MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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長期活動3チーム中心に追加記述、判明分試合結果も紹介─鳥取県社会人野球活動記録『中間報告』250415ver.

1⃣ 鳥取県部分、2025年までの1年間 加筆するまで

 2024年春、中間報告という形で鳥取県の社会人野球記事を書きました。その後は「多分鳥取の調べ物は一番後回しになるかな」と思ったのですが、ひとまず形にはしたいという思いもありまして。加えて昨年は絶望視していた国会図書館行きも1泊2日程度はなんとかこなせたことも手伝い、以下の部分を補強することができました。

・米子鉄道活動期部分→中国新聞を利用しての都市対抗試合記録

王子製紙活動期部分→86年から89年の「日本選手権一次予選」

鳥取キタロウズ活動期→主要大会以外の試合結果記録

 2024年春に完成させた記事に今回調べた記事に基づく記述を付属し、更に調査結果を踏まえた試合結果の一覧表もつけてバージョン2といたします。

2⃣ 米子鉄道局活動記-中四国地区3連覇の偉業

 1927年・昭和2年に始まった都市対抗野球、山陰地方でも1931年から予選が始まりました。当時の中国・四国地方予選は岡山・広島・山口の3県で山陽地区、鳥取・島根の両県で山陰地区と区割りがなされていました。鉄道チームが各地で“地域随一の強豪”にのし上がっていて、山陰地区でも唯一の職域チーム・米子鉄道局が境実業団や全鳥取など地域発チームを圧倒。

 全国区の資質を持つ北井正雄投手をエースに据えた米鉄は躍進を見せます。北井投手は1933年までに関西大学に進学しますが、山陰地区の有力選手がこぞってチームに加わりこの年に中国地区代表決定戦に進出。1934年から36年までは3年連続で中四国地区の代表を勝ち取りました。本大会では34年、35年に連続して満州倶楽部との対戦。36年は21世紀に至るまで強豪の日本生命中心に編成する全大阪に敗れましたが、存在感を見せました。

 尚、北井投手は関西大学に進学後、できたばかりのプロ野球・阪急に入団。「東の沢村(栄治)、西の北井」と呼ばれる活躍も見せましたが、1937年に腸チフスでなくなりました。

 「野球排撃論」から途絶えた足跡

 こうして黄金期を築いていた米子鉄道局ですが、さらに鉄道チームが1937年から都市対抗野球不出場の方針に。併せて日本の戦況が深化したことから野球に対する目線が厳しいものとなり、「野球排撃論」が唱えられる世相に。様々な書物を見ると山陰地方の両県ははその波にいち早く乗った様子で、盛況を示していた高校野球も1940年あたりから足跡が見えなくなってしまいました。社会人野球でも1938年から足跡が見えなくなり、エントリーはされた大会はありましたが実際の試合に臨むことができず、そのまま大日本帝国の戦争終了まで突き進むこととなります。

3⃣ 戦後直後-米子鉄道局に挑んだクラブチーム

 戦後、野球も再開されますが、鳥取県では硬式社会人野球にまでその威光が届くことがありませんでした。野球熱そのものは発揮されていた様子も見えますが、戦後数年都市対抗野球は米子鉄道局が単独で挑むことに。1949年あたりから数年間は地域発クラブチームも参加して県予選が開催されます。

 この数年間に参加したチームは全鳥取、全米子、全倉吉、鳥西クラブ(鳥取西高OB)。1950年の日本海新聞では「鳥西クが優位」という記述がありましたが、長年トップクラスの位置で戦い続けてきた意地を見せ米子鉄道局が優勝。1953年は鳥取でニ次予選が開催され、米子鉄道、全倉吉、鳥取西クラブもニ次予選に直接臨みますが、全倉吉は東洋紡岩国に敗退、鳥取西は雨天延期に対応できず棄権という結果に。これらクラブチームはその後長くの活動継続はできず、米子鉄道局のみが中国地区の強豪に挑むこととなります。

