0️⃣ 端書き
ようやく島根県の記事制作に取り掛かれました。
6年前に北上市中央図書館で調べていた時から1950~60年代に存在していた各市のクラブチームの存在は気にかけていて、国会図書館の調査に移行してからわりかし早くのうちに毎日新聞西部本社島根県版の記事を集めていました。
それを基にまとめて出そうと思ったのですが、やはり全国11県の部分約100年の歴史を探ろうと思うと簡単でないのはその通りで、今年の冬も結局は山形、青森、鳥取をわずかに進めたに過ぎません。個人的な部分言えば2月以降、予想外のアクシデントに巻き込まれて心身削られたのはこたえました。それが影響して、島根に関しては完全版である「挑戦記」でなく「中間報告」として記していくことにします。
その代わり、第1期だけじゃなく、島根商科専門学校の「第2期」、MJG島根の「第3期」に関しても記述をしていきます。
1️⃣ 1931年 都市対抗野球に島根チーム参戦
島根県に野球が伝わったのは明治26年あたりと言われています。京都の第三高校の学生が島根第一尋常中学校(今の松江北高)の生徒に野球を教えたのがスタート。そこから浜田にある第二尋常中、島根師範学校、さらに杵築中(のち大社高)などに広がりを見せ、中等野球では鳥取県との山陰大会で盛り上がりを見せることとなります。
社会人の野球に関しては残念ながら明治・大正期の歴史を深く掘ることができませんでしたが、学生時代に野球を経験した人が社会人になっても野球をし続けようとする空気は島根でも起こります。
毎日新聞が1989年に都市対抗野球60年の歴史を各県ごとにたどった「球宴マップ」では島根県の都市対抗野球参加は1932年・昭和7年からと書かれていますが、地元紙や当時の大阪毎日新聞を見たところ、その前年・1931年から参加の記録があります。鳥取県共々この年から始まった「都市対抗野球山陰予選」、島根県からは全松江、全浜田、全今市(1941年に出雲町に合併。いまの出雲市中心部)の3チームが出場。当時の山陰地区は米子鉄道が強さを発揮していましたが、それ以外の街発で作られたチーム相手には島根県チームは互角に戦います。
2️⃣ 島根県チーム、二次予選1勝を刻む
山陰地区から中国・四国二次予選には優勝チームしか進出できないため、当初は米子鉄道の独壇場となりますが、その米子鉄道が中国・四国地区でも優勝し都市対抗本大会に出場するようになると、米子鉄道は前年優勝チーム枠で二次予選からの出場となり、二次予選進出のチャンスが他のチームにも巡ってきます。
1935年の一次予選では全松江が全今市、全浜田を破り二次予選に進出。翌36年には全今市が全松江を破り二次予選に。さらに翌37年は全今市が全松江、全鳥取に競り勝ち二次予選に進出すると、二次予選では全丸亀相手に10対4で勝ち、二次予選初勝利をあげました。
大日本帝国が行っていた戦争が深化し、アメリカ発スポーツの野球に対する視線は厳しくなりました。各種資料を読み込むと、1938年辺りから野球に対する目線が厳しいものとなり、特に島根、鳥取の山陰地方は「野球排撃論」に早くから乗った様子も書かれていました。都市対抗野球の記録を見ても1938年から1941年まで大会参加の足跡が見えません。
1942年は「銃後国民の戦意高揚」を理由として大会が開催されましたが、基本的に各県単位の一次予選は開催されず(実業大会を名目として行った県はありました)、前年などの実績によって二次予選進出チームを推薦するという形が取られた結果、約5年ぶりに全松江がエントリーされました。しかし実際の試合参加は叶わなかったようで公式記録の結果としては「準決勝で呉建築に不戦敗」。その後1945年の戦争終了まで突き進むこととなります。
3️⃣ 戦後─島根社会人野球復活、県予選開催に。
1945年8月15日に戦争が終了し、日常の生活が戻ってきました。その中で都市対抗野球も各地で再開の運びとなり、島根県でも野球熱は再び湧き上がります。1946年に島根県単独で県予選を開催。戦前に参加していた地域の全松江、全出雲(全今市の系譜)、全浜田の3チームに杵築中学のある大社町から参加した全大社、さらに全大田と5チームが参加。一回戦で全松江に競り勝った全出雲がその後2試合を大勝し、島根県予選初の優勝チームとなります。二次予選では元プロ選手も多く集まった広島鯉城園に大敗を喫しますが1歩目を刻みました。
