MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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190220記事製作日記。

 今日は。「社会人野球回顧」の記事も1996〜2000年と記して来ましたがひとまずはここまでです。残りは2001〜2004年ですが、準備も必要なので(土下座)こちらは3月中までの完成目指します。

 現在の図書館調査テーマは

1)福島県都市対抗・日本選手権試合結果本格化

2)都市対抗未出場県の山梨、福井、島根、宮崎並びに空白度合いの多かった奈良、鳥取、環境に違いがあった沖縄の調査。

3)予選開催時の「予選日程」複写。

 …まー、全部複写しきってからテーマごとに、とした方が図書館の方の負担がなくていいのですが、調べる時間と労力の当方側の都合もありまして。まさか拡大鏡ハズキルーペに非ず)使うことになるとは思いませんでした。3)をとったのは他のテーマが調べやすくなるから。シーズンインすれば余裕はなくなるので4月当初まで調べられるだけ調べます。

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 一方、完成を優先するのは高校野球。最初は「高校ごと」でつくろうと思いましたが、不都合が起きまして(←能力のなさをこの言葉でごまかすな)試合ごとの記述にします。現在写真の選定は終了。雨天でスコアがつけられなかった大船渡東―盛岡商の記述に難儀していますが、あとは記事に仕上げる、という段階です。最近は卒業式を二月中に済ます所も多くなったので、その部分感覚のズレに戸惑っていますがなんとか2月中にアップ―余裕あれば連日、なければ一気に―できるように努めます。

 雪じゃなく雨が降っている岩手内陸部ですが、皆様のところはいかがですか。お気をつけてお過ごしください。

2000年社会人野球―強豪と戦う舞台までは上がるもののそこで突きつけられた「差」。週7勤務の中の野球とのつきあい。

1.「いま有るベスト」で奮闘も、伸長・宮城建設に打ち砕かれる都市対抗までの戦い。

 前年までの数年間大きな成長を見せていた赤崎野球クラブですが、その原動力の山本淳一君が手術でこの年は登板不可能になり、チームを長年支えてきたベテランの先輩が次の道に歩むなど変化も起こり始めたシーズン。4月下旬に行われた大槌ロータリー大会は初戦に釜石野球団と当たり、終盤3イニング12失点を重ね1対16の大敗を喫したところからスタートしました。ちなみにこの大会の優勝チームは高田クラブ。金野潤也君(大震災で夭逝)がデビューした大会でした。

 5月半ばに行われた都市対抗野球岩手クラブ予選。赤崎クは二回戦からの登場となり、一戸桜陵クと対戦。JAいわてで4番を打った小守さんを筆頭に打力のあるチームでしたが、投手陣は主力投手の入れ替わりの時期に入っていた状態で打撃戦が予想されました。この日の先発は右アンダーの大畑悟君で、二、三回には攻略も受けましたが、赤崎クは四回に集中打を浴びせて一気に7点、以降も追加点をあげ、終わってみれば19−4のコールドゲームで勝利しました。

 県本予選進出戦の対戦相手は大槌球友から衣替えをした大槌倶楽部。二回戦・盛岡市立ク戦(現在活動停止、一部メンバーは盛岡桜窓クに)では終盤に逆転して勝ち上がってきたチームでしたが、経験値で上回る赤崎クは新生大槌を相手に先手をとり、佐藤琢哉君と木下清吾さんの本塁打。その後も小刻みに加点をし、投げては高橋俊裕さんが大槌打線を1点に抑え県本予選進出を決めました。

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二試合とも会場は胆沢町営球場で行われました。

 岩手県営球場で行われる県本予選、一回戦は宮城建設。この時期は北東北大学野球リーグの有望選手を次々に加え上位進出を目標にし始めた時期で、特に99年に入社した高橋優禎、藤村哲夫(二人は青森大出)鈴木敦則(秋田経法大出)各選手が強力な攻撃陣の形成に寄与。赤崎ク先発の大畑君、リリーフした高橋さん合わせて18失点をくらい、打線も宮城建設の投手陣をとらえることができず七回コールド、0−18で破れました。破れてなお向上心を失わない赤崎クメンバーですが、この日の大敗は応えたようでした。

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2.苦杯は喫しても歩みは止めず―クラブ選、毎日旗の戦い。

 前年の夏から大船渡で5日、北上市で2日勤務するという日程を過ごし、更に大船渡農業高校野球部にも関わっていた身としては社会人野球に集中しきることができず、この後行われた公式戦に満足に協力することができませんでした。当時の新聞などを基に記していきます。

 クラブ野球選手権では宮高倶楽部に14-6、盛岡市立クラブに12-8と打ち勝ってきましたが、久慈クラブには4-5であと一歩届かず敗戦。毎日旗秋季野球大会では花巻硬友倶に17-1で勝ち、オール江刺にも13-0で勝ち準決勝に進出しましたが、再び対戦した久慈クラブには2-15と差をつけられて敗れました。エースが離脱という苦しい展開でしたが、その中でも地力はしっかり築き、強豪(当時は駒形、久慈、釜石、一関で4強、という見立てをしていました)チームには差をつけられることがあっても、それ以外の試合は粘って勝てるようになったことが一番の収穫と考えます。