4⃣ 山陰の雄としてあと一歩まで迫るも…米子鉄道活動終了。

 鉄道に関する環境が激変する中、米子鉄道局野球部は山陰の雄としての誇りを持ち戦い続けます。国鉄連絡船の事故があり活動休止した時期もありましたが、1957年中国予選では代表決定戦に進出。一方で1959年東中国予選(記念大会で中国地区枠1増。岡山、島根、鳥取で東ブロック、広島、山口で西ブロックに)では島根の大社クラブに敗戦するという浮き沈みも経験します。

 1961年には5県代表チームのリーグ戦で3連勝し王手をかけるも倉レ岡山に敗退するなど、あと一歩で「4度目の本大会出場」の夢はもぎ取られ、1965年あたりに始まった国鉄の規模縮小の影響から中国地区の国鉄チーム2つ-岡山と米子は1966年春までに活動終了となります。

▲米鉄補足・国鉄大会について

 ─この間、日本社会人野球協会主体で行われる大会の他にも、産業別対抗野球大会の予選も兼ねた国鉄野球大会も行われています。1981年に国鉄野球関係者から発行された「国鉄野球史」にある程度の戦績が記されており、国会図書館デジタルアーカイブで見ることもできますが、残念ながら私自身の日程調整がつかず、岩手県立図書館に行って腰を据えて調べることができません。

 ですので、今回の中間報告では国鉄大会に関する記録は外して掲載しています。なお毎日新聞の支社ごとで記事対応も違っていて、岩手で行われた「決勝大会(正式名称不明)」の時には岩手版で、米子鉄道局はじめ参加チーム紹介記事が書かれていたこともあったことを紹介しておきます。

5⃣ 1984~98年 王子製紙米子活動期

 1984年。

 19年ぶりに鳥取社会人野球活動チームが現れます。その名は王子製紙米子。当時の中国地区の社会人野球は山口、広島、岡山の山陽3県で行われていて、島根は活動休止。都市対抗野球、日本選手権の一次予選は岡山県と共同で行われることとなります。

 当時の岡山県川崎製鉄水島(現JFE西日本)、三菱自動車水島(現三菱自動車倉敷オーシャンズ)という強力な2チームが在籍。84~85、90~96年の一次予選は、参加チーム総当たりリーグ戦でを行いましたが、この形式で王子製紙米子が一次予選で勝ったのは

1984都市対抗 3-2 三井造船玉野

1984年日本選手権8-0 三井造船玉野

三井造船玉野はこの年限りで活動終了

・1988年都市対抗 5-4 川崎製鉄水島

・1994年日本選手権4-3 三菱自動車水島

 4試合と苦しい戦いを強いられました。

▲王子補足・4年間行われた「日本選手権一次予選」リーグ戦

 ─1986年から1989年にかけて「岡山・鳥取、広島、山口の“3県”予選」から「岡山・鳥取・広島東部で形成する東中国ブロック」と「広島中西部・山口で形成する西中国ブロック」で分けてそれぞれ7~8チーム程度でリーグ戦を行いました。このリーグ戦を日本選手権の一次予選と兼ねて開催し、リーグ戦上位2チーム同士で二次予選を行い、中国地区からの出場チームを決めていました。王子製紙米子は中堅クラスのチームには勝つこともできていましたが、都市対抗本大会をにらむチーム相手には善戦するものの苦戦する様子が見えていました。

 図表を見ての通り、私の調査時間の時間分配が悪く、この時期の“一次予選”結果をすべて収めることはできませんでした。

 主要大会では苦戦していた王子製紙米子ですが地方大会では存在感を見せることもあり、1990年の徳山大会では準決勝進出。1997年には島根県の島根商科専門学校が社会人野球に参戦したため、約60年ぶりに都市対抗“山陰予選”が復活。島根商科専門学校には優位に立ち、創部初の都市対抗野球二次予選に進出。97年、98年の徳山大会で準決勝に進出する成果を見せますが、1998年シーズン後に「人材の集約化」を理由に愛知県の春日井チームに一本化、苫小牧、米子の両チームは活動終了することとなりました。

