0️⃣ 「再制作の理由」と端書き。
青森県社会人野球については2024年春に一度中間報告を記しました。今回はそれに「1927年~1964年に伊東が認識できた社会人野球の戦績」を乗せ、併せて多少の加筆をすることとします。
2023年、長年社会人野球を支えてきた自衛隊青森、三菱製紙八戸の両チームが解散。その際に拙稿では1971年に社会人野球が復帰してからの光景を記してきました。青森社会人野球は5年間の空白を経験しましたが、そこから「活躍の場を取り戻す」ために多くの方々の奮闘があり、その前の1930年あたりから1964年までのあゆみ・足跡も見過ごしてならないものが。今回、改めて「青森社会人野球」を取り上げます。
1️⃣ 都市対抗参加黎明期-熱意の勃興と縮小
1971年に社会人野球が復活した際、毎日新聞青森県版では「第一期」のあゆみも記されていました。大正時代には青森県でも野球熱がだいぶ湧き上がっていましたが、その熱意は都市対抗野球という新設された大会にも向かっていました。当初、大学野球を経験し、八戸野球協会の組織者である大下常吉氏がリードを取って作られたオール八戸が東北の舞台を戦いましたが、瞬く間に他の“三大都市”青森、弘前、更には五所川原、金木、三本木─当初「野辺地」と書きましたが都市対抗野球には参加していませんでした─といった地域のチームが参加し、賑わいを見せることになります。
この中で強力なチーム体制を作ったのは青森林友。県内で有力な産業だった林業をバックに組織だったチーム作りをし、下馬評は高かったのですが、1932、1933と青森ユニオンに優勝の座を奪われます。特に1933年は都市対抗県予選敗退のショックで一度解散を決断。そこから1ヶ月あまりでチーム綱領と支える体制を確立。選手や指導陣の「現場」とグランド外の「後援者」協力もあり、他チームの追随を許さないチーム力を身につけます。
青森野球の意地見せる「全青森」編成
一方で、青森県下各チームについては先に記したように、青森林友を2年連続で打ち破った青森ユニオンなど地域発チームは冷害などで継続して活動するには困難を来たします。青森市内の官公署チーム(市役所、県庁、青森鉄道)は積極的な活動を見せ、青森林友とともに青森市内でリーグ戦を実施したり、プロ野球チームや強豪社会人チームの遠征の際には4チームで全青森チームを結成して対戦。東京巨人軍や名古屋金鯱軍といったプロチームには敗戦を喫しましたが、都市対抗野球本大会常連の全大阪(日本生命を中心に編成)には9対4で勝つなど青森野球の底力を見せたりしています。
しかし、個別チームの戦いとなる都市対抗野球では、公社チームは戦争の影響も見受けられ、青森鉄道はてつどう都市対抗野球不参加方針の変更により不参加を選択。林友と他チームの実力差は広がり、県予選決勝戦ですら5回コールドに。1930年代後半には県予選が開かれない状態に陥ります。
2️⃣ 青森林友、夢の大舞台へ 都市対抗本大会出場
青森県内で確固たる力を得た青森林友は、東北での戦いにおいても徐々に力量を発揮。青森に限らず、岩手など北東北地域の有力選手がこぞって林友に集い、成田友三郎、小田野柏、福士勇といった選手は当時できたばかりの日本プロ野球にも進出。1935、37、38年には代表決定戦に進出し、1939年には盛岡吉田印刷、仙台逓信局、小坂鉱山とのライバルチームを退けて東北予選優勝、本大会出場という栄誉を勝ち取ります。
本大会では当時の社会人野球花形チーム「東京倶楽部」後継的存在のチーム・藤倉電線の前に完封負けを喫しましたが、そこまでの行動を含め、青森野球に大きな足跡を刻んだことは間違いありません。
この部分、出場1回、しかも大敗ということで軽く見られがちではありますが、東北の中で生活する環境に優位な位置にいたわけでもない青森のチームが、グラウンド内外の英知を集め、東北王者にまで上り詰めた過程を見たら、軽く見ることがどんなに恥ずかしいかというのを思い知ることになると思います。私の筆の拙さからそれを伝えきれないことは申し訳ありません。
青森鉄道との延長17回の激闘─そして、戦争激化へ