3.岩手社会人野球全国への道

 都市対抗野球県予選では、前年まで東北大会に進出していたJAいわてが久慈クに敗戦、一関三星倶は指名打者に入っていた選手が球場にたどり着けず没収試合となる状況に。様々な波乱が起こった大会ですが県大会優勝は太平洋セメント(2回目)。準決勝で宮城建設を破った水沢駒形倶が準優勝。第三代表決定戦は「久慈市代表決定戦」となり、宮城建設が久慈クラブを下し東北大会に進出。しかし東北大会では駒形がクラブチーム化したNTT宮城クラブに勝ったほかは軒並み辛酸を舐めさせられ、最後は太平洋セメント自衛隊青森に、水沢駒形倶楽部が三菱製紙八戸に1点届かず東京ドームへの挑戦は終わりました。

 日本選手権予選では太平洋、宮城建設に県予選で第3代表になったJAいわてが東北の舞台に挑みましたが、いずれも宮城のチームに大差をつけられて敗退。クラブ野球選手権は水沢駒形、久慈ク、高田クが東北大会に挑み、水沢駒形、久慈クは全国出場。高田クは新庄球友にあと2点届きませんでした。全国大会では駒形、久慈両チームとも1勝はあげましたが、駒形は伊勢崎に、久慈は全足利に敗れ全国制覇まで届きませんでした。なお、北上市長旗大会で前所属の佐藤組北上球友が、準決勝で岩手大学に23-16で勝つと、決勝で水沢駒形に12-10と打ち勝ち、1984年クラブ選岩手予選以来の大会優勝を決めました。

4.より強く感じさせられた「続けることの大変さ」。

 この歳は年始めに東北住電装が、年度末には事業改編の影響で岩手東芝、更に会社のリストラの関係でアイワ岩手が活動休止というニュースも。様々な意味で野球を続けるということ自体の難しさを考えさせられる一年となりました。

 先にも少々述べましたが、99年の途中から週7日、しかも働く場所を変えて仕事をするという、今から考えてみれば無茶苦茶なことをしています。それでも野球から完全に切れるということは考えずに、条件の許す限大会に帯同し続けその軌跡を直に見てきました。この時期に辞めなかったことが2018年現在続ける力になりましたし、見放さないでくれた赤崎クメンバーの皆様の厚意に感謝申し上げるものです。

1999年社会人野球―赤崎ク、成長路線一時停止も強化を模索/都市対抗東北予選を見て意識しはじめた「広い世界」。

 一つの手応えをつかんで勝ち進んだ1998年でしたが、この年は苦難・苦戦を強いられた一年でした。

1.つかんでいたはずの手応えと、壊された礎。

 春に行われた大槌ロータリー大会は一回戦で久慈クラブに1―2と敗戦。仕事の事情で帯同できないのが残念でした。仕事が一段落した五月開催の都市対抗野球からようやく野球を手伝えるように。この年は第70回の記念大会となり、トーナメントもクラブ予選なしの全チーム一同に介する形態で行われました。このような形態になると序盤で強豪チームに当たるということもありえ、実際赤崎野球クは一回戦で水沢駒形倶と対戦することに。98年のクラブ野球選手権でベスト4。都市対抗でも96年に山形しあわせ銀行(現・きらやか銀行)、97年にはJR東北を破った力のあるチーム。特に当時主戦を張っていた新田忠正、小野寺淳両左腕投手の存在には手強いものがありした。しかし新田投手からノーヒットで2点を奪い、さらに終盤大船渡工業高校出身の先輩の奮闘でさらに2点を追加。赤崎ク先発の山本君も2点は取られたものの強豪水沢駒形を振り切りました。

 続く遠野クラブ戦では太平洋セメントから移籍してきた志田欣之君が硬さから立ち上がりを突かれたものの、その後リリーフした山本君が試合を作り直し、終盤突き放して準々決勝進出、太平洋セメントとの代表決定戦―言い換えれば大船渡市代表決定戦に臨みました。前年、JAいわてと接戦を演じていることから「今回こそ接戦を越えて東北大会進出を」との意気込みで臨み、三回終了までで1-0。しかし四回に2点を追加されたところで山本君に異変が起きました。明らかにどこかを故障したような状態で降板。急遽リリーフした高橋俊裕さん、大畑君も持ちこたえられず、打線も同時最盛期の平田大輔投手を打てず、散発5安打、0-10の七回コールドで敗戦、東北大会進出を絶たれました。 

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この年からユニフォームを青の縦じまから現在のデザインに変更して臨んでいました。当時の写真はなく、参考として14年都市対抗時の写真を載せます。

2.都市対抗東北予選岩手開催―東北強豪の凄さとヨークベニマル野球部の最期。

 この年は岩手県から4チームが東北大会に出場できるということで、準々決勝に勝った太平洋セメント、宮城建設、JAいわて、一関三星倶が東北大会進出。一関三星がJAいわてを破る番狂わせを演じ、太平洋セメントは宮城建設との激しい乱打戦を制し、決勝戦で平田投手が再び2安打完封の好投。太平洋セメントがついに県予選初優勝。