1947年は地域発の5チームに加え中国配電が参加。これまで長く活動してきた全松江に23対3で勝つと、決勝の浜田クラブ戦でも21対7で勝ち県予選優勝。さらに中国地区予選でも全岡山に1勝するなど、存在感を見せ始めます。
1948年。全松江が2つのチームに分割し、松商クラブとみずほクラブで出場。中国配電は県下各チームに強さを見せ、3試合43得点の攻撃力で優勝。翌1949年も7チーム参加の県予選、松江クラブの猛追にもあいましたが、県予選3連覇を果たします。尚、1948年に松商クラブで投げていた三島正三投手がプロ野球大陽ロビンスに入団。島根県社会人野球チーム在籍者のプロ入り第1号。1950年に広島カープに移籍し、2年活動しました。
4️⃣ 中国配電、全国まであと一歩も大洋漁業に敗退
1940年代後半の都市対抗野球中国二次予選は、各県優勝5チームと前年度の中国地区予選優勝チームの6チームで争う形をとっていました。中国配電は組み合わせ抽選で準決勝から出場する形に。山口県代表の宇部藤山炭鉱に中盤以降得点を重ね決勝戦進出を決めます。中国配電はこの年積極的に各地有力チームとの対戦し、法政大学に善戦、鐘紡高砂に勝つなど実績を積み重ねてもいました。
決勝戦で対戦した大洋漁業は翌年プロ野球に参画するチームで、7人がプロ野球に進出。毎日新聞山口版の予想記事でも「大洋に歩のある試合である」と書かれていました。しかしせっかく巡ってきた本大会出場のチャンスを逃すわけにいかないと、中国配電も意気高く試合に臨みました。
台風の影響もあり3日延期があり7月20日に行われた決勝戦、初回中国配電が先制。しかし大洋漁業はその裏に4安打で3点奪い逆転。三回から投手を代えましたがその後2イニングで10失点。六回に2点を返したものの3対14という大差で大洋漁業に屈することとなります。
この試合は島根県社会人野球チームの主要大会初の代表決定戦進出であり、次に主要大会で代表決定戦に進出するのは66年後・2015年5月のクラブ野球選手権中国四国予選 MJG島根─松山フェニックス戦まで待つこととなります。
5️⃣ 拡がり始める社会人野球─滝川産業に山陰合銀参戦
翌1950年。地域発の5チームと中国配電が参加した県予選は、大田クラブとの打撃戦を制して中国配電が優勝。チームごとプロ野球に進出した大洋漁業でプロチームに進まなかったメンバーで結成した全下関チームと二次予選初戦で対戦。「前年のリベンジ」を狙いましたが惜しくも惜敗という結果となります。
1950年代前半は実業団チームが2つ登場。滝川産業は出雲市に本拠を置き、チームの主幹者が強い意気込みを見せて参戦しますが、1951年の都市対抗県予選決勝戦は“出雲ダービー”で投手陣の乱調から全出雲に敗戦。西倉実捕手はこの後プロの松竹ロビンスに進出。島根県社会人野球チームのNPB進出者第2号になります。
1952年は浜田市から亀山クラブが参戦。7チーム参加の大会、滝川産業を破った大田クラブが決勝戦に勝ち進みますが、松江クラブが初優勝。尚、この年の秋に「知事杯争奪戦」が行われた旨の記事が53年滝川産業紹介記事にありましたがその部分は後述。
翌1953年からは山陰合同銀行が大会に参加しますが、この年は好調を維持していた大田クラブに敗戦。中国電力が先達の意地を見せて県大会を優勝します。この頃から各地域連盟で春秋に公式戦が行われるようになり、この年行われた選抜都市対抗中国代表決定戦には滝川産業が出場します。春秋の地区レベル公式戦の際、県によっては県予選が行われている箇所もあり─山口県や岡山県は3月開催の春季大会が該当─、先述の滝川産業の記事のとおり「秋開催の知事杯争奪戦」記述はありましたが、残念ながら毎日新聞島根版・島根新聞ではその部分の戦績をつかむことができませんでした。
6⃣ 中国電力、滝川産業の縮小と大社クラブの台頭。
1954年はプロ野球・名古屋金鯱軍で盗塁王も経験した佐々木常助氏が総監督を務める益田クラブが加入。企業3チーム、クラブ6チームによる9チームのトーナメントとなり、中国配電、山陰合同銀行の企業2チームは初戦敗退。浜田亀山クラブが3勝して決勝に進みますが松江クラブが優勝。二次予選では広島クラブと13対16という乱打戦を見せますが予選敗退に。