1940年頃になると、大日本帝国が行っていた戦時体制が強化されていましたが、そんな中で青森鉄道が都市対抗野球に復帰。1940年には2024年に至るまでいまのむつ市から唯一の出場となる大湊特殊鋼が出場(予選リーグ2敗)、1941年の県予選代表決定戦では林友と青鉄の一騎討ちとなり、延長17回大激戦の末1対0で青鉄が県王者の座をもぎ取りました。
しかし戦争の影響はさらに深く及び1941年は二次予選まで行われたものの本大会中止、1942年は事実上の一次予選となる実業野球大会が青森林友と青森鉄道の間で行われますが、1943年からは野球の足跡は途絶えます。1989年の毎日新聞掲載の60回大会記念特集「球宴マップ」では戦死した人や青森空襲の犠牲になった人の様子も書かれていました。
3️⃣ 戦後-野球熱は社会人野球につながらず…
1945年に戦争が終了し、青森にも平時の生活が戻ってきましたが、戦前多い時には10チーム近く参加していた青森県予選の様相は青森林友+八戸、弘前、青森の各地域からだいたい1チームが出場するのみ、に。当時のマスコミには「(要旨)戦後高まりを見せた野球熱は資材の高騰などもあり、費用のかからない軟式野球で発揮される傾向となった」とも書かれていました。青森林友も軟式野球の国体兼軟式選手権に青森営林署として参加する状況に。1947年都市対抗では運営する側の都合もあり参加希望チームから絞ったこともありました。
ライバルの台頭と林友の逆襲
そんな中でも生活を取り戻す世相に合わせて硬式社会人野球も復活の道を刻み、1950年から数年間北海道・東北地区の強豪が集まる大会を開催。46年は都市対抗東北予選に準優勝した林友が優位な状況にいた状況も、戦前からの有力クラブチーム青森ユニオン、弘前オリオン、青森県庁が覆す場面も。特に青森県庁は軟式の大会で全国優勝を果たすなど実績を積み重ねていました。
危機感を持った青森林友は1950年代に岩山高遠監督の下チームの再構築を図りチーム力を復活させていきますが、その一方で先に紹介した多くのライバルチームは長年の活動継続には至ることができませんでした。1952年の都市対抗野球を伝える記事では県連盟登録チームのうち青森県庁、青森市役所、弘前オリオン、青森ユニオン、弘前公陽が財政難で出場事態する旨の記述がありました(他に三沢アスレチックスも在籍)。
4️⃣ 「孤塁を守る」林友、とうとう力尽く。
「昭和30年代」青森林友の孤軍奮闘。
1953、54年は青森県予選がかろうじて開催できた状況となっていた青森県社会人野球。北海道・東北選抜大会も春時期にベーブルース杯東北予選を設置した影響か開催終了になります。
1955年には東北二次予選がはじめての青森開催ということで、青森高校OBで形成する「青森甲田クラブ」、青森商業卒業生で形成する「(青森)商門クラブ」、オール弘前の性質を持つ弘前双葉クラブの3チームがエントリーし、県予選段階から報道含めて賑わいを見せましたが、これらチームの挑戦も1~2年程度で幕を閉じます。
昭和でいう30年代は青森林友が単独で東北に挑み続ける構図に。林友が一定の力量を保っていたのは東北レベルで戦える主力投手の存在。昭和20年代は五所川原農林出身で、戦前にプロ野球大和軍にも在籍していた広島清美投手が主戦として奮戦。昭和30年代は弘前工業高校から入部した葛西兼美投手がチームを引っ張りました。
「青森社会人野球第一期」終焉。
釜石製鉄の都市対抗本大会四強や盛岡鉄道のサン大会(いまのスポニチ大会)準優勝などレベルが上がる他県チームをよそに、基本青森林友1チームのみで身近な箇所で腕を磨きあうライバルのない青森はチーム力をアップさせる余力がなく苦戦を強いられます。1955年秋に行われた東北都市対抗野球で決勝進出、あるいは1959年春に行われたベーブルース杯東北予選で釜石製鉄と延長12回の競り合いを演じた試合もありましたが、都市対抗予選では敗退続き。この間、公務員のスポーツ選手受け入れの制度も廃止になり、選手採用に融通の利く民間企業と裏腹に公的機関のチームはより縮小していくことになります。
久しぶりの都市対抗東北予選勝利は1961年の新庄球友戦。その後の常磐炭鉱戦も接戦しましたが、この頃は春秋に行われる東北レベルの試合を辞退することが多くなります。1963年、8年ぶりに青森で行われた東北二次予選では準硬式野球で実績を作り、プロ野球選手も輩出した日通弘前チームも挑戦しますが、青森林友共々東北の強豪に緒戦敗退。