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私の手書きの部分があったので、そこはそのままにしました。二回戦の右側4試合は雨で試合開始が遅れ、第4試合は風も吹き、5月とは思えない寒さの中夜11時まで試合をしていたのを覚えています。

 岩手で開催された東北予選大会、開幕試合で宮城建設が優勝候補のJT(04年活動停止)を、JAいわてが福島の強豪ヨークベニマルを相手に九回4点差を逆転、6-5でサヨナラ勝ちを収めるなど見せ所を作ったりもしましたが、残念ながら岩手県4チームはJAいわてが第3代表決定トーナメント一回戦に進出したのが最高で代表権にはあと一歩届きませんでした。

 岩手県開催ということで私は三日間休みを取り、多くの東北レベルの強豪チームを見て回りました。その資料は紛失してしまったので思い出すのも一苦労ですが…印象深かったのが先ほど述べたJAいわて−ヨークベニマル。八回まで5-1でベニマルがリードしていたのですが、九回裏ツーアウト満塁から鈴木淳さんが同点に追いつく満塁ホームラン。気落ちしたヨークベニマルからさらに連打を重ね佐藤さんのサヨナラタイムリーで大逆転サヨナラでJAが勝ったという試合でした。

 試合が終わった後ヨークベニマルの応援団長と話をし、「この都市対抗で活動を終えることになります。応援ありがとうございました」と寂しそうに語っていたのが、今でも耳から離れません。前年の秋田の東北予選にも1日見に行きましたが、この年はJT、JR東北、NTT東北(こちらも企業チームとしてはこの年で活動終了)、七十七銀行といった東北レベル、宮城のチームの強さというのも見せつけられました。この9試合の見学を忘れられず、いつか赤崎クもこの舞台にと思いましたが、この時点では「遠い話」としか思っていませんでした。

3.エースの離脱―それでも「いるメンバーが踏ん張る」で毎日旗クラブ準優勝!

 赤崎野球クラブは山本君が故障起こし、残る投手陣で大会に挑みました。クラブ野球選手権では初戦に釜石野球団とあたる組み合わせに。釜石の強力打線に攻勢を食らい、6-13で敗戦。しかし8月後半に行われた毎日旗秋季大会では高橋さんの粘投で久慈クラブに7-5で勝つと、三回戦で住田硬式クに10-0(志田永二さんが完封)、準決勝では大畑君が高田クラブに7-2と同じ気仙勢を破り決勝進出。しかし決勝では釜石野球団に八回の5失点が響き5-10で敗れ残念ながら東北大会進出はなりませんでしたが準優勝に。毎日旗大会は仕事もあり帯同することができず、野球の方に時間を割くことができませんでした。

4.岩手勢全国の道−駒形倶、クラブ選4強。

 クラブ野球選手権の東北予選の形式がこの年から変更になり、これまで岩手、宮城、福島各県は全国大会進出枠1、青森、秋田、山形3県で同枠1でしたが、東北全体で代表3枠、各県予選を勝ち抜いたチームが東北二次予選大会を行って決める形式になりました。新形式の東北予選は山形で行われ、岩手代表の水沢駒形倶、久慈クラブ両チームは決勝戦進出。東北代表3枠のうち2つを岩手県代表で占めました。全国大会は久慈クが東京・WIEN94(現・WIENZ)に2-4で惜敗。水沢駒形倶は埼玉・かみかわ野球クに11-4で勝ちましたが、準決勝ではこの年優勝した全伊勢崎硬建クラブに2-4で敗戦という結果となりました。

 秋に行われた日本選手権では佐藤組北上球友が23-19という打撃戦を制して若きJR盛岡を破ったという試合もありましたが、東北予選には宮城建設、JAいわて、太平洋セメントが出場。太平洋は秋田銀行と競った試合をしましたが、JAはJR東北に、宮城建設は日本製紙石巻に敗れ、戦いを終えました。  

5.今だから語れる「週7日勤務」。それでもやめなかった野球。

  もう20年経ちますのではじめて白状しますが、この年の途中から週に2回ほど、北上時代に在籍していたコンビニに勤務しています。週に5日大船渡で働き、週に2日北上に移動してコンビニで働く―今から考えれば、とんでもない日程で仕事をしていたものです。その中で野球に時間を割くというのも簡単ではなく、その中で信頼関係を構築し続けるのも大変でした。周りのメンバーの皆さんにも支えられてこの時期で折れなくて良かったなというふうに今では思うものです。

1998年社会人野球-赤崎野球クラブに“移籍”。都市対抗クラブ予選、対JAいわてとの激闘、そして岩手県外の視点も見始めた一年でした。

1.赤崎野球クに“見習い”帯同開始。都市対抗クラブ予選の激闘。

 1998年。私は前年まで在籍していた佐藤組北上球友から赤崎野球クラブに移籍。赤崎クは大船渡オールスターという性格を持ち、入部したいと言えば入部できるチームではないので、当面チームに見習いという形で帯同することになります。職場も変わったばかりで、4月に行われた岩手県知事旗大会、大槌ロータリーカップ大会は部分的にしか行くことができませんでした。(結果は県知事大会は初戦でJR盛岡に敗退、大槌大会は3試合勝ち抜き決勝戦に進出。釜石野球団に敗戦)