 15年の活動の中でプロ野球に嶋田哲也(タイガース)、玉峰伸典(ジャイアンツ)の2投手を輩出し一時代を築いて、再び鳥取社会人野球は活動を休止します。

6⃣ 鳥取キタロウズPear-Kings 10年の軌跡

 王子製紙米子が活動を休止して7年。2005年にわき上がったクラブチーム創設ラッシュは鳥取にも影響を及ぼし、2006年に鳥取県の著名人有志が集まり「鳥取キタロウズ」が結成されます。キタロウズの命名は同地出身の水木しげる氏作品「ゲゲゲの鬼太郎」から。当時の片山善博知事が名誉監督に就任し、川口和久氏、加藤伸一氏が指導陣に、浜名千広坊西浩嗣選手といった元NPB選手が加入。

 チーム結成当初は萩本欽一さん監督の茨城ゴールデンゴールズや、山本譲二さんも助力する山口きららマウントGとの定期試合も行われ、社会人野球に対する雰囲気も盛り上がりつつありましたが、都市対抗などの予選は強豪チームが揃う岡山県との戦いを余儀なくされ、主だった大会では序盤敗退。2009年のクラブ野球選手権中国一次予選では代表決定戦に進出しますが、倉敷ピーチジャックスに敗退。

 この後2012年にキタロウズの名前を返還し、鳥取名産梨の英語名「Pear-Kings(ペアキングス)」をチーム名称にして活動を続けます。

▲キタ・ペア補足─中四国地区クラブチーム大会設置、2010年には優勝を経験

 2005年あたりから増えはじめた社会人野球・クラブチーム。中国・四国・九州地区は元々のクラブチームの活動が薄かったことから、当初は主要大会予選以外は各チーム主催による交流試合が活動の軸でしたが、連盟主導でクラブチームの試合機会を増やす取り組みはなされました。

 徳山大会は2005年あたりからクラブチームが主体の大会になり、2006年には設置された西日本クラブカップ大会に出場。四国地区で新設された子規記念杯にも度々招待されます。そして各チームのアンケートなども経て、2010年には中国・四国地区のクラブリーグ大会が設置。鳥取キタロウズは最初の大会、予選リーグを6勝1分3敗の成績。その後11月に行われた九州リーグ戦上位チームと争った「西日本クラブリーグチャンピオン決定戦」では大分のBAN─CLUB、リーグ戦では敗退を期していた倉敷ピーチジャックスに勝ち、チャンピオンの座に着きます。

 その後クラブリーグは参加全チームのリーグ戦からいくつかのブロックに分かれて行われ、鳥取キタロウズは2011年大会で予選リーグ2位に入り決勝トーナメントに進出しましたが、その後は思うような成績を残せない状態に。子規記念杯や滋賀で行われるびわこ大会にも出場しますが、苦杯を喫することも多くなります。

 活動10年目となった2015年。シーズン前には選手の陣容が書かれた新聞記事も載り、代表も意気込みを見せていましたが、公式戦1勝5敗という成績に終わると、2016年日本野球連盟ホームページに活動休止が報告されます。この時期の新聞をのぞいてみましたが、活動休止になった要因などを掴むことができず、2024年2月時点で活動休止継続中で、動きは全く見えない状態です。

7⃣ 起意した人の奮戦は見えて─「鳥取野球日本一」の場面を直接見た人間として まとめに代えて。

 この通り、鳥取県の社会人野球は長期活動3チームがそれぞれに残した足跡が全て、という感じで進行してきました。戦前に都市対抗本大会に進出した経験はありますが、その他は苦戦という言葉が頭に浮かぶ状況に。お隣の島根ではクラブチームが盛況となった時代もありましたが、鳥取では残念ながらそこに至らず。2005年にキタロウズが創設した当初は毎日新聞や地元マスコミでもその動向が華々しく報じられもしましたが、それを長く継続させる状況には至らず、2025年時点では休眠状態が続いています。

 他県の部分では「一度火をつけることができたのだから再び火を灯すこともできるはず」という言い方もしましたが、「厳しい現実」叩きつけられた中で、熱意を焚きつけるには「準備しなければならないもの…別な言い方すれば“宿題”」は多そうです。