※渋谷誠治投手。準硬式日通弘前で実績を作った後に社長命令で硬式の日本通運浦和に移籍。1962年に国鉄スワローズに入団しました
翌1964年も東北予選2連敗を喫した青森林友は1965年5月、ついに解散することとなりました。5月20日に出された解散声明では「青森林友が孤塁を守ってる間に他に後続チームが誕生し、青森球界振興の機運も高まるであろうと内部的な隘路を打開しつつ強化改善に努めてまいりましたが、(中略)関係者一同慎重に協議を重ねた末、いたずらに伝統にすがりつき、かえってその光輝を汚すより、思い切って解散することが最善の方法であるという結論に到達しました」という悲痛な声明が出されました。
十数年、ほぼ青森林友単独で戦わせてしまったことが、1971年復帰の際に三菱製紙八戸だけの登録はせずに、八戸市水道局を誘っての復活という選択をさせたものと思われます。
5️⃣ 1971年からの「第二期」ダイジェスト+青森社会人野球の盛況・復興を。
一時期は歩みが途切れ、復活するのも時間がかかり、1971年に始まった“第二期”は八戸市の2チームからスタート。そこから青森市にチームができて、弘前でも呼び起こされて…と大体の参加チーム数は5~6チームずつながら熱い野球の道を作られてきました。10年代ずつのトピックを作ってダイジェストを記します。
▲1979年、八戸市水道局、日本選手権本大会出場
─1971年に再開した青森の社会人野球は、誘致企業の三菱製紙八戸が八戸市水道局を誘ってのスタート。当初は八戸市の2チームで行われていた青森社会人野球も、翌年に青森市の高校OB選手が集まって結成されたオール青森クラブ、1973年には弘前市のきものセンターがスポンサーになった「きものセンタークラブ」と自衛隊青森が加わり、にぎわいを見せます。
その中でチーム強化を見せたのが「練習相手として誘われた」八戸市水道局。各種大会で勝ち星を重ねていくと、1978年、地元青森で開催された日本選手権東北予選では3試合を勝ち抜き優勝。青森林友以来39年ぶりの全国大会出場を決めました。1982年に活動を閉じましたが青森社会人野球の屋台骨を支えたチームでした。
▲1980年代、全弘前倶楽部の躍進 全国4強も
─1980年代に躍進を見せたのは全弘前倶楽部。きものセンタークラブが1977年に活動を終了した後、弘前市の野球関係者で作られたチームはクラブ野球選手権で県予選9連覇。当時は秋田、山形との3県で全国大会進出枠を持ち本大会出場5回。1986年大会では全浦和を破り本大会ベスト4。都市対抗野球でも県予選優勝を80年代に3回(83、84、86年。他に99、05年)を果たすなど目立った活躍を見せました。躍進の原動力になった投手は「高校野球未経験、早起き野球出身」という異例の経歴を持ちます。この間に1979年に八甲クラブと八戸市・イヴ2(試合では「オール八戸」)が連盟に加わっています。
▼1990年代。「先達他県に追いつけ」の思いは自衛隊青森の「あと一歩」に
─青森県社会人野球はこの間「先行する他県に追いつけ追い越せ」と「春連休時の春季大会→5月後半の都市対抗→7月上旬のクラブ選→8月後半の日本選手権」のサイクルで行われていた県内大会に加え、岩手県を中心に他県チームを招いた青森市長旗大会を設置。県内チームと戦わせることでレベルアップを図りました。
こうした取り組みを経て主要大会の代表決定戦にたどり着いたのは自衛隊青森。1994年都市対抗野球での第2代表決定戦三回戦進出は第二期では最高位。1997年の日本選手権東北予選では代表決定戦まで勝ち上がりました。その代表決定戦こそJR東北に敗れましたが、青森社会人野球の進化を見せた1シーンでした。
この時期のトピックとしては…南郷村野球団が村域のチームとしては珍しい社会人野球チーム結成。7シーズン活動し、クラブ選では二次予選進出も経験しました。他に1994年シーズン中に八甲クラブが青森BBCに改名します。
▲2000年代。「羽柴秀吉」「吉幾三」…著名人助力で盛り上がりを作る