この時期、岡山、広島、山口といった各県では企業チームが大きく力をつける一方で、全下関、広島クラブや岡山体協のような地域発クラブチームの活動終了が続出するように。しかし島根県ではその流れに逆らうかのように地域総掛かりで形成するクラブチームが一大勢力を保ちます。毎日新聞島根版に掲載されるチーム紹介を見ると地域の人たちがいかに尽力・腐心してチームを形成しているかという様子がこれでもかと書かれていました。この様子を見て「この時期の島根社会人野球こそ“THE・都市対抗野球”」と思うのは私だけでしょうか。
1955年。都市対抗では滝川産業が不参加、中国電力も初戦敗退という結果になりますが、山陰合同銀行が3試合31得点の攻撃力を見せて優勝、二次予選に進出。二次予選では大きく差をつけられての大敗という図式が多かった「島根チームのこれまで」を覆すかのように帝人岩国と渡り合い、0対4ではありましたが差を詰める結果となりました。
ただ、これで地域発のクラブチームも黙ってるわけではなく、1956年予選では大社クラブが中国配電から名称を変えた中国電力を、全出雲が山陰合同銀行を破ります。大会は松江クラブが全出雲を破り、優勝を奪還。
7️⃣ 1957年─島根で二次予選開催 参戦4チーム敗退のショック
1957年は都市対抗二次予選を松江で開催することが決定。これまで長年島根社会人野球を支えてきた中国電力が不参加となりますが、代わりに休部していた滝川産業が参加。この1年の活動にかけていた様子も書かれていましたが、元プロ石川喜理投手の登録が間に合わず、県予選では松江クラブに13対14で破れる結果となります。
この年の都市対抗を県予選は8チームが参加し、一回戦で勝った4チームが二次予選進出。1950年代以降の二次予選は、各県の優勝チームプラス開催県の複数チーム参加という形にして行われていました。県予選一回戦で松江クラブ、全出雲、山陰合同銀行、大社クラブの4チームが勝ち二次予選進出決定。大会は技巧派投手の小田川投手と、滝川産業からNPBロビンス→社会人天王寺管理局→NPBユニオンズを経験した西倉実捕手が軸になり躍進した大社クラブが全出雲、山陰合同銀行を破り優勝を果たします。
こうして迎えた二次予選ですが事前の新聞記事では厳しい見立ての書かれ方をされていました。都市対抗本大会出場経験の多い山陽3県チーム、山陰でズ抜けた力を持つ米子鉄道と戦う島根県勢の見通しが厳しいのは承知。でも、それでもどこまで闘えるか、という部分で島根の野球ファンの注目が集まっていましたが…7月6日に行われた4試合は、ことごとく厳しい結果を突きつけられるものとなってしまいました。
4チームの中で一番善戦したのは先制点を奪い、中盤以降失点したものの専売広島に善戦した県予選優勝の大社クラブ。山陰合同銀行は対企業チームとは戦い慣れているせいか試合を壊すほどの大量失点は許さず米子鉄道局に食らいつきました。連続失策からムードを悪くしたのが響きました。
全出雲は積極的に攻めて2点は奪い、意気の高さは好評価を得たものの倉レ岡山に10失点を食らい、松江クラブに至っては山口県・東洋高圧に22被安打をくらい、0対22で敗戦という結果となりました。大会は同じ山陰勢の米子鉄道局が決勝戦に進出しますが、倉レ岡山に破れ敗退という結果となります。
島根勢の結果に関しては新聞でも「地元から出場した“チーム”はすべての面で一枚も二枚も力が劣っていた。練習量の不足が目立っていただけだった(中国新聞)「多くを望むことははじめから無理だった(中略)負ける試合であっても観衆を沸き立たせるヤマがなかったのは残念(島根新聞)」と評されました。新聞の前評判などでは厳しい見立てが書かれていたとしても、選手たちは実力を見せようと戦ったことには変わりないはず。それでも目の前で突きつけられた4敗のショックはいかほどだったのか、と思うばかりです。
8️⃣ 大社クラブ 県勢10年ぶりの二次予選1勝。