 それでも鳥取県野球が「全国制覇」を成し遂げたことも。2011年、岩手で行われた全日本軟式野球大会(天皇賜杯)で三洋電機鳥取が優勝した様子をこの目で見ることができました(データクラッシュで写真が残っていませんでした)。このあとに軟式社会人野球の様子を記しますが、鳥取県でも「野球に情熱の燃やす光景」は続いています。少し前には「鳥取県の野球活性化には社会人野球の存在が必要だ」と言う趣旨の記事もありました。

 「鳥取県でも“火”をつけた人はいる」から再起の一助になれば幸いと勝手に考えて、この一文を書き残しておきます。

▽参考にした新聞、図書:毎日新聞(前身の東京日日、大阪毎日含む)全国版、大阪本社鳥取版、西部本社島根版、西部本社広島版、西部本社山口版、大阪本社岡山版。日本海新聞、山陰中央新聞(前身の山陰新聞と松陽新聞→山陰新報→島根新聞)、山陽新聞中国新聞日本社会人野球協会

▽参考にしたかった資料:中国地区社会人野球協会20年史 どの図書館にもありませんでした。

▽お世話になった図書館:北上市中央図書館、岩手県立図書館、盛岡市上田公民館、福島県立図書館、鳥取県立図書館岡山県立図書館、国会図書館



8️⃣《追加》「三洋電機」三度の日本一─鳥取県軟式野球の模様。

 島根県版で「野球の裾野を見る」意味合いで全日本軟式大会の本大会戦績を載せましたが、鳥取県版でもそれに倣って本大会戦績を載せることにします。無理して入れた感じするのはどうかご容赦ください。

 硬式野球で存在感を見せた米子鉄道は、軟式野球でも活躍を見せ、1960年代までに米子鉄道が4回、関連と言える後藤工場が2回本大会に出場。その他は米子市役所が多く目立ちますが基本群雄割拠的に本大会出場権を奪い合う状況となります。その中で1972年大会に初出場した鳥取三洋電機がその後鳥取県軟式野球で大きな力を発揮します。

 1970年代は石田紙器や各地クラブチームの先行も許しますが、1984年本大会で準決勝に進出すると、1986年福島県で行われた大会ではほぼ毎試合1点差の激しい鍔迫り合い6試合を勝ち抜いて鳥取県勢初の優勝を成し遂げました。以降は三洋電機鳥取が多く、時折石田紙器が本大会に出場。変わり種的なパターンとして「島根県の企業」と認識していた山陰合同銀行鳥取支店が1993年に本大会に出場。ちなみに島根県では山陰合金が出場と、同一企業が2つの県の代表になるという出来事もありました。

 1997年からは三洋電機の独壇場。鳥取県で本大会が行われた2005年に準決勝に進出すると、2011年東日本大震災の災禍を乗り越えて岩手県で行われた本大会では6試合を勝ち抜いて優勝。会社の機構変更でパナソニック鳥取と名前を変えた2012年本大会も再び勝ち抜き2連覇を達成も、ここでパナソニック鳥取野球部は廃部。「その意思を継ぐチームを」と結成された鳥取ベースボールクラブもほどなく活動を終了しました。

 2016年。この年の鳥取県予選を制したのはJR西日本米子。米子鉄道として1956年に出場してから50年の時を経て、久しぶりに「米子の鉄道野球チーム」が全国の舞台に立ちます。このチームは本大会で東京・青梅信用金庫に勝ち、これまた50年ぶりの勝ち星(50年前は米子鉄道3対0専売仙台)に勝利をあげることとなります。

 近年はコロナ感染の影響で2021年大会で南部体協が出場辞退する憂き目にも合いました。ここを10年間では4回本大会に出場している養和会(2013年創部 医療法人)を中心に「鳥取野球の力を見せる」取り組みがなされています。MJG島根のように乗り込むチームは現れるのでしょうか。いずれ「野球熱を灯し続けた先」に活路が見いだされることを望みます。

▽参考にした新聞、図書:全日本軟式野球連盟70年史

▽お世話になった図書館:北上市中央図書館、岩手県立図書館

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