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この住田球場の写真は2010年改装時。それ以前は緑の金網に現代基準から比べると狭い広さのグラウンドでした。

 5月半ばから気仙地区の野球場を会場にして都市対抗野球の県クラブ予選が開催。赤崎野球クは初日の一回戦、住田町営球場で行われた北上ベースボール倶楽部(94年結成、99年活動停止)と対戦。中盤までは接戦でしたが、五回に集中打で突き放し、佐藤琢哉、鎌田仁両選手のホームランで14-5、七回コールドで破りました。ニ回戦は高田松原第一球場で盛友クラブ戦。この日の先発は大畑悟君で、投手としては右アンダースローからの直球を武器に奮闘していましたが、本人曰く「調子いいとか言っているとボールが高めに入ってしまうことがある」と語っていましたが、二回に攻略を受け、三回から山本淳一君がリリーフし好投。盛友の“盛大附変革期を支えたエース”“変幻自在投手”小田嶋雅浩さんともに終盤まで息をつかせぬ投手戦を繰り広げましたが、九回に佐藤君の一発で突き放し代表決定戦に進出しました。

 代表決定戦は再び住田球場で宮高倶楽部と対戦。宮高倶の吉浜、赤崎クの山本両投手の投げ合いででスコアボードには0が並びます。赤崎は九回、サヨナラのピンチを迎えたものの切り抜け、延長十回、佐藤琢哉君の3試合連続のホームランで2点を先制。その裏の宮高倶の反撃を1点に抑え、2年連続4度目の本予選大会進出を決めました。なお、この予選で大船渡農業の後輩でオール江刺に加わっていた千葉康文投手がデビュー戦初勝利を挙げています。

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2.“雲の上”JAいわてに肉薄!都市対抗県予選。

 約10日後に開幕した県本予選大会。一回戦は同じ沿岸のライバル釜石野球団と対戦。ナイトゲームで行われた試合は赤崎クラブ山本、釜石野球団瀬戸の投手戦となり3−2で接戦を勝ち抜いた赤崎クがベスト8に進出。準々決勝の対戦相手は前年都市対抗野球東北予選であと2勝(第三代表トーナメント二回戦)までと迫ったJAいわて。95年に補強選手として東京ドームに出場している佐竹投手をはじめ経験豊富な選手が揃い、そつのないチーム。赤崎クは2試合連続先発の山本、JAいわては左のエース細越両投手が先発でプレイボール。

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 大方の予想ではJA優勢という見方でしたが、赤崎は初回2点を先制。三回にはチャンスから後4番打者の木下清吾さんが細越さんのカーブをとらえ3点ホームランを放ち、5−1で大量リードを奪いました。

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 予想外の展開にJAはリリーフに佐竹さんを投入。山本君との投手戦となりましたがJAはねちっこい攻めでじわじわと差を詰め、9回にとうとう勝ち越しを許してしまいました。赤崎クラブは中盤から佐竹さんを打ち崩すことはできず5−6で惜敗も、JAが相手だろうが対抗できるということを示した試合となりました。

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 なお県予選はJAいわてがこの後2試合接戦を勝ち抜いて優勝。秩父小野田が佐々木宏也さんのサヨナラホームランで東北予選進出を決め準優勝。第3代表決定戦では2年ぶりの東北進出を狙ったアイワ岩手を宮城建設が破り、東北進出3チームが決定。秋田で行われた東北予選では秩父小野田が他県チームから2勝を挙げましたがドーム進出の争いには加わることができませんでした。

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3.それでもまだ感じさせられた“壁”/女子野球選手の先駆けをこの目で。

 都市対抗ベスト8の接戦を経験にしてこの後の大会上位進出狙った赤崎クでしたが、この後7月に行われたクラブ野球選手権岩手県予選では花巻硬友倶楽部に6-3で勝ったものの、一関三星倶(現・一関BBC)にに1-8で敗れ、一関市長旗大会では茨城県大宮クラブに3-13で敗戦。毎日旗争奪秋季大会では古巣の佐藤組北上球友と対戦。打撃戦となり12-10で勝ちましたが、この大会帯同できたのはこの日だけで、次の日以降に行われた試合は対盛友クラブ17-7、準決勝の久慈クラブに2-5で敗退。まだまだ越えなければならない壁があると思わされました。