それでも翌年1958年の都市対抗野球県予選は新たに参加した浜田鏡山クラブ、島根県庁を含めて10チームの参加。前年二次予選に進出した2チームが二回戦敗退の憂き目にも遇うなど荒れた大会になりますが、前年二次予選で善戦を見せた大社クラブが県予選連覇。
1959年、滝川産業が撤退、松江クラブと浜田亀山クラブが不参加、軟式の強豪・大東鉱山の参加も噂されましたが実現ならず。主力捕手西倉実選手が移籍しながらも、若手選手の成長でその穴を埋めた大社クラブが県予選3連覇。この年は記念大会ということで中国地区の都市対抗本大会出場枠が2に。東西に分かれてのブロックを形成し、島根県は岡山県、鳥取県で東中国地区を編成。2敗失格敗者復活方式で予選が開催されました。
7月9日から岡山県営球場で行われた予選には岡山から倉レ岡山、三井造船玉野、鳥取から米子鉄道、島根から大社クラブの4チームが集合。初戦、倉レ岡山と対戦した大社クラブは山陰合同銀行から補強した出島投手が立ち上がりを突かれ2対7で敗退。
翌日7月10日には古豪米子鉄道局相手に奮闘。1-1で迎えた六回に敵失とタイムリーで2得点をあげると、小田川→出島投手の絶妙な投手リレーで米子鉄道攻撃陣の猛追をかわし3-2で勝利。10年振りの二次予選勝利となりました。
しかし、次の日の雨天中止が、ギリギリの日程を戦っていた大社クラブにとって致命傷となり、1日延期した敗者復活戦・三井造船玉野の試合に臨めなくなってしまい試合を棄権しましたが、大会を盛り上げました。
なおこの時期は春秋に行われる社会人野球の大会に山陰合同銀行が積極的に参加している様子も見え、時折他県チームに食らいつくか、という様子も。また、 1958年に近鉄パールズから滝川産業に参画していた別所真三投手が広島カープの入団テストを受け入団します。新規ではありませんが3人目の島根県社会人野球チームからのNPB進出選手です。
9️⃣ 激しい鍔迫り合いを見せる一方で、縮小していく島根県社会人野球
1960年の都市対抗県予選では前年まで3連覇の大社クラブを山陰合銀が打ち破りましたが、その山陰合銀をこの年復活した松江クラブが破り二次中国予選に進出。中国二次予選では全国クラスにまで力を伸ばしてきたクラレ岡山と対戦し、延長13回まで競りましたが0対1と惜敗となりました。この試合、クラレ岡山の岡本投手が松江クラブを無安打無得点に抑えたこともあって、新聞報道ではそちらの方が注目されましたが、松江クラブの米沢投手が企業チーム相手に互角に競り合ったことも評価されるべきものです。ただ、雨天順延などの影響で敗者復活戦は棄権・敗退となったのが残念でした。
翌1961年は参加チームが激減し、山陰合同銀行、松江クラブ、大社クラブ、全出雲のみの参加に。優勝した山陰合同銀行は二次予選、中国各県優勝5チームで行われるリーグ戦に臨みます。各県を代表する=中国地区を代表するチームとの連戦は、補強選手を加えて「オール島根」の陣容で挑んだ山陰合銀に厳しいものとなり、3試合が完封負け。最終戦の電電中国戦で2点を奪いましたが0勝4敗という結果となりました。この頃以降は春秋に行われた公式戦に島根のチームが参加している様子が見えなくなってきます。
🔟 最後はフェードアウト─島根社会人野球「第1期」終焉。
1962年は戦後再開直後からずっと参加してきた全出雲が不参加。山陰合同銀行、松江クラブ、大社クラブの3チームでリーグ戦を行い、松江商高のエースで選抜高校野球2勝をあげた中林秀行投手が入部した山陰合同銀行が優勝。ニ次予選では広島の帝人三原に0─1と競った試合を見せました。
1963年もこの3チームのリーグ戦。松江クラブの米沢投手が山陰合同銀行相手に無安打無得点を達成しましたが、全チームが1勝1敗の3すくみとなり、2週間後にトーナメント方式で再予選を実施。山陰合銀が大社クラブに勝ちますが、松江クラブが山陰合銀に勝って優勝を果たします。県予選はこの通り白熱しましたが、中国予選では専売広島に大敗を喫しました。
1964年はリーグ戦ではなく当初から3チームのトーナメントで開催。山陰合銀が松江クラブにリベンジを果たしますが、大社クラブは3連覇時のエースで大社高校監督の任についていた小田川選手が投手に復帰するなど山陰合銀に優位に立ち5年ぶりに優勝を取り返します。中国二次予選ではクラレ岡山に大敗。
