えー、何て言っていいやら。帰ってきました。去年あれほど野球場に日参していても、やはり所属チームで来るのとではわけか違います。
目の前をただ一生懸命生きるしか能がなかった私にとって、高校以降の人生設計などあってないようなものでした。一応身分不相応の実習助手を目指しましたが、仕事しながら勉強するなどという器用な事はできず2回落ち、生きる目的を見失ったことがありました。
その時に、生きていく支柱の一つとなった社会人野球の存在に直接気づいたのは、中学からの同級生が赤崎に在籍していた事がキッカケ。仕事休みのある日、盛岡市営野球場で行われた都市対抗クラブ予選の赤崎野球クラブ-平泉クラブ(今は廃部)でした。
メンバー見てみれば私が高校時代に一目置いていた選手がぞろりと。言ってしまえば「地元のオールスター」。びびっときましたよ。わけもなく。
試合も一進一退を繰り返しながら最後は同級生の選手の活躍でサヨナラ勝ち。「俺はこの舞台で“地元のオールスター”といっしょにたたかいたい」と思うようになりました。
とはいえ当時は北上在住ということもあり「この舞台に上がれるなら」と佐藤組北上球友(今の北上レッズ)に入部。96年には赤崎との直接対戦も果たし(北上5-0赤崎)大船渡に帰郷したときに赤崎への“移籍”を申し出ました。
しかし赤崎は入部の敷居が高いチームで、どういう立場であれはいそうですかと入部できるわけではありません。しかも一時期は北上と大船渡でダブルワークを経験するなど仕事するだけで精一杯という中、事実上は“見習い”という感じでチームにくっついて回っていました。 その中で自分の役割は何かを模索しました。
特に前述した同級生にはひとかたならぬ世話になり、自分が赤崎に入っても恥かかないように“しつけ”てくれました。その時々には「なんだよ」と思うこともありましたが、今となってはその一言一言が支えとなっています。
当時は岩手銀行、宮城建設、小野田セメント、JAいわて、アイワ岩手と有力企業チームが並び、クラブ球界でも一関三星(現一関BBC)、駒形、久慈、釜石で4強と言われていた頃多くの有望選手を加え必死に追いかけて、98年にはJAをあと一歩まで追い詰め、99年には駒形に3安打6得点で勝ち、2度の東北連盟大会出場、都市対抗県予選次点、「10日11試合」の激戦を経て全国(クラブ選手権)の舞台に。
その後は「3度の全国大会出場」「TDK、七十七銀行との激戦」「クラブカップ優勝」と継続的な取り組みで、一つ一つのハードルを越え、2000年代を代表するチームとして一目置いていただいた赤崎野球クラブというチーム。
あの日にその「継続的な取り組み」は途切れてしまいました。
一年間。生きることに必死で、いきることをとりもどす事に必死で、野球「なんざ」考えられなくて。他のチームが活動して成長を続けていた中で、野球を忘れた時間。春になり、ようやくグラウンドに立とうと練習をはじめましたが、クラブ選手権全国一勝、都市対抗県3位と密度濃い一年を過ごしたオール江刺の前に、見事なまでに砕け散りました。
野球そのものは厳しいです。何のかの理由あっても、グラウンドではその時々の技量が出てしまう。そんでも、あの惨状を、そして今でも続く「復活途上」の状態考えれば、一年でグラウンドに帰ってきた事自体が奇跡的かと。そして、この道を恥じる必要はないと思います。
キャプテンの新沼圭史郎君が語っていた「普通の生活を取り戻すためにも『野球をやっているんだ』と胸を張れるよう練習していかなければ」(毎日新聞岩手版12日)。それは、野球そのものでも普通に「対戦相手」として相対するために、生きていくことそのものを大事に歩んでいこう。その一つの節目が昨日の試合だった、と後で思い返せるように。
何にしても再起の一歩は踏み出しました。大変なのは承知だけど、長年かけて存在感あるチームを一度作ってきましたから。またやりなおせばいい。次は6月後半のクラブ選手権予選。一生懸命頑張らせていただきます。
歩き続けなきゃ進歩もないから。
