1️⃣ 島根商科専門学校の加盟で31年ぶり復活
第1部では1931~1965年の島根県社会人野球の歴史を辿ってみました。その後約30年、硬式社会人野球の灯は消えていましたが、1996年冬の毎日新聞に「1997年から島根県で開校する島根商科専門学校が社会人野球に参戦する」旨の記事が載りました。島根県は元より山陰地方に広げても社会人野球活動チームは鳥取県の王子製紙米子のみ。島根商科専門学校の加盟で、王子製紙米子はこれまで岡山県チームと行っていた主要大会の一次予選を島根商科専門学校と行うこととなり、“山陰予選”が復活します。
2️⃣ 専門学校と社会人野球。
ところで社会人野球でなぜ専門学校と思われる方もいます。専門学校の野球は1989年に軟式野球選手権大会、1995年に全日本専門学校野球選手権大会が設立されますが、軟式ボールを使っての大会。硬式での野球に興味を持つチームは日本野球連盟に加盟して活動するように。1990年代以降その種類での加盟チームも多くなりました。ちなみに大学チームでも日本学生野球協会に入っていなければ加盟可能です。
島根商科専門学校野球部の移行前・松江情報ビジネス専門学校は1996年開催の全日本専門学校野球選手権準優勝。甲子園経験者14人中心に強い意気込みで新シーズンに挑みます。
3️⃣ 2年間の「山陰予選」、そして岡山県チームと対峙。
1997年5月3日に行われた徳山大会で島根商科専門学校はデビュー。山口の防府クラブに4対11で敗れましたが一歩目を踏み出しました。そして5月24、25日に行われる都市対抗一次予選は王子製紙米子の本拠地米子に出向いての2戦先勝方式で行われましたが、やはり長く一線で戦ってきた王子製紙米子には歯が立たず、2試合とも20点以上の失点で敗退。秋の日本選手権も3対6と競った試合もありましたが予選敗退となります。翌1998年も徳山大会では航空自衛隊防府に6対7と競った試合を見せましたが、王子製紙米子との試合ではいずれも大きく失点しての敗退と壁に突き当たりました。
1999年。1998年オフに王子製紙米子が活動終了。島根商科専門学校は岡山県との一次予選に参加することとなります。この年から王子製紙米子の代わりとしてでしょうか、広島大会にも参加するようになります。5月の徳山、広島両大会を経て迎えた都市対抗野球一次予選では川崎製鉄水島、三菱自動車水島には完敗するも、クラブチームの柵原クラブ(いまのショウワコーポレーション。メンバーの一部はWEED・BCを創立し数年活動)には競り合い意地を見せます。8月に行われた日本選手権予選リーグでは柵原クラブに4対3で勝ち、社会人野球の連盟加盟後初勝利をあげます。この後を京都市長杯─JABA京都大会とは別に行われていた大会─にも参加することとなります。
4️⃣ NPB選手も生んだチーム、5年であゆみを止める。
明けて2000年、徳山大会では防府クラブに大差をつけて勝利を飾ると、その後行われた都市対抗一次予選では川崎製鉄水島に5対7の接戦を見せ、秋に行われた日本選手権一次予選では柵原クラブに勝つ成果を上げます。この後京都市長杯にも参加した島根商科専門学校ですが、活動母体となっていた学校法人坪内学園が松江情報ビジネス専門学校と統合することを決断し。翌2001年は松江情報ビジネスカレッジとして戦います。
2001年の都市対抗野球一次予選では前年点差を詰められたことから警戒され、企業チームに2連敗、柵原クラブにも同様に3対4で敗れる結果に。秋に行われた日本選手権一次予選ではやはり企業2チームには苦杯を喫しますが、柵原クラブには3対2で勝ち、日本選手権予選では柳原クラブに3連勝。そしてこの試合が島根商科専門学校→松江ビジネスカレッジとつないできたチームの最後の試合となりました。
2002年初頭、松江ビジネスカレッジは社会人野球から撤退・脱退する旨を社会人野球連盟に提出し5年の活動を終えました。学校そのものはその後も形体を様々変えますが、現在も島根県並びに米子を拠点にして教育・技術習得の活動を行っています。
この5年間の活動していた中で山﨑賢太投手がNPB中日ドラゴンズに入団。島根県硬式社会人野球からは4人目のNPB進出となります。(軟式も含めれば5人目。後述)3年間プレーした後にタレントとしても活動をしていました。
5️⃣ 参考資料として─全日本軟式野球大会・島根県チームの成績から。
今回はもう一つ、島根県の軟式社会人野球にも触れていきます。硬式社会人野球は活動している期間や参加チームの幅が広くなく、全県の野球の状況をくみ上げたものとは言えない、ということで、比較的それができていた軟式野球の状況を取り上げようと思いましたが、軟式野球の場合はABCの各クラスがあり、それぞれに参加する大会があるので、それを全部紹介するというのもまたしんどい作業です。代表的なところとして「天皇賜杯全日本軟式野球選手権本大会の結果」という形で「どのようなチームが島根を代表」していたかを記します。
硬式社会人野球と重ねて参加していたのは1947年の大社クラブと1960年出場の益田七尾クラブ。また、大和紡績出雲や大東鉱山のように硬式チームの選手が軟式と兼任で所属していたチームの姿もありました。
1960年代以降は各地のクラブチームや会社チームが群雄割拠で代わる代わる全国大会に出場。その中で二度の本大会出場を果たした出雲信用組合からプロ野球の一時代を築いた投手が現れることとなります。広島東洋カープで投げていた大野豊さんです。大野さんのストーリーは広く伝わっているのでここで書くことはしませんが島根の(硬式・軟式問わず)社会人の野球から当時4人目のプロ進出選手、として心に留めておきたいです。
1980年代には中筋組グループが多く全国大会に出場。1989年、硬式での活動を終えて24年ついに山陰合同銀行が全日本軟式大会本大会出場を決めます。1993年から島根県8連覇。2000年代は中筋組グループとの激しい鍔迫り合いを演じ、2000年代後半から2013年までは中筋組グループが優位に立つ場面もありましたが、2018年から2024年までは山陰合同銀行が島根県6連覇という足跡をたどります。
必ずしも各県野球連盟がホームページを持っているわけでないので、県予選の様子は現地に行って山陰中央新聞読まないと分からないかもしれませんが、島根県でも野球の熱意そのものをくむ取り組みが続いていたことは明らか。そしてそういう営みの中で活動を続けていたチームが、2011年硬式社会人野球に挑むこととなります。
そのチームの名はMJG島根。
第3部ではその活動について触れていくことにします。
▽参考にした新聞、図書:毎日新聞全国版、西部本社島根版、大阪本社鳥取版。日本野球連盟報、全日本軟式野球連盟70年史+同連盟HP。