MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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四十七の巻 一筋の光を手繰り寄せる頑張り~大農野球部の戦い(3)

1994年 “継続”かけた一年の成果。大船渡農 2-8 水沢一高

 もともと3学年で部員が13人しかいなかった野球部。夏の大会が終わって3年5人が引退し8人。新人戦を前に一人柔道部から転籍して来た選手もいましたが、6高校総当たりのリーグ戦を1試合たたかった所で選手が病気にかかり、以降の試合を辞退する事に。私も夏の大会後からアドバイザーとして後輩の練習を手伝っていましたが、やはり一つの大会を完走できなかった事でモチベーションが下がり、さらに指導陣の先生もこの年の米の大不作もあり、忙しく練習を見られず…その年の冬の練習はもはやバラバラ。「この後一体どうなんだ」という不安を抱いたまま、私は高校を卒業し、北上に旅立ちました。

 どうにも「頑張る人」と「頑張りが利かない人」との間にギャップが生まれ、それが統一した練習ができない要因になったようです。93年末に主軸選手2人が退部。この年の末には、監督も交代する事になりました。
 4月、新入部員も入って練習試合もできるようになりましたが、スコアを見ると、ほとんど全部20点差をつけられていました。たまに10点差だと良く見えるくらい。
 で、それが何故かを後で聞いてみたら、やはり冬の時期の“チームとして”の練習ができなかった事が陰を落とした事、それが元で当初エースと目された投手をはじめ、ケガ人が相次いだ事があげられました。それでも夏の大会までには一桁の試合もできるようになり、水沢一高との試合に臨む事になりました。私ははじめて、平日に仕事を休み、紫波町営球場に向かいました。

 紫波町営球場。一年前を思わせる熱気がムンムンと伝わって来ました。ただ一つ違うのは天気。一年前は冷夏を象徴するような曇天でしたが、この日は雲一つない快晴でした。
 この年の試合全敗で迎えた夏。選手達は気後れする事なく試合に臨み、初回には四球で出た一年生が盗塁を試みるなど、意気の高さを示しましたが、エースナンバーをつけて初の登板となる一年生投手が初回に犠飛で先制を食い、2回にもつなぎの攻撃で1点を奪われました。

 大農は4回に反撃。3番に入った春までのエース(捕手にコンバート)がヒットと盗塁で二塁に進むと、一番の熱意を持っていた4番のキャプテンが左中間に適時打を放ち、1点を返します。その回の裏にディレードスチールから1点を失いますが、大農守備陣は踏ん張り、7回には四球2つから8番に入っていた3年セカンドがはなった打球が相手エラーを誘い、とうとう2-3と1点差に詰めました。

 しかし、鍛練の差というのが終盤に出てしまいました。1年エースはこの日1試合4ボークとフォームに乱れを生じ、水沢一打線にも慣れられ7回に2点、8回にも3点失って降板。8回の大農の攻撃は一番の一年の四球、3番の捕手のこの日3本目の安打が飛び出し、好機を迎えましたが、この日一番ボールが見えていた4番が魔を差した三振で逸機。

 その後は5番に入っていた三年がリリーフし、コールドを阻止。9回も反撃を期しましたが、3人で倒れ、結果終われば2-8。残念ながら一試合で甲子園の挑戦は終わることになってしまいました。
 冬場見ていた限りでは「この後の活動次第では野球部は分解してしまう」という危機をも持っていましたが、それでもこのままではいけない、と気づいた後は頑張りも見せたようでした。伸び盛りだったソフト部に前年までの野球部監督が異動し、野球部の指導態勢が万全とは言いがたい(当時の指導陣で野球経験0)状態の中、それでも一番の熱意持った主将、ちょっとベクトル違ったけど、熱意は負けなかった捕手、冬場は崩れたときもあったけど、夏までに乗り越えたキーストーンコンビを先頭に、現場に居合わせた全員が工夫し挑んだこの年の野球部。頑張り抜いた結果、この後の後輩の『居場所』を残しました。

