多忙がようやく落ち着き(自分の身体面以外で)社会人野球雑誌「グランドスラム」読んでいます。岩手からは「トヨタ東日本」「水沢駒形」が選手名鑑登場。両チームともこの時点で新戦力確定じゃないから…。10日後が待ち遠しい。
それで…ひとつ、読者の皆様に見せたいものがあります。2005年都市対抗野球東北予選大会の名簿パンフレットです。この年は岩手県開催、赤崎クは予選リーグを七十七銀行、TDKと争いました。とんでもない組み合わせや(苦笑)。ちなみに結果は…予選リーグ3試合を一日で消化する予定が、七十七-TDKが終わった(8回雨天ゴールド・七5-2T)時点で大雨になり順延。翌日は企業2チームが一試合、赤崎はダブルヘッダーという事態になりましたが、TDKには6-6の引き分け。七十七には0-8で敗れ予選敗退しました。
で、その選手名簿に赤崎クとしては唯一年、私が登録された年でありました。赤崎クは04、05年に都市対抗野球県予選制覇。私は大船渡農出身者ではただ一人の同優勝メンバーです。三年間いて一桁着けられなかったのも80年以降唯一ですが(爆)。いまだから話せますが、私はもう少し早く社会人野球から離れるつもりでした。それが「役割」持っていることに甘えて、伸ばし、伸ばし…気がつけば10年、経過していました。
「社会人野球あっての俺」てのもありましたが、やめれない理由も増えましてね。
「3・11」も理由言えば理由ですが、「大船渡農業高校」関係者で、最後の社会人野球関係者なんです。社会人野球に飛び込む人自体も多くなく、90年代前半あたりまで赤崎ク、高田クに数人、80年代後半に小野田セメントに1人、90年代後半にオール江刺に1人。で、最後に残るはバカ1人。さすがに、丈夫じゃない体悪くして、心臓硬くなって、精神疾患も持って…更に「もうひとつの主題」がシャレになんない事態になれば。
考えますよ。「その時」を。
でも、シーズンに入ると湧き立つ思いが止まらない。この思いがある限りは野球場に居続けようと。
ツイッターの写真で身に付けているグラブを買ったのも「ひとつの現れ」ってやつで。どんなにボロであったとしても、最後の一線、俺が俺であるための矜持だけは譲らずに。そんで、活きていこうと思います。
それで…ひとつ、読者の皆様に見せたいものがあります。2005年都市対抗野球東北予選大会の名簿パンフレットです。この年は岩手県開催、赤崎クは予選リーグを七十七銀行、TDKと争いました。とんでもない組み合わせや(苦笑)。ちなみに結果は…予選リーグ3試合を一日で消化する予定が、七十七-TDKが終わった(8回雨天ゴールド・七5-2T)時点で大雨になり順延。翌日は企業2チームが一試合、赤崎はダブルヘッダーという事態になりましたが、TDKには6-6の引き分け。七十七には0-8で敗れ予選敗退しました。
で、その選手名簿に赤崎クとしては唯一年、私が登録された年でありました。赤崎クは04、05年に都市対抗野球県予選制覇。私は大船渡農出身者ではただ一人の同優勝メンバーです。三年間いて一桁着けられなかったのも80年以降唯一ですが(爆)。いまだから話せますが、私はもう少し早く社会人野球から離れるつもりでした。それが「役割」持っていることに甘えて、伸ばし、伸ばし…気がつけば10年、経過していました。
「社会人野球あっての俺」てのもありましたが、やめれない理由も増えましてね。
「3・11」も理由言えば理由ですが、「大船渡農業高校」関係者で、最後の社会人野球関係者なんです。社会人野球に飛び込む人自体も多くなく、90年代前半あたりまで赤崎ク、高田クに数人、80年代後半に小野田セメントに1人、90年代後半にオール江刺に1人。で、最後に残るはバカ1人。さすがに、丈夫じゃない体悪くして、心臓硬くなって、精神疾患も持って…更に「もうひとつの主題」がシャレになんない事態になれば。
考えますよ。「その時」を。
でも、シーズンに入ると湧き立つ思いが止まらない。この思いがある限りは野球場に居続けようと。
ツイッターの写真で身に付けているグラブを買ったのも「ひとつの現れ」ってやつで。どんなにボロであったとしても、最後の一線、俺が俺であるための矜持だけは譲らずに。そんで、活きていこうと思います。