選抜高校野球。今日で準々決勝も終わり、31日が決勝戦になります(31日追記―4月1日に延期)。
岩手から出場した2校の内、不来方(こずかた)は緒戦で静岡に敗れ、盛岡大附は前年大会優勝の智弁学園を破り2勝しましたが、履正社には破れベスト8の結果となりました。まずはお疲れ様でした、と申し上げます。
先ずは21世紀枠で出場の不来方。全国大会に出場するハードルが上がり、そのための体制をとり難い公立高校の出場機会が狭められるなか「全国の経験」ができる枠は貴重なものがあります。今回出場の3校は総じて苦戦させられましたが「広い循環」を考えれば21世紀枠は維持が望ましいです。
そんな中で不来方はエースの小比類巻君が故障?か何か分かりませんが調子上がらず。去年の釜石もエースの岩間君がケガをし、進路の都合もありましたが高卒以降の野球をしない方向だという話が伝わりますが…何ともまず、と。練習試合では相手から借りたりOBが投げたり10番斎藤君が投げたり。小比類巻君に関しては「大事になんねばいいがな」と願うものです。
あとは夏までの持って行きかた。通りいっぺんのこと言うのも簡単ですが、実際どう向き合うか、それをチームでまとめて…いうのは難しいと思います。
私からはただひとつ「時間は二度廻らない」。
どの年代にしてもそうですが、目の前にある光景が自身にとって大きな認識―分かりやすく言えば「今の時間がずっと続く」―と思うのですよ。しかし、時間は流れ行く。いまの時間を必死に歩かない者は、こん先も必死に歩かれない。後になって無為を後悔しても遅いものです。そればり心がけての今後の奮闘を。
おっと、このまま間違って文閉じそうなので…盛岡大附。
27年前の岩手高校野球界で「盛岡大附が全国ベスト8」と言っても一蹴されたでしょう。当時の盛岡大附は「普通の高校生」のチーム。部員はベンチ入り定数埋まらず。大体初戦負けが多く、83年には大船渡農に3-6。83年の大農は投手陣に自信があり、このあとの水沢戦も延長に持っていく好試合を見せましたが、それにしても
いまの↓(当時は「生活学園」)
盛岡大附 3-6 大船渡農
というのは…字面だけ見ると驚きですね。
そんな中迎えた1991年選手権(伊東高校1年)。メンバー表見て驚きましたよ。メンバー表の予想打順
3番セカンド 秋田出身1年生
4番サード 東京出身1年生
5番ショート 青森出身1年生
(河合楽器→サンワード貿易の野口健司内野手)
なんだこれは、と思いましたね。これが狼煙に見えました。以降、強化を続け93年はレギュラー全員が県外出身(背番号9は県内出身ですが実質のライトレギュラーは背番号10)。のち社会人日本代表にも選出される田中謙次投手擁した94年こそ専修大北上との乱打戦で敗れるも(県5本の指に入る投手同士の投げ合いで8-11)、関口監督が5番捕手の95年に、のちNPBライオンズ等→社会人NTTマークスの小石澤投手擁して初優勝。
そのあとの活躍は皆様ご承知の通り…ですが、忘れてならないと思うのが90年(あたり)に澤田監督が就任した時期に在籍していた選手の頑張りですよ。それまでの「普通の高校生」の野球部から強化を目指す野球部に変貌する中でどう多感な時期を過ごしたか。いまとなっては明確に「甲子園を目指すのが目標のチーム」となっていますが「他部からの助っ人が活躍した」チームからの切り替えは、当事者の誰にとっても大変だったと思います。その積み上げの上に立った「野球文化」であることは忘れずに、青春謳歌していただければと思います。
選抜大会がじき終わり、目線は夏の選手権大会に切り替わります。どういうスタンスでこのあとを歩んでいくかが問われる3ヶ月。夏はあっという間ですよ。多感な時期の野球になりますが、やり残しのない軌跡を歩まれることを願い、野球の項は終わります。