 この年はクラブ野球選手権の本大会が岩手県開催。開催県枠で水沢駒形が推薦出場、県予選を勝ち抜いた久慈クラブとともに本大会に挑み、久慈クは全伊勢崎硬建クに1-2で惜敗、水沢駒形は北信越代表のケンタッキーサンダース(現・野田サンダース)に14-4、東京の熊球クラブ(現・エスプライド鉄腕ク)に9-5と勝ち、準決勝では前年まで企業チーム・ヤオハンジャパンとして活動していたアムウェイレッドソックスと対戦して2-10で敗れましたが、ベスト4進出を果たしました。アムウェイレッドソックスは圧倒的な強さを発揮してこの大会優勝。私自身一試合でも見に行ければと思いましたが残念ながら決勝戦の9回を見ただけに終わりました。アムウェイレッドソックスには後に女子野球の一時代を支えた松本彩乃さんが在籍。最後の打者は松本さんが打球を処理した記憶があります。

4.帰郷した大船渡。どれも、これも「ステップアップの段階」。

 この年から故郷大船渡に戻り、赤崎野球クに帯同し活動することに。近い年代の選手たちとは知り合いでしたが、チームとしての信頼を得るにはまだまだ足りないものが多すぎて学ばなければならないことはたくさんありました。当時は企業チームも多く、クラブチームも水沢駒形倶、久慈クラブ、一関三星倶、釜石野球団といったチームが上位を形成。赤崎クはこのチームを追いかけるというポジションにいました。90年代前半に入部した選手が経験を積み、上位チーム激しく猛追し、都市対抗ではベスト8を見せたことが、この後のステップアップにつながったものと思います。

記事製作日誌。今月末にかけて「社会人野球と伊東の歩み」を96〜00年分。来週は「2018高校野球」を掲載できるよう準備しています。

 昨日から朝になったらポツラポツラ新着記事が現れていますが、以前述べていた「私の人生の歩みと重ねた社会人野球史」。今回は96〜00年を出せるようになったので明後日あたりまでポロポロとアップ。また、高校生の卒業シーズンにあわせて昨夏の高校野球記事もただいま鋭意制作中。完成したら社会人野球同様数日かけてアップできるように努めます。

1997社会人野球-大船渡帰郷など、人生の転機の中過ごした佐藤組北上球友最後のシーズン。

 社会人野球3度目のシーズンは、新設された北上市長旗争奪岩手内陸社会人クラブ野球大会から始まりました。2018年時点では10月に行われている大会ですが、第1回からしばらくは4月に行われ、佐藤組北上球友は平泉クラブに8対10で敗れてのスタートとなりました。

 その後5月中旬に行われた都市対抗野球県クラブ予選は、会場が葛巻など県北地区での試合となったため、夜勤の仕事もある私は不参加。北上球友は二回戦で遠野クラブに12−5、代表決定戦では地元の九戸クラブに10−3で勝ち2年ぶりの本予選進出(下記トーナメント表は都市対抗岩手予選パンフより)。5月30日から始まった県本予選大会、夜勤明けすぐに新幹線に飛び乗って盛岡に。県営球場の開幕ゲームとなる佐藤組北上球友-秩父小野田との試合に臨みました。

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 前年の不調を払拭しようと気合いの入る秩父小野田に対し、北上球友も新人あるいは復帰選手が揃ってベストで挑みました。ところが試合が始まってみると秩父小野田の技量が勝り、エース左腕の高橋剛さん、右の速球派の伊藤芳道さん、企業チーム在籍時代には野茂英雄投手と共に代表合宿に参加したこともあるという大柄な左腕投手泉敏さんと継投しましたが、差をつけられる一方。小野田応援団に負けじと私もささやかながら応援を実施し、見知らぬ夫婦の方に判官贔屓から協力していただきましたが、終わってみれば7回コールド0-15で敗戦と相成りました。

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 7月に行われたクラブ野球選手権。私は所用で東京に10日間滞在したあと、帰郷してすぐ会場に向かい、盛友クラブとの対戦に臨みましたが、終盤に逆襲を食らい5対8で初戦敗退。この年は高田松原第一球場など気仙地区が会場に。北上球友は敗れましたが、最終日までいるつもりで予定を取り、大船渡の実家に泊まっている人間としては後は狸寝入りというわけにも行きません。残りの日程をできるだけ見て行くことにしました。その対象は故郷大船渡市・赤崎野球クラブ。

 準々決勝ではオール江刺の本格派左腕・藤村淳生投手との接戦をくぐり抜け8-7で勝利。一回戦は北上ベースボール倶楽部、二回戦は強豪の一角一関三星倶楽部を破っていての3勝を自信に準決勝に進出しましたが、相手はこれまで何度も壁となっていた釜石野球団。

 行われた会場が一般的な球場よりも狭い高田松原第二球場で、試合開始早々釜石野球団の打者5人のうち4人にホームランを浴び、しかも4本目のホームランは最短距離でレフトポールにすこんと当たってしまい、あまりもの状態に普段は穏やかな赤崎の先発投手がブチ切れてしまう一抹もありました。それでも最後まで諦めずに反撃しましたが5-10で敗れ、西武球場進出まであと2勝及びませんでした。

