0️⃣ 文頭に─2025年初頭時点の山形社会人野球をながめながら。
2022年、きらやか銀行野球部が無期限休部を決めました。2016年、2017年、そして2019年と本大会進出を決めた野球部でしたが、経営状態の悪化から決断。ただ、山形県のトップを走ってきたチームの活動休止を「このままにしておけない 灯をともし続ける」と有志が2023年、山形市を本拠地とするB-net/YAMAGATAを設立。山形の野球の熱意を社会人野球部分でも発揮しようと集まった人たちが集い、積極的な活動を展開。長年鶴岡の野球の歴史を紡いできた鶴岡野球クラブ、現チームで40年の歴史を刻み二度の全国進出を果たしている新庄球友ク、2023年から活動を始めた上り調子の片山商会BCと4チームが活動しています。
山形県社会人野球は1971年に一度全チームが活動を休止し3年間の空白期間を生じました。そこまでにどういう活動をしてきたのか、書き留めることとします。
1️⃣ 「5大都市大会」の裏で参戦し始めた都市対抗野球。
野球が日本に伝えられて30年、社会人年代の野球大会が都市対抗野球という形にまとめられて始まったのが1927年。山形県のチームが都市対抗野球に参加し始めたのは1932年です。
当時は山形市予選が行われた後、山形市代表と他の都市の代表チームが集って山形県一次予選が行われるという形が取られていました。この都市対抗の予選が行われる6月周辺には山形、鶴岡、酒田、新庄、米沢の主要地域対抗野球大会が開催。地元紙の山形新聞は都市部分の予選試合から大きく取り扱う規模の大会でした。
それでも新たに始まった「大人の甲子園大会」に選手たちは目を向け始めます。当初は予選結果を元に「山形倶楽部」を編成した山形市代表チームが優位に立ちますが、1936年には米沢市代表の米沢吾妻が初優勝。2025年時点で96回の歴史を数える都市対抗の中で、米沢市代表が唯一県代表をつかんだ大会に。その後も戦争の影響も濃くなっていた社会の中で、実業団・公社チームの山形専売が3連覇したりもしましたが、戦前は東北のライバルを超えるには至りませんでした。
2️⃣ 戦後の復興─飛び出す山形ハッピーミシン
大日本帝国が行った戦争は1945年8月15日に終了。それまでの鬱屈した社会から解放された市民はそれぞれの生活に戻り、心置きなく野球にも目を向けるようになります。
社会人野球は1946年に本格再開。6月に行われた山形市の大会を元に結成された全山形と、米沢吾妻の2チーム参加で行われた県予選は全山形が勝ち東北に。二次予選では戦前東北最強の位置にいた仙台鉄道局に勝って東北予選初勝利をあげます。
その翌年からは山形市や米沢市、鶴岡市で自治体別予選を開催。勝ち上がった各市代表で県予選を行うという形が取られ、1947、48年は多くのチームが参加しにぎわいました。それでも戦後の復興はやさしくなく、1949年は鶴岡市、新庄市からの出場が絶えるなど困難な状況もありました。
県内で抜けた力を発揮し始めたのは山形ハッピーミシン。母体となる会社は原田製作所。社長・原田好太郎氏の強いリーダーシップのもと野球部の強化も図られます。1946年の福島民報東北実業野球大会で山形彗星として出場して以来、時折山形専売局や帝国石油酒田に先行される場面もありましたが、東北地区各種大会や遠征に積極的に出かけ、力をつけていきました。
1950年、山形勢、ついに都市対抗野球本大会に!
それが結果として現れたのが1950年。東京の野球人脈を元に腕自慢の選手が入社。ジャイアンツに在籍していた今泉勝義内野手や南海ホークスにいた富村幸夫投手といったプロ経験者も加わったハッピーミシンは、5月に行われた東北・北海道選抜大会で優勝。7月1日に行われた山形県予選では2試合43得点の攻撃力を見せ優勝すると、二次予選では秋田鉄道局、常磐炭鉱に打ち勝ち、決勝戦の福島日東紡戦では二、八回に集中得点をあげて7対2で勝ち、山形県勢東北初優勝を成し遂げました。本大会では北関東・栃木県の古沢建設に五、六回の7失点が響き2対8で敗れましたが、貴重な一石を刻みました。
時の移ろいと共に終わる一時代。
戦後直後、数多く参加していたチームも、日本社会人野球協会発足時に導入された通年登録制度は参加のハードルを上げる側面もあり山形予選参加チームが減少。その中でも山形ハッピーミシンは東北上位レベルで奮闘し、1951年こそ初戦で前年代表決定戦で戦った日東紡にリベンジを食らいますが、翌1952年都市対抗では常磐岩城─常磐炭鉱の二軍的チーム─、福島日東紡を破り代表決定戦に進出しましたが、常磐炭鉱に1対5で破れ、2度目の本大会はならず、その後原田製作所の経営環境が変わったことをきっかけに野球部の廃部が決定。目立った活躍を見せたのは戦後の約7年間でしたが、原田好太郎氏のキャラクターと並んで強い印象を残したチームでありました。
3️⃣ 山形クラブ、両羽銀行、帝石酒田、酒田鉄興所…群雄割拠の時代。
※この項は以前にB-net/YAMAGATAと山形クラブを絡めた記事を書いていたので、その部分を再録再編集する形で掲載します
戦後一時代を築いた山形ハッピーミシンが1953年春までに解散。この年の都市対抗野球県予選は帝石酒田と鶴岡クラブで争い、鶴岡クが優勝しますが、東北予選が雨天で1週間延期した結果、全日本軟式野球本大会とバッティング。本大会が山形県開催ということもあり、同大会出場メンバーもいる鶴岡のの編成難を生じ棄権しました。