1995年 増え始めた仲間を3人で支えた野球部。大船渡農 1-6 花巻南高

 夏の大会終了後、13人いた部員の内4人が引退、1人が休部した後に2人が入部。9人ギリギリという事もあり、2人補強選手を加え、秋の新人戦に臨みましたが、捕手が経験1年、二番手投手はバスケ部補強組ではとても一年鍛えて来たチームに太刀打ちできません。この年もリーグ戦勝つ事ができずじまい。ただ、きまじめな選手も多くいたこの時の選手達は、まだまだ“ズッコケ”もあったりしましたが、成長の兆しも見せはじめていました。
 4月になり、監督が前年3月まで務めていた方が復帰。新入生が6人入り、早々と4人がレギュラー格に名乗りをあげましたが、野球未経験が多い上級生も特徴生かし、レギュラー争いが展開。特に高校入学前は素人が2人という3年生3人がチームを引っ張り、夏の大会前には練習試合含めて2年ぶりの勝ち星をマーク。

 夏の大会を前に2日間、練習に交じって来ましたが、秋の新チーム結成のころのイメージと違い、選手達が自信もってプレーしていたのに驚いた記憶があります。夏の大会は花巻南高校と対戦。早朝の第一試合。紫波町営にむかいました。

 初回裏、花巻南に連打を食らった後に3番打者の三塁打で2-0。いきなりの先手でどうなるかと思いましたが、その後は2年生エースがランナーを出しながらも踏ん張ります。その間に3回、8番打者が敵失で出塁、続く9番打者が送った後、1番の一年でセカンドのレギュラーになっていた選手の左中間二塁打で1点を返します。前の回では同じ一年で5番に入っている選手が二塁打を放つなど、一年生が物おじしない活躍を見せます。
 それにつられた上級生も頑張りを見せます。
 5回、三連打で迎えたピンチに前年はエラーをしていた2年生ショートが好守備でランナーをホームで刺し、スクイズで1点こそ失ったものの、直後のプレーで3年生サード(3年で唯一経験者)のファインプレーで切り抜けました。

 6回にそのサードのセンター前二塁打(センターのもたつき見逃さず)も飛び出しましたが、続く4番の三年生捕手以降がそれを生かせず0に終わると、その回の裏に二死満塁から花巻南主将にセンターオーバーの三塁打を打たれ、一気に1-6と突き放されました。
 この後はバッテリーをそっくり一年生に切り替え、ムードを変えて追撃に出ましたが、7回の主将の安打、8回の二死満塁の好機を生かすことができず、試合はそのまま1-6で花巻南の逃げ切りを許す結果となりました。

 下級生が成長を見せつつあった中、野球の経験がない2人を含めて、3人の3年生がよくチームをまとめ、頑張ってくれました。一年からレギュラーのサードは堅実な攻守で安定的に活躍し、4番捕手は最初捕手の構えを正座でしていた時期を乗り越え要として頑張り、この年の主将を任された選手は、当初主将にするには不安な所もありましたが、ほかの2人がフォローして行く中で成長を見せ、立派に主将としてふるまっていました。試合こそ負けはしたものの、こういう成長を見せた3人の踏ん張りを見て、1、2年ののちの大幅な成長に結び付いたものと思います。

1996年 飛翔する後輩の踏み台となってくれた3年生の頑張り示す。大船渡農 0-5 宮古北高

 この年はやっと補強選手も加えずに新人戦を戦い抜き、冬場のトレーニングもサボる人がだんだん減ってきました。そして迎えた4月。それまで部長でチームを支えていただいた先生が異動し、代わって県央部から異動されてきた先生が新監督に就任しました。
 この先生はソフトボールの監督の経験もあり、さらに高レベルの競技に接して来た事もあり、現状の野球部メンバーの気質を理解した上でチームの強化を目指しました。加えて新入部員に中学時代一目置かれていた選手が何人か入部。裏方もマネジャー5人入部するなど、新しい風が吹き込まれようとしていました。