 この後祖母の不調で大船渡に帰郷せざるを得なくなった私。7月、8月と引っ越しなど準備でわたわたとしていたので、この間行われた日本選手権岩手予選や毎日旗岩手予選の試合に関わることができませんでした。(日本選手権・佐藤組北上球友は一関三星倶に10-6、アイワ岩手に3-13)その翌週に行われた毎日旗秋季大会、江釣子球場で行われた試合の時に退部の挨拶をしに行きました。及川洋治監督以下メンバーには労いの言葉をかけられ佐藤組北上球友を後にします。

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北上球友時代練習場所にもなった北上市江釣子球場。

 なお岩手県勢の活躍に触れますと…都市対抗東北予選にはJAいわて、水沢駒形が第三代表争いまで激しく食い込むもあと二歩(JA)三歩(駒形)届かず、日本選手権では宮城建設、JA、秩父小野田ともに初戦で敗退。クラブ野球選手権で全国に初出場した久慈クラブは後に平成の王者とも呼ばれる大和高田クラブと対戦。激しい打撃戦となりましたが、6回に奪われた5点が響いてしまい、9−11で敗れてしまいます。春にはJR盛岡の「復活」という明るい材料も。故郷に戻った私は新しい道で再び社会人野球に挑むこととなります。

1996社会人野球-故郷赤崎クとの対戦、あと一回からの逆襲…転職を経ながら臨んだシーズンとなりました。

 前年シーズン後に病気を発症させてしまい、2年間いたガソリンスタンドを辞めざるを得なくなってしまいました。その関係もあり、佐藤組北上球友も選手登録を外し、未登録のチームスタッフとしてチームを支えていくことにしました。

 この年最初に行われた大会は都市対抗野球。5月15日に江刺運動公園で行われた県クラブ予選二回戦の対戦相手は奇しくも故郷・赤崎野球クラブ。北上球友は秋田経法大で活躍した千葉公一郎さん、専修大北上高軟式チームのエースとなっていた金濱潤君が加入し、初戦突破を目指します。

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会場となった江刺運動公園野球場(撮影は10年9月)

 試合は予想通りの接戦となります。北上球友の先発は速球派の伊藤芳道さん、赤崎クもエースの高橋俊裕さん。北上球友はこの年JAいわてから移籍した及川義彦さん、キャッチャーの小菅義美さんの本塁打で赤崎クの3投手を攻略。伊藤さんも速球がさえ5-0で勝利することができました。試合が終わった後、突き刺さるような視線が束になって私に向けられていたのは言うまでもありません。19年後には逆の立ち位置で視線が束になって向けられることとなります。こんなんばかりで。

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左は本塁打を放った小菅さん…の20年後。右は先発した高橋さんの21年後。今なお健在なのは恐れ入ります。

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宮高倶楽部と試合した江刺市民球場(当時)。以降、JABA大会では12年クラブカップ岩手大会で使用しました。

 5月16日。会場は同じ江刺市でも根岸球場。前日の雨天から一転、晴れた天気ではありましたが、北上球友は長距離打者が多く欠場し、4番には本来投手(当時)の及川球士君を据えての戦いとなりました。相手の宮高倶楽部(いまの宮古倶楽部。ユニフォームは変わっていません)も本予選進出常連チーム。右サイドの石田、左上手の吉浜と左右の強力なエースがいて手強い相手でしたが、北上球友は8回までに6点を挙げ県本予選大会進出まであと1イニングと迫りました。

 しかし野球は終わってみなければわからないもので、9回、エラーからリズムが乱れ5点差があっという間に消え、連投となった伊藤芳道さんの力投むなしく本予選進出を宮高倶楽部に持っていかれてしまいました。

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 約10日後に行われた県本予選大会でも番狂わせは続出し、二回戦では近年3年で2回西武球場に行っている釜石野球団が久慈クラブに、前年復活し快進撃を見せたJAいわてがアイワ岩手に、また上位常連の秩父小野田は宮城建設との試合、最終回あわや逆転というシーンで打球のきわどい判定で試合終了。コールが告げられても秩父小野田の選手の激しい抗議の姿があったのを覚えています。このように序盤戦で予想外、あるいはつぶし合いの展開があり、終わってみれば宮城建設が初優勝、アイワ岩手と水沢駒形が東北予選初進出という結果になりました。

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 7月に行われたクラブ野球選手権。佐藤組北上球友は他の大会の影響で約10人が出場できない状態に。都市対抗で破れた宮高倶楽部にリベンジを誓いましたが、2−6で敗戦。8月に行われた毎日旗秋季大会も盛岡倶楽部に8−10で敗れ(この試合には帯同できず)、この年のシーズンを終えました。

 この年の岩手県勢の活躍を見てみると、都市対抗東北予選では水沢駒形が山形しあわせ銀行(いまのきらやか銀行)に1勝したのみで早期敗退。クラブ選手権では本大会に進出した水沢駒形が、大会直前に食あたりのアクシデントがありながら全太田倶、札幌倶楽部、WIENベースボールを破り決勝進出。鹿島レインボーズには惜しくも及ばなかったものの、新田、小野寺、小岩、菊池各投手の奮闘で全国準優勝を果たしました。日本選手権はJAいわてが都市対抗のリベンジとばかりに優勝。宮城建設、水沢駒形と3チームで東北大会に挑み、JAいわてがJTとの代表決定戦に挑みましたが、序盤の失点を覆せず3年ぶりの本大会進出はなりませんでした。