岩手から出場した2校の内、不来方(こずかた)は緒戦で静岡に敗れ、盛岡大附は前年大会優勝の智弁学園を破り2勝しましたが、履正社には破れベスト8の結果となりました。まずはお疲れ様でした、と申し上げます。
先ずは21世紀枠で出場の不来方。全国大会に出場するハードルが上がり、そのための体制をとり難い公立高校の出場機会が狭められるなか「全国の経験」ができる枠は貴重なものがあります。今回出場の3校は総じて苦戦させられましたが「広い循環」を考えれば21世紀枠は維持が望ましいです。
そんな中で不来方はエースの小比類巻君が故障?か何か分かりませんが調子上がらず。去年の釜石もエースの岩間君がケガをし、進路の都合もありましたが高卒以降の野球をしない方向だという話が伝わりますが…何ともまず、と。練習試合では相手から借りたりOBが投げたり10番斎藤君が投げたり。小比類巻君に関しては「大事になんねばいいがな」と願うものです。
あとは夏までの持って行きかた。通りいっぺんのこと言うのも簡単ですが、実際どう向き合うか、それをチームでまとめて…いうのは難しいと思います。
私からはただひとつ「時間は二度廻らない」。
どの年代にしてもそうですが、目の前にある光景が自身にとって大きな認識―分かりやすく言えば「今の時間がずっと続く」―と思うのですよ。しかし、時間は流れ行く。いまの時間を必死に歩かない者は、こん先も必死に歩かれない。後になって無為を後悔しても遅いものです。そればり心がけての今後の奮闘を。
おっと、このまま間違って文閉じそうなので…盛岡大附。
27年前の岩手高校野球界で「盛岡大附が全国ベスト8」と言っても一蹴されたでしょう。当時の盛岡大附は「普通の高校生」のチーム。部員はベンチ入り定数埋まらず。大体初戦負けが多く、83年には大船渡農に3-6。83年の大農は投手陣に自信があり、このあとの水沢戦も延長に持っていく好試合を見せましたが、それにしても
いまの↓(当時は「生活学園」)
盛岡大附 3-6 大船渡農
というのは…字面だけ見ると驚きですね。
そんな中迎えた1991年選手権(伊東高校1年)。メンバー表見て驚きましたよ。メンバー表の予想打順
3番セカンド 秋田出身1年生
4番サード 東京出身1年生
5番ショート 青森出身1年生
(河合楽器→サンワード貿易の野口健司内野手)
なんだこれは、と思いましたね。これが狼煙に見えました。以降、強化を続け93年はレギュラー全員が県外出身(背番号9は県内出身ですが実質のライトレギュラーは背番号10)。のち社会人日本代表にも選出される田中謙次投手擁した94年こそ専修大北上との乱打戦で敗れるも(県5本の指に入る投手同士の投げ合いで8-11)、関口監督が5番捕手の95年に、のちNPBライオンズ等→社会人NTTマークスの小石澤投手擁して初優勝。
そのあとの活躍は皆様ご承知の通り…ですが、忘れてならないと思うのが90年(あたり)に澤田監督が就任した時期に在籍していた選手の頑張りですよ。それまでの「普通の高校生」の野球部から強化を目指す野球部に変貌する中でどう多感な時期を過ごしたか。いまとなっては明確に「甲子園を目指すのが目標のチーム」となっていますが「他部からの助っ人が活躍した」チームからの切り替えは、当事者の誰にとっても大変だったと思います。その積み上げの上に立った「野球文化」であることは忘れずに、青春謳歌していただければと思います。
選抜大会がじき終わり、目線は夏の選手権大会に切り替わります。どういうスタンスでこのあとを歩んでいくかが問われる3ヶ月。夏はあっという間ですよ。多感な時期の野球になりますが、やり残しのない軌跡を歩まれることを願い、野球の項は終わります。