1965年。とうとう山陰合同銀行までもが大会不参加。大社高校グラウンドで行われた一次県予選は松江クラブが大社クラブに4対3で勝ち二次予選進出。中国二次予選は敗者復活方式トーナメントが行われていましたが、米子鉄道局には善戦するものの1対4で敗戦。敗者復活戦では伸長著しい八幡製鉄光と対戦し1対11と大敗。この試合が島根社会人野球第1期の最後の試合となりました。
1966年。5月の毎日新聞では各地の予選日程が掲載されます。予定表では未定ながら一覧に載っていましたが、残念ながら参加したチームはありませんでした。どういうことかと思って毎日新聞島根版をのぞいてみましたが都市対抗に関する記事は一切なし。調べ方が悪かったのかなと思って後で見返そうと思っていますが、少なくとも1月から6月まで見てみて一切の記述がなかった。
1965年日本社会人野球協会報には「なんといっても経済界の不況は会社、野球部にも大きな影響を与えた。(中略)島根県『クラブチーム』の解散等々」という記述がありましたが、それ以外に島根の社会人野球終焉のを知らせる記事を見つけることができません。島根新聞の索引でもあればそこから探ることができたのでしょうが、私の調査では現時点ここまでが限界。1966年以降の島根社会人野球の足跡を見つけられずフェードアウトをすることになります。
1️⃣1️⃣ 島根社会人野球第1期の意味。
日本の社会人野球は、戦後驚異的な復興を遂げます。ただ、それは企業・実業団チームの力に寄るところが大きかったもので、戦後直後多くを占めた地域発のクラブチームは、実業団・企業に支えられたチームの強化とともに活躍の場を失い、縮小していくこととなります。中には岩手県のように粘り強く存在し続けた地域もありましたが、なかなか上位大会で勝てないとなると…活動の意欲に響いたのでしょう。
当時はいまの「クラブ野球選手権」にあたる大会はありません。首都圏を見ても、クラブチームのみで形成していた栃木県はともかく、横浜金港クのようなよっぽど強い牽引力を持っていたチームでなければ、クラブチームが長く存在しえなかった状況。粘り強く活動できていたとしても新潟県のように震災で新潟コンマーシャルと新潟クラブ以外が休止に追いやられた地域もあったりします。福島県はクラブチームが福島クラブ1チームのみになったり、粘り強く存在し得た岩手でも、一時期20チームあった加盟チームが激減した時もありました。
それでも島根県の社会人野球は、中国電力・滝川産業・山陰合同銀行という実業団チームも参加しましたが、地域の力を結集してのクラブチームが存在し、十数年にわたってまさしく「都市対抗」と言える取り組みを見せ続けてきました。1960年代以降その力が削がれてしまい、最後は松江クラブと大社クラブのみとなり、フェードアウトしてしまったのは見ての通りですが、それでもそういう取り組みをし続けたということは、企業チームが巾を利かした社会人野球の世界においては注目してもいいものだったのではないでしょうか。
私が島根の社会人野球「第1期」に強く注目したのはそういう理由からです。
2025年、大分県佐伯市で地域企業が連携して「佐伯市硬式野球団」がつくられました。このチームの場合は企業チーム登録ですが、「地域の総力で地域社会・地域野球を盛り上げる存在」として社会人野球チームがつくられる動きが島根でも起これば…。今回記事で紹介した通り、一旦その動きが為された地域だからこそ「もう一度」と思ったりします。
この後、島根商科専門学校→松江ビジネスカレッジが活動した1997~2001年「第2期」の取り組みと、MJG島根が活動している2011年からの「第3期」の取り組みと記述していきます。
▽参考にした新聞、図書:毎日新聞(前身の東京日日、大阪毎日含む)全国版、西部本社島根版、西部本社広島版、西部本社山口版、大阪本社岡山版、大阪本社鳥取版。山陰中央新聞(前身の山陰新聞と松陽新聞→山陰新報→島根新聞)、日本海新聞、山陽新聞、中国新聞、日本社会人野球協会報
▽参考にしたかった資料:中国地区社会人野球協会20年史 どの図書館にもありませんでした。
▽お世話になった図書館:北上市中央図書館、岩手県立図書館、盛岡市上田公民館、福島県立図書館、岡山県立図書館、鳥取県立図書館、国会図書館。