 その他のトピックスで言いますと…5月に行われた県知事春季大会・久慈クラブ対岩手東芝の試合で37-3という試合を見ました。殊に、7回のイニング28点は仰天。打者4巡の攻撃を受けていた岩手東芝ベンチは誰も一言も発することができない状態に陥っていました。途中までは接戦だったのですが…。

 この年から私はコンビニエンスストアの夜勤で働くことになりました。選手登録を外れたのもそういう事情からです。この時期は社会人野球の他にも母校大船渡農業高校のアドバイザーもしていたので、合間を見計らってはスクーターで大船渡に行って後輩の練習を手伝いました。最も手伝いになったかどうかは不安なところですが…。年始めに2ヶ月療養していたこともあり、野球に関わる密度が一番少なかった一年でした。次号は「激動の97年」を記していきます。

社会人野球2018―18年5月開催JABA東北大会&18年7月開催都市対抗雑感/18年9月開催毎日旗秋季大会補充。

 2018年中に書けなかった社会人野球の記事をお伝えしています。なお毎日旗秋季大会の1日目5試合については該当するブログ記事に補強して記しましたので下記リンクよりご覧ください。記事はJABAホームページ(jaba.or.jp)を基に記します。記事中敬称略。

benitoh96-bb.hatenablog.com

 この項では主にトヨタ自動車東日本のJABA東北大会、都市対抗野球七十七銀行の試合をお伝えします。トヨタに関しては以前雑感として記しまして、時々のツイートを時系列に追う形で改めて掲載をしようとしましたが、アカウントが完全に消えていたのを失念。なので書けるところから書くことにします。

△5月に行われたJABA東北大会。トヨタ東日本はJR東北、JXENEOS、室蘭シャークスと同じ組に入り予選リーグ3試合を戦いました

◆JR東北 8−6 トヨタ自動車東日本 

◆JX ENEOS 8−1 トヨタ自東

室蘭シャークス 4−3 トヨタ自東

 JR東北との試合、序盤順当に点を重ねたのはトヨタ。7回までに関口のホームランなどで6得点をあげますが、終盤8回JR東北に5失点をくらい逆転で星を落としました。第2試合は全国区の強豪ENEOSと対戦。2回に1点を先制しますがENEOSが5回以降佐々木、吉橋、山崎の3人を攻略。8回に大量4点を失い8回コールドで敗戦。室蘭シャークスとの試合では中里、吉橋両投手が奮闘しますが、3、5回に2点ずつを失い、トヨタは6回までに3点を返しますが、鈴木、瀬川という北海道を代表する投手を打ち崩せませんでした。

 こうして予選リーグ3敗で終わったトヨタ自東のJABA東北大会でしたが、その戦いから学んで都市対抗野球本大会出場に結びつけたのは今さら私が言うことではないですね。


 都市対抗本大会、7月17日に七十七銀行トヨタ自動車東日本と東北代表が登場。これまで拙稿で触れてこなかった七十七銀行の試合…初回に長谷川のタイムリーヒットで1点を先制しますが、その裏に先発のマウンドに立った鈴木貴也が調子振るわず初回でノックアウト。以降は日本製紙石巻から補強された塚本→左腕田辺→TDKから補強された150キロ小木田が踏ん張りますが、七十七銀行も守安玲緒→藤井と言った好投手を打ち崩せず、1−6で敗れました。

 七十七銀行に勝った三菱重工神戸・高砂が守安、藤井両投手が鉄壁とも言える投球で相手に失点すら許さず勝ち上がりましたが、その決勝戦では大阪ガスに終盤8回に2点を失い優勝にはあと一歩届かず。大阪ガスは一時期チーム全体に関わる大変な問題があり苦難の時期もありましたが、それを乗り越えて三度目の正直の全国優勝を果たしました。

 拙稿では都市対抗本大会の記述が薄くて、その場で戦われている皆様には申し訳ございませんが、なにぶん高校野球とも重なり二つの物事を同時にしようとするには私の技量が足りません。その部分はどうかどうかご了承お願いします。

 この記事を書いている2月9日にはJABAのホームページで東京スポニチ大会の組み合わせ表が掲載されています。2019年もどういう足跡を残すか期待をしていきましょう。長文お付き合いいただきましてありがとうございました。

社会人野球2018―日本選手権注目3チーム(JR東北、大和高田ク、宮崎梅田学園)結果と雑感。

 既に2019年はじまって一ヶ月経っていますが、引き続き2018年の社会人野球の記事で書ききれなかった部分を記しています。3月までになんとかできればいいですね(冷汗)。岩手県関係の毎日機秋季大会一日目(記事は書いたが詳報がまだ)、JABA東北大会のトヨタ自動車東日本試合分は別に補強して記します。記事はJABAホームページ(jaba.or.jp)を基に記します。

