おはようございます。伊東です。予告編で書いたとおり、私の高校2年のときの夏の大会で起こしてしまった事を紹介します。
高校野球は、高校生スポーツの世界を超えて注目度の高い大会。他のスポーツをしている人に申し訳ない、と思うくらいのマスコミの取り扱い。地方版の半分を占める扱い。そして、テレビ中継。今となっては、果たしてそれがいいものか、という疑問がわいているにせよ、当事者にとっては自分のやっている事がマスコミに載る、という形で紹介されている事が、1つの張りになっているのではないでしょうか。
どうしても、そういうマスコミに相対するのには緊張というのがつきまとうもの。今は、度胸がよくて物怖じしない高校生もいますが、みんながみんなそうとも言い切れないんですね。実は、私もテレビ取材を受けた事があるのですが、今言った二つの悪い要素を出してしまったんですね。何が起きたのか。
1992年7月。第74回高校野球選手権岩手大会。その一回戦で大船渡農業は序盤に先制されたものの、中盤に連打で逆転。エースの大会第一号本塁打も飛び出し、8回コールド10-3で千厩東高校(現・千厩に統合)に勝利しました。その試合終了後、テレビ岩手から「ムードメーカーのコーチャー」という事で、私にインタビューしに来たんですね。すっかりあがってしまった私は、自分が自分でないような感じで取材の受け答えをしていたわけなんです。
で、宿舎に帰ってきた後。夕方からのテレビで、そのインタビューが放映されることになりました。監督は「勉のインタビュー見てから夕食な」と指示。6時半からのニュースを全員が個々室の部屋で見ていました。
…10分後。全員が呆れ顔で食堂に集まってきました。全員の総意は
「お前、あれはないだろう!」
でした。私も「何であんなこと語ってしまったんだ」と頭をかくばかり。では私はなんて言ってしまったんでしょうか。どうやら、次の試合の抱負を聞かれて
「一関一高の皆さん、全力でかかって来てください」
と語ってしまいました。そう、この年第二シードの一関一高にケンカを売ったのです。自分としては、皆さんの後に「私たち大船渡農も全力で挑ませていただきます」というのをつけるのを忘れていたのです。(つけても同じか)これを一関一高の野球部の方が見ていたかどうか分かりませんが、とにかくえらいことを言ってしまったものでした。
2日後。岩手県営野球場で第二シード・一関一高との決戦がはじまりました。相手はライトを除いてはベストメンバー。そのライトはその年の秋から4番に座った有望一年。初回から4、2、1、3失点。4回裏にエースがノックアウトされた時には、悪夢の5回コールドも覚悟しました。
しかし、この年の野球部は勝負強さに関しては過去17年で最強でした。4回途中からリリーフした3年生投手が奮闘。5回表にキャプテンの犠牲フライで1点返し、5回コールドは阻止。6回にも二塁打→進塁打→内野ゴロの間にさらに一点。4回までは反撃の芽すら作ることが出来なかったので、存在価値を見せつけた、といえばその通りですが…。
7回。ついに力尽き、2-10のコールド負け。大船渡農業の「最大の挑戦」は、第二シードの底力と、それに完全に屈しはしなかった私たちの底力。二つの底力を見せ付けて、終わりました。
全力を尽くしてたたかえば、どんな結果であれ残るものはある。そういうことを感じさせるたたかいは、生涯に何度かありましたが、この試合も、重要なその一つでした。この年は、三年の部員の一人が、試合前日に盲腸で入院してしまうなど、辛い思い出もありました。
今年も沢山の高校生選手が、それぞれに背負うものを持って「2006のたたかい」に臨もうとしています。私の母校は15日・一関球場で一関学院と対戦します。大会に臨む11人の選手と大農野球部関係者の皆さんの、健闘を祈り、悔いを残さないたたかいをしてもらいたいものです。
(編集後記)このテレビ取材には、もう一つ悔いが残っていまして…相手チームのデータをよく調べているというのも加味されての取材だったようですが、その期待に答えられなかったのが今でも悔いに残っています。
一関一高とのたたかいは、点差こそ開いてしまったものの、まるっきりやられっ放しではなかった事が、その後の自信にも結びつきました。その中で悔しかったのは、三年生部員の病気入院。三年になってから、二年の猛追でレギュラーを追われたけども、野球部をやめはせず、最後の夏にかけていただけに、せめて後一日二日後だったら、という思いが今でも消えません。
一日でも体調は変わります。ワールドカップサッカーの中村俊輔選手や、先の都市対抗野球の赤べこ・関連太郎投手のように、体調を崩し、目標達成出来なかった例もあります。3年生にとっては最後の高校野球の試合。ベストで臨んでいただきたいものです。
