この記事は、Facebook、Instagram、ThreadsのMeta3種に記載していた記事をひとつにまとめた記事です。
① 1995年 佐藤組北上球友時代
1️⃣ 社会人野球で正式のユニフォームをもらった機会は今回と30年前・1995年の佐藤組北上球友─いまの北上REDS─時代のみ。
ここでは2つの写真を載せています。1つは1995年6月4日毎日新聞岩手版からの引用、もう一つは当時の佐藤組北上球友のユニフォームのデジタルイラスト図です(←あれでデジタル言える神経どーにかしろ)。


2️⃣ 昔、都市対抗野球岩手県本予選では参加十数チームによる開会式が行われていました。企業チームは全員が出てきますが、クラブチームは自分の試合に仕事出欠の標準を合わせているので10人程度になることも。基本的に9人は来てくださいねとは言われますがならないこともあります。
この時の佐藤組北上球友も開会式から参加したメンバーは約10人。監督もキャプテンも副キャプテンも来ない状態でプラカードを誰を持つかで協議した結果、「ベン、お前行け」となって、先頭で歩くことに。ぎこちなかったのか笑い声も聞こえていたのは幻聴と思うことにします笑。そして岩手銀行野球部キャプテンが選手先制をした後ろに私が写っているという状況になりました。
※どのような加工しても失礼になると認識しそのまま掲出します。
3️⃣ この時は思わなかったですね。
この後30年にわたって岩手県の社会人野球に関わることになるとは。その後に母にユニフォーム姿の写真を撮ってもらいもしましたが、残念ながら現像する段階に母が感光させてしまったので幻の1枚となってしまったのは残念でした。
② 2025年 赤崎野球クラブ
ついに選手と同じユニフォームで闘います。
1️⃣ 私は赤崎野球クラブに帯同していますが、正確な選手登録の概念で言えば「登録外メンバー」。ただ、実体として赤崎野球クの活動に帯同していることで、チームメンバーの厚意で「赤崎野球クの一員」として扱っていただいています。
2000年代前半までは練習の補助もできていましたが、2005年冬に自律神経と足の雑菌治療の失敗(雑菌駆除するはずが体の抵抗力の方を損ねてしまう)で野球をする力を失い、練習補助能力を損ねてからは試合時の応援活動に力を注ぐようになりました。
2️⃣ こういう経歴を持ちますが、実は当初(1998年)「選手としての入部希望」でした。しかし、当時の赤崎野球クラブは「入部するひとを選ぶ」タイプのチームで、入りたいと言えば入れるチームではありませんでした。まして野球選手としての能力が皆無の私が入るなどというのは無謀。
それでも、大船渡野球人のオールスターと一緒に活動したい、という思いで「事実上の押しかけ入部」。そしてオールスターチームの中に入って活動するなら、と立ち振舞いをしつけられました。この指導がなければ30年もの間赤崎野球クで活動することはできませんでした。
3️⃣ 2012年、東日本大震災から活動復帰を果たした赤崎野球ク。私の応援活動も再開し、同時にチームのユニフォームにデザインを似せたオリジナルTシャツを作りましたが、十数年の月日はシャツにダメージを与え、制作した4着中3着がデザインが剥げてしまいました。同時に1999年からの現行デザインユニフォームも製造体制の変更もありデザインをマイナーチェンジした上でプリントユニフォームに。この行程の中で、私の分のユニフォームも作られました。
4️⃣ 思えば27年。長い長い道のりでした。この記事では凝縮して書きましたが、この歳になって選手と同デザインを着ることができるとは…。
と、感慨もおぼえましたが、既にシーズンは始まっています。故郷・大船渡を本拠にする赤崎野球クラブの“一員”として、一所懸命頑張ります。