 資質ある一年、経験を増した二年の陰で、野球経験者が多くはない三年生7人。夏の大会寸前には、その中核をなしていた選手が家庭の事情で退部するというアクシデントもありましたが、練習試合4勝は、92年以来4年ぶり。確実に地力をつけたメンバーは自信をもって夏の大会に挑みました。

 試合開始早々、球場を沸かしたのは「素質ある一年」でした。この日2番に入っていたセンターがセフティーバントを決め、さらに盗塁。得点には結び付けなかったものの、明かに別次元の俊足を見せつけました。
 この勢いを駆って、2回には二年生の中軸選手が二塁打を放って好機を作りましたが、執拗な牽制にじれてしまい、塁を飛び出しタッチアウト。相手投手が一年なだけに先手を取ってプレッシャーかけたかった所でしたがこの拙攻でムードを宮古北にもって行かれました。

 3回に死球からペースを崩した3年エース。2番に入った「チーム髄一のセンス」の選手に先制打を食らうとこの回3失点。4回にも守備の乱れ、エースの暴投がもとで2失点を食らいます。
 4回にはこの“変革期”を支えた主将の安打も出ましたが、やはり得点には結び付けず、とうとう5回には、一年からエースとしてチームを支えた投手がマウンドを降り、さらに先に二塁打を打った選手がリリーフしようとしましたが、投球練習中に足をケガしてしまい、一球も投げずに降板。(ここ20年で2例だけ)しかし、ここでリリーフのリリーフした一年生が、地肩の強さを生かした速球で以後宮古北打線を抑え込みます。

 試合終盤、控えに回った3年生が登場し、意地を見せます。
 途中、弓道部から転部して来た選手はミートを武器にレギュラーに後一歩まで迫ったもののケガで及ばず、やはり途中入部だった三塁手と一年次から続けていた選手は守備機会しか出場の機会を作れませんでしたが、その守備機会で見せ所を作り、応援に来ていた同窓を沸かせました。

 この大会、ベンチ入りしたのは16人。この試合、既に14人を使っている総力戦の中、9回に最後に残っていた3年生が登場。強烈なライナーをぶっ飛ばしましたが、ショートのファインプレーに阻まれ、そのまま試合は終了。一年生投手に完封負けを食らい、この年の挑戦を終えました。

 資質ある一年生がその才能を発揮した一方で、野球経験が多くなく、レギュラーには届かなかった三年生がそれでも腐らずに野球を続け、存在感を見せた。二年生の中にはいわゆる“中だるみ”もあって途中鍛練をつめなかった選手もいましたが、この年の三年生の頑張りというのが、この年の一、二年生が関わるのち2年間の“黄金期”を支えたものとなりました。

 今回は94年からの3年間のたたかいを振り返りました。
 この間の野球部は「ゆるくない状態からの脱却」を旨にたたかっていました。部員数は少ない、指導態勢も整わない、もともとが男子生徒も少なく部員確保には難儀していた野球部でしたが、それでも夏の大会までにそれぞれなりの頑張りを見せ、試合で全校応援の前で存在証明を見せた事に感激した思いがあります。

 ただ、残念なことは、在学中に中軸選手2人が抜け、さらに94年入学生メンバーの中でも2人が野球部をやめた事には今でも残念な思いをしています。野球部を続けるかどうか、最終的には本人の責任になるのでしょうが、それでももう一つ、手を貸していれば(一人だけはそれの仕様もない状況でしたが)な、という思いが頭から消えないのも事実です。
 当時の指導者の方の多くは野球未経験者でしたがそれでも工夫されて生徒の育成に力を尽くしていただきましたし、特に96年は実力の差がありながらも、チームとしてまとめ、3年生にも存在価値を与えたやり方には、安堵しました。

 次号記事ではこうして踏ん張った先輩たちの思いを引き継いだ選手達が、どういうたたかいを見せたかを記録して行きます。もちろん、中3年、という長期の間隔は空けずに。



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