都市対抗野球二次予選が各地で始まり、東京・東海・九州を中心に激しい代表権争いが始まっています。九州の方では2代表が決まります。今週末は台風の影響もあるのでお気をつけて臨んでいただければと願います。東北地区は6月6日木曜日から岩手県で開幕するということで、私も近隣の花巻球場にうかがいます。企業7チームとクラブ5チームが出場。クラブチームの戦いを主に見届ける予定です。
私自身は都市対抗野球二次予選は3度経験。その他に2012年にオール江刺、福島・福島硬友ク、須賀川クラブ、2017年には鶴岡野球クラブの友情応援にも伺った時もありました。自チームで出場した3回のうち、2005年はスコアラーとしてベンチ入り。2004年は太平洋セメント関係者による応援活動の補助、2010年は応援活動実行者として活動。
今記事では今に至るまでの応援活動、なぜ続けているのか…少し前に書いたことと併せて時々ポロポロと書いてきましたがこの項ではまとめて記述します。
1.伊東が応援活動を本格的に始めるまで
この章では「都市対抗野球の応援活動、なぜ自分がやろうと思ったか」について触れていきます。
1995年に佐藤組北上球友に入部し、初めて臨んだ都市対抗野球岩手県本予選で宮城建設野球部、水沢駒形倶の応援に触れ「これが社会人野球の応援なのか」と度肝を抜かされました。当時は岩手県大会レベルでは太平洋セメントも応援活動を活動を実施。岩手銀行、JAいわても東北大会に進出すると応援団を形成しチームを励ましていた様子を目の当たりにしました。
しかし、2000年あたりから岩手にあった企業チームの活動休止が相次ぎます。1995年冬に岩手銀行、2000年に東北住電装と岩手東芝、アイワ岩手、2003年に太平洋セメントと宮城建設、2004年にJAいわて…という経過を経て、岩手県予選で応援活動するチームが97年に“復活”したJR盛岡と水沢駒形のみ。赤崎クラブが都市対抗東北予選に進出した2004、2005年には太平洋セメントの有志に応援活動を実施していただきました。
2006年に活動を開始したフェズント岩手、岩手21赤べこ野球軍団はそれぞれのツテを頼り応援団を結成。特に赤べこ軍団は華やかなチアリーディングチームも持ちましたが、2007年にスポンサーの撤退からチーム解散を余儀なくされるという事態が起きました。
この時点で私は日本野球連盟の登録外でチーム雑用係という立場でしたが、岩手の社会人野球が年々寂しくなっていく様子にある種の危機感を覚え、同時に赤崎野球クラブを盛り立てる活動ができれば、という思いで本格的な応援活動を開始することとなります。
1のおまけ.実は行っていた応援活動。
-というふうに前段を記してきましたが、じつは“突発的”に2度ほど応援活動を実施したことはあります。
1回目は1997年都市対抗野球。当時は佐藤組北上球友に在籍していた私ですが、都市対抗県本予選で簡単な選手コールを行いました。家庭の事情もあり3ヶ月後には故郷大船渡に帰らざるを得なくなった私。企業チームの太平洋セメント相手に何もしないわけにはいかないと手拍子と大きい声を活かしてのコールをしましたが残念ながら0-15の大敗。その姿に同情してくれた観客が私の応援の手伝いをしてくれたという記憶があります。
もうひとつ。
2003年、2004年と赤崎クはクラブ野球選手権全国大会進出をしています。2003年は地元後援会の方が中心となっての応援活動していたのでその補助を、2004年は会場が静岡と遠く前年並みの応援団が行くことはできず、随行者として帯同していた私が太鼓と大きい地声を使って応援活動した時もありました。
この時は多少の羞恥心もあったようで、初回の時に照れくさくて戸惑っていたところ、グラウンドからエースの檄が飛んできました。「恥ずかしがってんじゃねえぞ何のために応援準備してきたの!」と。今となっては恥ずかしい苦い思い出です。グラウンドからカツを入れられる応援団なんてそうはいないでしょうから(クラブ選手権本大会では間違いなく唯一)。
2.2008年。本格的に応援活動開始。
2008年の都市対抗野球岩手県予選準々決勝から私の応援活動が始まりました。
実は前年2007年のクラブ野球選手権本大会に応援活動を実施する予定でしたが、所沢に出発する日の朝に負傷しチーム帯同を断念。当時会場に来た方のブログには「各チームの応援団の様子(中略)赤崎野球クは太鼓が用意されていたが応援活動はされていなかった」と記述されていました。その悔しさも「応援活動開始」につながっています。
とはいえこの時は音響設備も何もありません。徒手空拳で手拍子&大きい声でのコールのみ。試合そのものも黒陵クラブに敗退という結果に終わりました。
その年行われたクラブ野球選手権東北予選では夜勤明けだった大会初日、一回戦は全弘前、二回戦は東北マークスとの対戦となりましたが、全弘前戦は会場到着が試合開始に間に合わず、応援活動は東北マークス戦から始めましたがマークスの厚い攻勢の前に敗退。2日後の東日本クラブカップ代表決定戦では須賀川クラブと対戦し赤崎クラブはレギュラーの半分が別大会に取られる状況下でしたがエースが踏ん張って4-0で勝ち、東日本クラブカップ進出を決めました。
8月に足利で行われた東日本クラブカップ本大会にはハンドマイクメガホンを借りてきて大会に臨みます。電話の着メロをバックミュージックにし、ハンドマイクで音を大きく、声は地声でコールを送るという形で行いました。この日は35℃以上の猛暑の中、全国大会優勝経験もある伊勢崎硬建に1-0で勝つと、翌日の準決勝では地元全宇都宮クラブに逆転勝ち。決勝では当時上り調子だったオール高崎クラブに一度は大差をつけられるもその後倍返しのサヨナラコールドで優勝を決めました。この後大船渡で行われた祝勝会でチーム後援会から表彰されたことを思い出します。
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前編では「起意した理由」~「形になるまで」の様子を記してきました。後編では「本格稼働後の活動の様子」「どのような機材・技術を使って活動してきたか」を記していきます。