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 社会人野球単独チーム日本一を決める第44回社会人野球日本選手権は32チームが集まり昨年11月に開催されました。この中で東北から出場のJR東北、クラブチームから出場した大和高田ク、宮崎県から全国大会初出場の宮崎梅田学園の3チームをピックアップしてお伝えします。

◆JR東北 7−1 JX−ENEOS

 強敵ENEOSと対戦したJRはエース西村が先発。3回に1点を取られこそしたが好投を見せ試合を作ると、JRは8回に2点、9回に大量5点をあげ逆転。最後は7回から登板した右腕加藤がENEOS打線の追い上げを封じた。ENEOSは3回に先制したものの好投していた大場が8回につかまり、9回はよもやの5失点で初戦敗退とあいなった。

三菱重工名古屋 2−1 JR東北

 一回戦勝利の勢いをつなげたいJR東北は、前試合好リリーフを見せた加藤が先発。しかし三菱名古屋は3回に2点を先制すると、以降勝野、西納がJR東北に隙を与えず逃げ切った。JR東北は途中出場の安田が2安打を放ち、8回に一点を返したがあと一歩届かなかった。

◆大和高田ク 1−0 JR四国

 大和高田は松林、JR四国は岡田の先発で始まった試合。両者の投げ合いはスコアボードに0が並ぶ投手戦となったが、均衡を破ったのは大和高田。7回村上の適時打で1点をあげると、山本→米倉→吉田とつなぎJR四国打線を完封。JR四国の岡田は10奪三振を奪ったが打線が援護できず無念の初戦敗退。

新日鐵住金広畑 4−1 大和高田ク

 都市対抗の近畿予選でも当たるカード、手の内を知ってるだけに先手を取ってペースを掴みたかった大和高田だが、逆に広畑に先制をくらう。6回に山本柊のタイムリーヒットで1点は返すが、8回にダメ押しをくらいベスト8進出はならなかった。新日鉄広畑は投手陣が好投しベスト8進出。

◆JFE西日本 6−0 宮崎梅田学園

 念願の初出場となった宮崎梅田学園だったが、長く全国の舞台で戦い慣れているJFE西日本が洗礼を浴びせる。2回に1点を先制すると3回階には大量5点で梅田学園の古市以下投手陣を攻略。梅田学園は何とか活路を見出そうとしたがJFE投手陣にヒット3本、13奪三振をくらい得点を奪えず、梅田投手陣も4回以降はJFE打線を封じたが勝負を覆すに至らず苦い全国デビューとなった。

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 大会はJR東北に勝った三菱重工名古屋と梅田学園に勝ったJFE西日本が勝ち上がり決勝進出。その決勝では2−1で三菱重工名古屋が勝ち初優勝を決めました。

 近年都市対抗では不遇な成績が続いているJR東北ですが、日本選手権では見せ場を作りました。勢いを来年の都市対抗に繋げたいところです。大和高田は普段から近畿でトップレベルのチームと相対していることもありますが、両試合とも接戦に持っていけるところはさすがです。

 そして宮崎梅田学園。宮崎の社会人野球は長いことチーム自体がない状態が続いていました。1950年代にオール宮崎、宮崎鉄道局などがチームを結成し、一度どちらかが九州代表決定戦にまで進出しましたが本大会出場はならず。1960年代以降は参加チームがなくなり長いこと時間が経ちました。その後2005年に茨城ゴールデンゴールズと親善試合をしたチームが宮崎ゴールデンゴールズとして結成(今年はじめに休部したのが残念ですが…)。その後宮崎梅田学園がつくられ、今では宮崎県で4チーム結成するに至っています。一回歴史を途切れさせるとその再興は難しいもの。それを地道に成し遂げ、また伸ばしていった宮崎県の野球部関係者の皆様の努力が一つの形に結びついたと思います。これからの健闘を願います。

 明日は岩手県関連の記して来れなかった記事をお伝えします。

記事制作日記−気がついたらけっこうな基礎資料をつくってしまってました/18年書き残しは2月までに。

 今日は。金曜、土曜と必要最小限の用事以外は体調調整にあてています。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 12月に野球の資料調べで青森行こうと企図しましたが、実際の行動するにも、また下調べも足りない部分が多く、中止にしました。それから約2ヶ月、近隣の図書館に通いつめて下調べをずっと続け、ようやく当面必要な部分の基礎資料ができあがりました。あとはこれをどう実施していくか。頭悩ますのは印刷方法。原紙でコピー機使用だと一枚10円ですが体力が削られます。一方マイクロフィルムだと手軽でいいですが印刷代は40円/枚。古い新聞はマイクロフィルムしかないことを想定して、大体100枚くらいに収まるようにしようと考えていますが、その「選定」、頭悩ましますね。ま、足りない脳みそで何かいい方法ないか追求していきます。

 この2ヶ月でつくりだめした「基礎資料」は以下の通り。

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 ちなみに、明日明後日は2018年社会人野球の未記載記事を、あと10日以内に「伊東版社会人野球の足跡」の一部−文は完成している96〜01年−をアップできるように努めます。

 おつきあいいただきありがとうございました。

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