今日も拙文を読んでいただいてありがとうございました。またお目にかかります。
高校野球は、高校生スポーツの世界を超えて注目度の高い大会。他のスポーツをしている人に申し訳ない、と思うくらいのマスコミの取り扱い。地方版の半分を占める扱い。そして、テレビ中継。今となっては、果たしてそれがいいものか、という疑問がわいているにせよ、当事者にとっては自分のやっている事がマスコミに載る、という形で紹介されている事が、1つの張りになっているのではないでしょうか。
どうしても、そういうマスコミに相対するのには緊張というのがつきまとうもの。今は、度胸がよくて物怖じしない高校生もいますが、みんながみんなそうとも言い切れないんですね。実は、私もテレビ取材を受けた事があるのですが、今言った二つの悪い要素を出してしまったんですね。何が起きたのか。
1992年7月。第74回高校野球選手権岩手大会。その一回戦で大船渡農業は序盤に先制されたものの、中盤に連打で逆転。エースの大会第一号本塁打も飛び出し、8回コールド10-3で千厩東高校(現・千厩に統合)に勝利しました。その試合終了後、テレビ岩手から「ムードメーカーのコーチャー」という事で、私にインタビューしに来たんですね。すっかりあがってしまった私は、自分が自分でないような感じで取材の受け答えをしていたわけなんです。
で、宿舎に帰ってきた後。夕方からのテレビで、そのインタビューが放映されることになりました。監督は「勉のインタビュー見てから夕食な」と指示。6時半からのニュースを全員が個々室の部屋で見ていました。
…10分後。全員が呆れ顔で食堂に集まってきました。全員の総意は
「お前、あれはないだろう!」
でした。私も「何であんなこと語ってしまったんだ」と頭をかくばかり。では私はなんて言ってしまったんでしょうか。どうやら、次の試合の抱負を聞かれて
「一関一高の皆さん、全力でかかって来てください」
と語ってしまいました。そう、この年第二シードの一関一高にケンカを売ったのです。自分としては、皆さんの後に「私たち大船渡農も全力で挑ませていただきます」というのをつけるのを忘れていたのです。(つけても同じか)これを一関一高の野球部の方が見ていたかどうか分かりませんが、とにかくえらいことを言ってしまったものでした。
2日後。岩手県営野球場で第二シード・一関一高との決戦がはじまりました。相手はライトを除いてはベストメンバー。そのライトはその年の秋から4番に座った有望一年。初回から4、2、1、3失点。4回裏にエースがノックアウトされた時には、悪夢の5回コールドも覚悟しました。
しかし、この年の野球部は勝負強さに関しては過去17年で最強でした。4回途中からリリーフした3年生投手が奮闘。5回表にキャプテンの犠牲フライで1点返し、5回コールドは阻止。6回にも二塁打→進塁打→内野ゴロの間にさらに一点。4回までは反撃の芽すら作ることが出来なかったので、存在価値を見せつけた、といえばその通りですが…。
7回。ついに力尽き、2-10のコールド負け。大船渡農業の「最大の挑戦」は、第二シードの底力と、それに完全に屈しはしなかった私たちの底力。二つの底力を見せ付けて、終わりました。
全力を尽くしてたたかえば、どんな結果であれ残るものはある。そういうことを感じさせるたたかいは、生涯に何度かありましたが、この試合も、重要なその一つでした。この年は、三年の部員の一人が、試合前日に盲腸で入院してしまうなど、辛い思い出もありました。
今年も沢山の高校生選手が、それぞれに背負うものを持って「2006のたたかい」に臨もうとしています。私の母校は15日・一関球場で一関学院と対戦します。大会に臨む11人の選手と大農野球部関係者の皆さんの、健闘を祈り、悔いを残さないたたかいをしてもらいたいものです。
(編集後記)このテレビ取材には、もう一つ悔いが残っていまして…相手チームのデータをよく調べているというのも加味されての取材だったようですが、その期待に答えられなかったのが今でも悔いに残っています。
一関一高とのたたかいは、点差こそ開いてしまったものの、まるっきりやられっ放しではなかった事が、その後の自信にも結びつきました。その中で悔しかったのは、三年生部員の病気入院。三年になってから、二年の猛追でレギュラーを追われたけども、野球部をやめはせず、最後の夏にかけていただけに、せめて後一日二日後だったら、という思いが今でも消えません。
一日でも体調は変わります。ワールドカップサッカーの中村俊輔選手や、先の都市対抗野球の赤べこ・関連太郎投手のように、体調を崩し、目標達成出来なかった例もあります。3年生にとっては最後の高校野球の試合。ベストで臨んでいただきたいものです。
今日も拙文を読んでいただいてありがとうございました。またお目にかかります。