたのが私です。一般的な同年代に比べると…な生活をして来た私ですが、それでもこの世に産み出してくれた母には感謝してもし足りません。一般的な親孝行はできませんでしたが、1日でも長く生きて、ひとつでも何かを社会に残す。生きた証を残すことで母の「気迫」に応えていきます。

 長文おつきあいいただきありがとうございました。

お知らせ。母が79年の人生を終えました。

 7月5日朝7時、入院中の母が永眠しました。

 ここ数年、毎年のように手術を繰り返しながら、頑張って乗り越え、特に一年前の入院では「もう手術で対応する箇所はない」という状態になり、そこからの一年は「納得いく最期をむかえられるように悔いなく相対する」ことを私も、本人も意識して過ごしてきました。余分な苦しみなく、休ませてやれたことが何よりです。

 もう少ししたら会いに行きます。(2020年7月5日8時記)

第1回三陸沿岸クラブ大会開催記念。94-10開催の大槌大会を振り返ります。【2020社会人野球】

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 こんにちは。なんとか当日までに間に合いました。今日7月4日から始まる社会人野球・三陸沿岸クラブ大会の開催をお祝いし、そしてかつて行われていた大槌大会を振り返る記事を以下の写真の通りつくりました。時間よろしければ、しばしおつきあいください。開催に尽力された皆様にお礼を申し上げ、参加しかかわるチーム、選手の皆様のご健闘を願います。

※今回の記事の中身はすべて写真の記事に入れています。それぞれのページはクリックすると拡大します。また、それでも見づらい場合はPCの場合ダウンロードしてご覧ください。

万年補欠から―競技・発表の大目標奪われた人生の後輩に。【拙稿3媒体共通記事】

 社会人野球の日程が発表された2月初頭の時点で、既にコビット19・コロナは拡散の兆候を見せ始めていました。その時にイメージしたのは2009年に起きたSARSなどですが、私の見通しが甘かったのはその後の状況ご覧いただければお分かりでしょう。

 その中で、高校野球は振替試合・代替大会の開催を検討する箇所が増え、社会人野球は7月から都市対抗野球を中心にしての公式戦開催に向けて準備が始まっています。

1.学生競技・発表の機会が無くなる、の報に至るまで。

 年限のある学生スポーツ・文化活動…殊に高校部分、最終学年にいる競技者・表現者にとっては集大成を奪われるという事態になりました。小学、中学にも最終学年はありますが、高校生の次ステップは進学にせよ就職にせよ大きな変動を伴います。それぞれに秀でた人は続けることもできますが、圧倒的大多数は「本格的な競技・表現」を終えざるを得ません。

 その終わりが実践の場に立った上で迎えられるならまだ区切りも着きやすいでしょう。それをも奪われるという報道を聞いたときは…「無情」しか感じませんでした。

2.無情さを埋めようとする取り組みと私の力の無さ。

 コビット19・コロナは生活の場にいるすべての人に罹患する可能性があり、影響は全体的なものになります。もっとぶっちゃけ言えば「完全に安全な箇所がない」。大会の中止どころか、区切りをつけられる箇所さえ見つからない。一気にそういう状況に陥った人生の後輩に、かける言葉を見出だせませんでした。

 すぐ思い付くような言葉は身近な方が第一に言うでしょう。そのあとは著名人による発言も出て。社会人野球でも万年補欠続けている俺が何か言えますか?無力さを恥じましたよ。人生で何百回目か知りませんが。

3.拙い人生と脳みそをしぼって、いくつか言葉を置いていきます。

 コビット19・コロナ禍が現れてから5ヶ月。東日本大震災も経験しましたが、それよりも厳しい状態に見舞われて、ここまで述べた状況になりました。拙い人生と脳みそをしぼって、いくつか言葉を置いていきます。

1)様々“ポジティブ”な言葉は並びますが、それに素直にくめないのは、ポジティブさを醸し出そうとするあまりに社会を急かしたて、疲れさせてやいないかと白々しく思ってしまう私の考えから。

 「今回の経験を人生に生かす」という言葉も、ひとつ深く考えたい。その場を納得させるだけに収めず、自分が経験した理不尽をどのような視点・方向で今後に生かすか、それを追求してください。

2)無情なり無常なりというのは生きている限り付き合って行かざるを得ません。そういった「この世に在る」ことに、どんな“芯”を自分に持って向き合うか。これもやはり追求しながら(以下略。

3)その上で、この先の人生、一生懸命生きてください。生き抜いてください。私は生きやすくするための環境づくりに取り組むことで「協力」します。

 様々生意気語りました。おつきあいいただきありがとうございました。

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