新年の本格記述第一段として、11月第一週に参加した「岩手県営球場フェスティバル」報告後編、全体の模様を記しします。
1)当初は、5月の都市対抗野球観戦の時点で“お別れ”にするつもりでした。7月の高校野球も県営は見に行けず、このまま次見に行くのは新球場かな、と思っていたところに、「県営球場フェスティバル」の一報が。特に目を引いたのは「グラウンドに立てる」の文字。
これは…行かないと!
土曜日の別件を欠席し、県営球場に向かうことにした―。
2)11月6日。
快晴とはいかなかったが、雨天ではなかったからグラウンドには立てる―年齢不相応にドキドキしながら球場へ。ただ、そのルートは「一昔前」のものを。国道4号バイパス北山交差点を下り、旧国道に。
3)旧国道はやがて急坂に。右側にある建物はかつて近隣の高校が泊まっていた箇所、と聞きますが、いまや3000万円で売りに出されている時代です。
4)道を辿り、頂点に達すると、いよいよに岩手県営球場が見えてきます。この光景を見るたびに「よっしゃ、やったろか!」と血が沸き立つ思いをしたものでした。
5)いまは国道455号線の改良が進み、国道4号北山トンネル交差点からトンネル越えて幅広の道で行けるようになりました。そして、県営球場到着、中に入ります。
6)県営球場各所で多様な催しが行われていました。イベントのひとつ「オリジナル日報号外」の手続きをして、一塁側の通路をかつかつと。ベンチ裏にあったソファは、多くの選手の汗と土を吸いきったがごとく、所々土ぼこりが完全にしみついていました。
7)一塁側ベンチに。スコアラーには必須の机があります。学校によくある机ですが、これがどの年代の野球でも使われていたかと思うと…ほのぼのするものがあります。
8)そして、グラウンドに降り立ちました。
今だから話せますが、2001年あたりまでは都市対抗県予選の第一試合観客入場前までは私もグラウンド内で上下白のユニフォームで練習を手伝っていました。05年の病気発症前までは打撃捕手をするなどグラウンドでの手伝いもできていたのですよ。だけどというか、当然というか、02年からは厳格化しまして、合法的にも間隙的にも立つことができなくなりました。
以来、県営球場のグラウンドには立たなくなり…両手の指を折るくらいの年月が経ってのグラウンド帰還、となります。
9)バックネット裏の役員・大会本部席。もう使われることがなく、がらんどうになっていました。
10)スコアボード。92年までのスコアボードは多くの人手で動かしていたものが、93年からはこの席で。いまは基礎自治体レベルの球場でもビジョン付きのスコアボードになりましたが、岩手での完全電動スコアボードの先駆けはこの球場でした。※電光得点版は89年改装の花巻市営球場が最初
11)ちなみに、岩手県営球場のスコアボードは「磁器反転式」と呼ばれるもので、分かりやすく言えば電気の光でなく、細かいパネルをコロコロ転がして文字を表示します。自力で光らないので夜間は照明が必須。夜11時のスコアボードは寒かったなー(00年都市対抗県予選 最後までいた直接関係者以外は私のみ)
12)外野のライト側は、キャッチボールスペースとなっていました。いまは「ソフトな硬式ボール」なんてのもあるのですね。ライトフェンスに向かって肩慣らしを始めました。写真は5月の都市対抗野球県予選。
外野席は芝生席。斜面を使って転がりっこをしている童ぁど(わらしぁど)の様子が微笑ましかったです。石ころもないのでキャーキャーいいながらゴーロゴロ。
13)マウンドからボールを投げて速度も測定できる―この日一番の企画だけあって、多くの人が並んでいました。何たってメジャーリーガー2人、NPB完全試合達成者1人を排出したマウンドですからね。一度は同じ地を踏みたいと思うのも当然です。
野球していたよ〜って方から、「私はじめてボール投げますよ」という方もいまして。一番沸いたのは、3つくらい?の子が「“スカイラブ投法(両手をあげてボールをグラブに入れただけ)”→グラブでポイヽ(^ ^)ノ⌒○」。
14)こんな感じで多くの方の投球を見届け、私の番まで回ってきました。
この部分に関しては当記事の「前半」部分で触れましたのでまだ未見の方はお寄りください。⇒
15)念願のマウンドからの投球を果たした後、左翼側の外野を歩いていました。外野の定位置は芝生が禿げている、が地方球場の定番と言えましたが、いまは技術の発展で芝生がヘタれなくなりました。
16)外野最深部のフェンスからホームを眺める、の図。同学年の選手が3年夏の時にセンターフェンス直撃の一打を放ちましたが、その着地点からの視点でもあります。
近くで2家族が談笑していて、その子どもさんが無邪気にバットとボールで遊んでいた。それが微笑ましかったですね。
17)三塁側の室内練習場ではバッティング体験会が行われていて、折角だから、と十何球か打ってきました。体をつくってこなかったので、さっぱとバットにボールが当たらない。ようやく何球か当たるようになりましたが、制限時間一杯、となりました。
18)知人がいたので少々歓談。もう少したてばナイターがつく、とのことでしたが、翌日早くからの仕事を控えていたのでここで帰ることとなりました。これで本当に岩手県営球場とお別れです。
19)帰りに予約していた「オリジナル岩手日報号外」を受けとり、球場を後にします。
『♪通いなれた通学路
いつも行ってた喫茶店 窮屈な制服も
着るのも今日まで―』
から始まる嘉門タツオ氏(いつの間にか片仮名表記)作品「卒業」。岩手県営球場は西側、南側に入場口がありますが、基本的に南側入り口のみ利用が多かったですね。国道4号線から長峰の峠を通り、この道を上って県営球場に入っていく。岩手の野球人として当たり前の光景でしたが、それも今年で見納めになります。
20)岩手県営球場は、岩手の地に生きる野球人の、プレーヤー、応援・後援者、関係スタッフの“想い”を受け止めた貴重な場でした。紡がれてきた野球に対する情熱が今後、どこまでも発揮することができることを願い、項を終わります。
52年 ありがとう。
(写真は2010年6月7日、都市対抗野球県大会で岩手第2代表を獲得した直後)