─2000年代に注目を浴びたのは著名人が後援・助力したチーム。2004年の球界危機を乗り越えようとした取り組みは、社会人野球にも及び、“欽ちゃん”萩本欽一さんのゴールデンゴールズ結成からクラブチームの活性化に。その風は青森にも及びました。
2000年に活動を始めた金木ブリザードは2003年、各種選挙に積極的に立候補した羽柴三郎秀吉氏の後援を受け「羽柴ファイターズ」に改名します。その年のクラブ野球選手権東北予選を勝ち抜き本大会に初出場(私=赤崎野球クも対戦歴があります)。本大会こそこの大会に準優勝した静岡野球倶楽部に2対18と敗れましたが軌跡を刻みました。
続いて社会人野球に助力したのは歌手・吉幾三氏。2008年にブルーズヨシフォレストを結成。青森市を本拠にしますが、全県を活動範囲にし、2009年には都市対抗県予選優勝、クラブ野球選手権では本大会に出場し、ガッツ石松氏が関与していた全栃木に1勝するなど印象度の強い活躍を見せました。
残念ながら両チームとも長年の活躍には至らず、羽柴ファイターズは2005年金木ブリザードに返還、ブルーズヨシフォレストは大震災も影響し活動の余力をなくし、2012年解散しましたが青森社会人野球に刺激を与えてくれました。その様子が「次への躍動」へとつながります。
▲2010年代~ 地域の力結集「弘前アレッズ」結成/三菱製紙八戸、東北以上大会優勝
─2010年代は2つの大きな出来事が。
一つは地域の力を結集して作られた「弘前アレッズ」の創立。結成数年間は先輩チームの壁に突き当たりましたが、その後強力な後援体制を基に有力選手が集まり、各種県大会で優勝。クラブ野球選手権でも2015年に東北優勝も成し遂げ、青森社会人野球の盟主に名乗り上げます。
もう一つは、クラブカテゴリの大会に参加できるようになった三菱製紙八戸クラブが、青森で開催された東日本クラブカップ大会で優勝。元々のクラブ野球選手権でも奮戦を見せ、12、14、15、17年と「全国まであと一歩」を経験しましたが、よりによっての同県対決になったりで本大会出場を果たせなかったのが残念です。
▲~2020年代 巨大感染症のキズ露に…県外試合参戦できず/栄枯盛衰活動終了も
─2020年、全世界的に起こった未知の感染症「コビッド19 新型コロナウイルス」はすべての社会的活動に影響を及ぼし、社会人野球もその影響は及び、活動縮小を余儀なくされました。青森県のチームは多くの県外公式戦参加を辞退。試合なしに野球チームの体制を整えるのに難儀したのか活動休止を選択するチームも出ました。
八甲クラブ→1994年シーズン途中に改称した青森BBCは2002年に活動終了。青森市野球人の受け皿になっていたオール青森クラブは2017年に解散。そして、2022年シーズン限りで長年青森社会人野球を支えた自衛隊青森、三菱製紙八戸両チームが解散を決断します。
6️⃣ 始まりは青森。“社会人野球の先輩”の記録を汲み、顕彰と足跡を記し残す。
こうして、厳しい環境の中戦い続けてきた青森県社会人野球。青森営林署の雑誌「林友」に青森林友野球部に関する記述が多くなされており、特に1951~52年に監督をしていた岩山高遠氏による丁寧な記録は、私の調べ物進行の大きな助けとなりました。そして青森林友野球部有志の皆様も「青森林友野球部戦績総覧(未定稿)」というタイトルで1919年・大正8年から1965年・昭和40年まで青森林友野球部に関して新聞などに掲載された紙面を集め583ページに及ぶ資料を作りました。その端置きで「(要旨)あまりにも膨大な資料のためそれをまとめて文章に書くには大変。まずは新聞の資料をのみを掲載することにした」とのこと。
私も1年前の中間報告では「この時期の青森社会人野球は青森林友が大きな地歩を築いたが、林友以外にも熱意をもっていた人の想いもあるわけで、そのあたりの空気というのも拾えればと考えています」と記しましたが、それがどんなに大変かというのを思い知らされている最中です。
学校年代の野球部・野球活動に関しては広く伝えられますが、硬式社会人野球でもその熱意が発揮される状況になれば。現在、弘前アレッズ、全弘前倶楽部の弘前市2チームと、五所川原市のキングブリザードの3チームで活動が行われている青森県社会人野球。この3チームの盛況と青森、八戸、むつといった地域で活動を復活してほしいと願いましてこの項を終わらせていただきます。