生意気語らせていただきこの一文を閉じさせていただきます。
目の前をただ一生懸命生きるしか能がなかった私にとって、高校以降の人生設計などあってないようなものでした。一応身分不相応の実習助手を目指しましたが、仕事しながら勉強するなどという器用な事はできず2回落ち、生きる目的を見失ったことがありました。
その時に、生きていく支柱の一つとなった社会人野球の存在に直接気づいたのは、中学からの同級生が赤崎に在籍していた事がキッカケ。仕事休みのある日、盛岡市営野球場で行われた都市対抗クラブ予選の赤崎野球クラブ-平泉クラブ(今は廃部)でした。
メンバー見てみれば私が高校時代に一目置いていた選手がぞろりと。言ってしまえば「地元のオールスター」。びびっときましたよ。わけもなく。
試合も一進一退を繰り返しながら最後は同級生の選手の活躍でサヨナラ勝ち。「俺はこの舞台で“地元のオールスター”といっしょにたたかいたい」と思うようになりました。
とはいえ当時は北上在住ということもあり「この舞台に上がれるなら」と佐藤組北上球友(今の北上レッズ)に入部。96年には赤崎との直接対戦も果たし(北上5-0赤崎)大船渡に帰郷したときに赤崎への“移籍”を申し出ました。
しかし赤崎は入部の敷居が高いチームで、どういう立場であれはいそうですかと入部できるわけではありません。しかも一時期は北上と大船渡でダブルワークを経験するなど仕事するだけで精一杯という中、事実上は“見習い”という感じでチームにくっついて回っていました。 その中で自分の役割は何かを模索しました。
特に前述した同級生にはひとかたならぬ世話になり、自分が赤崎に入っても恥かかないように“しつけ”てくれました。その時々には「なんだよ」と思うこともありましたが、今となってはその一言一言が支えとなっています。
当時は岩手銀行、宮城建設、小野田セメント、JAいわて、アイワ岩手と有力企業チームが並び、クラブ球界でも一関三星(現一関BBC)、駒形、久慈、釜石で4強と言われていた頃多くの有望選手を加え必死に追いかけて、98年にはJAをあと一歩まで追い詰め、99年には駒形に3安打6得点で勝ち、2度の東北連盟大会出場、都市対抗県予選次点、「10日11試合」の激戦を経て全国(クラブ選手権)の舞台に。
その後は「3度の全国大会出場」「TDK、七十七銀行との激戦」「クラブカップ優勝」と継続的な取り組みで、一つ一つのハードルを越え、2000年代を代表するチームとして一目置いていただいた赤崎野球クラブというチーム。
あの日にその「継続的な取り組み」は途切れてしまいました。
一年間。生きることに必死で、いきることをとりもどす事に必死で、野球「なんざ」考えられなくて。他のチームが活動して成長を続けていた中で、野球を忘れた時間。春になり、ようやくグラウンドに立とうと練習をはじめましたが、クラブ選手権全国一勝、都市対抗県3位と密度濃い一年を過ごしたオール江刺の前に、見事なまでに砕け散りました。
野球そのものは厳しいです。何のかの理由あっても、グラウンドではその時々の技量が出てしまう。そんでも、あの惨状を、そして今でも続く「復活途上」の状態考えれば、一年でグラウンドに帰ってきた事自体が奇跡的かと。そして、この道を恥じる必要はないと思います。
キャプテンの新沼圭史郎君が語っていた「普通の生活を取り戻すためにも『野球をやっているんだ』と胸を張れるよう練習していかなければ」(毎日新聞岩手版12日)。それは、野球そのものでも普通に「対戦相手」として相対するために、生きていくことそのものを大事に歩んでいこう。その一つの節目が昨日の試合だった、と後で思い返せるように。
何にしても再起の一歩は踏み出しました。大変なのは承知だけど、長年かけて存在感あるチームを一度作ってきましたから。またやりなおせばいい。次は6月後半のクラブ選手権予選。一生懸命頑張らせていただきます。
歩き続けなきゃ進歩もないから。
生意気語らせていただきこの一文を閉じさせていただきます。