予選参加2チームに…ということで危機感も生まれたのでしょうか、県都山形市を代表するチームを、ということで1954年に結成されたのが山形クラブ。同年予選では鶴岡、帝石酒田両チームに大勝し東北予選進出。
1955年には同じ山形市内にある両羽銀行が硬式野球に参戦。山形ク選手のうち両羽銀行勤務の選手がチームを離れましたが実力を維持。帝石酒田に延長14回の戦いを勝ち抜くと、両羽銀行との決勝戦では攻撃力の差を見せ圧倒し2年連続県予選優勝。
山形ク充実の三年目/酒田鉄興所の猛追も…
当時のクラブチームは現在以上に選手の異動サイクルは早く、チームの編成には苦労していた様子も見えていますが、それでも1956年の山形クラブは積極的に動き、ベーブルース杯東北予選、3県交歓野球大会と春先から実戦を重ね、都市対抗野球県予選では鶴岡、両羽銀行を破り県3連覇を果たすと、東北予選では秋田鉄道局に5対4で勝ち、過去2年苦戦を強いられた富士鉄釜石にも大内投手の緩急つけた投球で肉薄しました。秋に行われた東北選抜都市対抗でも奮闘を見せ、電電東北に7対6で打ち勝つと、準決勝では盛岡鉄道局に0対1と接戦を演じるなど、充実した1年となりました。
1957年は軟式で全国ベスト8を経験し、この年から硬式に本格参入した酒田鉄興所が山形クラブの4連覇を阻止。翌1958年も酒田鉄興所が2連覇し、存在感を見せますが、転勤などで選手を揃えられず1959年シーズンは欠場せることに。同じ酒田市を本拠にしていた帝国石油も野球部活動を秋田に移管し、この年は鶴岡クラブ、新庄球友、山形クラブ3チームで覇を競いましたが選手個々人の経験で上回り3年ぶりの東北予選進出を勝ち取ります(清峰伸銅に敗退)。
1960年。鶴岡、新庄両チームに、1年休んだ酒田が復活。山形クラブもエントリーしましたが、選手の異動が相次ぎ、創立初年度は24人を数えた登録選手もこの年は16人に。都市対抗予選では鶴岡に8対7で逆転サヨナラ勝ちを収めますが、補強を実行した酒田鉄興所の前に3対10で敗退。勝った酒田鉄興所も常磐炭鉱に敗れ、この間屋台骨を背負った両チームはこの年で公式戦の参戦を終えました。
4️⃣ 山形相互銀行本格参戦も、一度途絶えてしまった山形社会人野球
数年間山形県社会人野球を賑わせたチームが姿を消す一方で、1952年に日本社会人野球協会に加盟していた山形相互銀行がこの年から本格的に参戦。1960年代前半は相互銀行、新庄球友、鶴岡クラブの3チームで山形社会人野球の覇を競いますが、相互銀行が1本抜ける形に位置しましたが、東北レベルの戦いでは各県上位チームに跳ね返されてきました。
1965年に山形相互銀行が業務上の都合により硬式社会人の戦いから身を引きます。この年と1966年は、1957年に結成された新庄球友が山形社会人野球の屋台骨を背負い、東北レベルの戦いに挑みました。
1967年。都市対抗野球の二次予選が山形県で行われることとなります。硬式での活動を休止していた相互銀行が復活。新たに山形殖産銀行が参加し、この2チームが二次予選から直接参加。相互銀行はオール常磐に惜敗しますが、殖産銀行は福島クラブに勝ち本大会代表決定戦に進出。電電東北に0対6で敗れましたが山形の野球ファンを沸かせました。
熱意続かず、無念の“空白”。
ところがこの野球熱が継続せず、殖産銀行は2年で活動終了。1969年に今間製作所が参戦し、一度は東北大会を戦いますが経営悪化で野球部を廃部せざるを得なくなりました。この間に新庄球友も活動の足を止めており、1971年は一次予選開催予定でしたが参加チームが相互銀行のみ。そのままストレートに臨んだ東北予選で新日鉄釜石に大敗すると、この年限りで再び休部。山形県の社会人野球活動チームが0となってしまいました。
5️⃣ 灯を取り戻して─刻んだ“第二期”の足跡。
しばらく前、新庄市中央図書館で1972年から74年の毎日新聞山形版を見てきましたが、社会人野球に関する記録は見つけられませんでした。1974年に準硬式・軟式で参加していた鶴岡ヤンガースが連盟に加わりしましたが県内への活動チームがなく、加盟即休止状態に。1975年に山形相互銀行が復活、鶴商クラブ、日大山形OBが加わり、鶴岡ヤンガースも活動開始し4チームで山形県の社会人野球を復活します。
その後は鶴岡市の2チームが合併して新生鶴岡クラブ結成。1979年には相互銀行投手の青木重市投手が阪神タイガースに入団。1980年代半ばには新庄球友クや三川クラブ、東海大山形ク、米沢中央クと新チームが加わり、90年代に加入した新庄市のニューイーストも含め、山形県社会人野球は一時8チームを数えるまでに伸長します。
その後、2000年あたりから活動休止チームが出るように。天童エンジェルズが活動を始めますが、米沢、三川→酒田のチームが活動を止めました。
山形相互銀行もしあわせ銀行→きらやか銀行と変わり、一時はクラブチームとして命脈を保っていた時代も。その苦しい時期を乗り越えて2016年に都市対抗野球本大会出場、本大会ではパナソニックに勝って山形県勢初勝利を上げるに至りました。
こうして辿ってきた90数年の都市対抗の挑戦。この項で詳細に書ききれたのは1930年代から1971年の約40年分に過ぎません。1975年の復活以降の記述がまだできていないので、いつか完全版として書ききればと考えております。