MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

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1年遅れですみません─13回目の3・11 大船渡行き雑感。

【この記事掲出にあたって】

 本来、この記事は2024年3月中に掲出すべき記事でした。その当時にタイミングが合わず、ずるずる引き伸ばすうちにあっという間に1年が経過。今年(2025年)は大船渡山林火災もあり故郷に寄ることができなくなっていたので、該当記事を1年遅れで掲示します。


 (2024年)3月11日朝。

 私は大船渡に行ってきました。実のところ、仕事はかなり詰まっていて無理な行動を回避する選択肢もありましたが、どうしてもこの日は大船渡にいたかった。そんなもので、仕事に影響ない時間帯-早朝に大船渡に向かうこととなったわけです。

今回は滞在時間も短いので大船渡市・みなと公園に行ってきました。

(動画と同じ)着いて早々に朝7時のチャイム。「エーデルワイス」のお出迎えです。旧大船渡市部分は朝7時・昼12時・夕方5時に時報代わりの音楽が。この音楽を聴くと大船渡に来たんだという実感が湧きます。ここはYouTubeリンクを貼っておきますのでよかったら3分ばかりお付き合いください。

youtu.be

 このみなと公園の防潮堤では前日10日に様々なイベントが行われた箇所ですが、まだ早朝とあって時折ランニングしている人が見かけるだけ。当写真ではビニールシートに覆われた説明板がありましたが、開帳された姿は各マスコミで報じられています。

 また、写真の奥の方には4万トン級の岸壁が。1990年あたり、大船渡中学校駅伝部はこの岸壁を使って練習をしてました。何で知ってるか?私も一応は駅伝部マネージャーでして。特に500m走は選手はきつかったと思いますよ。今は保安状況もあり閉鎖されています。

 こちらの方は5000トン級岸壁。1986年あたりに先に紹介した4万トン級岸壁ができるまではこちらが大船渡港の主力岸壁。8月の花火大会は茶屋前側-写真右側-の岸壁から花火が打ち上げられて、左側の方にぎゅーぎゅーに人が集まって見ていた…というのも思い出の一つです。

 いま内陸にいるから当然ですが、海をあまり感じない生活をしています。岸に近づくと潮の匂いがしましたね。意外と海の近くにはよることがなかったもので懐かしさ感じました。近くでは鳥が楽しそうに泳いでいましたが、自分が岸に近づくと一気にバタバタと飛び立ち逃走。とって食わねえよ。

 写真では裏からの撮影にしています。公園内に震災でかなくなられてた方の芳名板が掲示されていました。誰が備えたか分かりませんがお花が1輪。私は花は持っていなかったので、ただただ頭を下げてきました。

 岸壁のところに立ち入り禁止の柵が。やっぱり登って歩こうと考える子どもとか子どもだった人とかいるんでしょう。私は水沢競馬場での苦い思い出(小学校入学前、ジャングルジムに登ったが降りれなくなり地元小学生に助けてもらった)が頭をよぎりました。

 公園にはいろんな遊具がありますが、このマルとバツが並べられた道具というのは他に見たことがありません。ただまあこれを使えば何回でも“マルバツ”ができそうな遊び道具ですね。左側に「第3勢力として真っ黄色というのを用意した」1枚を用意しましたが、こんなことを考えるバカは近くの海に放り込めば治るのでしょうか呆

 このアングルがかつての須崎通りを表す1枚。震災以降、海に近い須崎や浜地区などいくつかの自治会が解散となってしまい、思い返すのも難しくなっています。

 加茂神社。今はバリアフリー対応の通路もできたようで時代の流れを感じます。

 加茂神社内にある「津波警報塔」です。チリ地震が起きた直後に作られた警報塔ですが、私にとってはどうも遊び場という記憶しかありません。

 加茂神社ではこの日大震災の慰霊祭が行われたようですが、今朝訪れたときは準備段階。多くの人がより集まって追悼と「今後犠牲者を出さない努力」を誓う場になればと思ってます。

 大船渡町明神前。左側の市営住宅(別名ブロック住宅)の一番奥が私の住んでいた場所です。

 丸進石油店のらくらくセルフ大船渡西SS。ENEOSの看板のところに「津波浸水高」が表示されています。

 BRT大船渡線・大船渡魚市場前駅。正直ここが駅になるとは夢にも思っていませんでした。近くには三重商会松井貞明氏による「これより高い処へ逃げよ」の津波碑が立てられています。

 大船渡保育園やや北側の道路から大船渡商工会議所跡を望む。津波の強烈さを示す動画としてさいとう製菓周辺の様子を撮った動画がありますが、この場所あたりから撮られたものと思われます。光景変わりましたよ。

 たった2時間でしたがいろんなものを見、昔大船渡で生きてきた様子を思い返したり、様々な思いを抱いたりしてきました。

 それぞれの地にはそれぞれの地に住む人たちの思いなり日常がありますが、その思い・日常をひとなぎに壊してしまうのが自然災害の恐ろしさ。それは今年(2024年)1月1日に起こった能登北陸地震でも突きつけられました。

 ただ、そういうゆるくないことが起きたとしても、それを乗り越えようとする行動はなされてきた。拙稿では2013年以降の「自己責任」至上主義、権力者の専横が幅を利かしてきた形での“復興”には疑問を持っていますが、それでも社会とのつながりで一つの形を作ることもできていると思います。

 人間社会が「これまでの失敗を乗り越えて発展させてきた」ことは震災復興の方面でも。「どうにもならない」~「公的支援は入るが個人の財産は助けない」を越えて「個人の被害にも公的保証が及ぶようになった」という歴史があります。そして、それを進めたのは市井からの運動です。

 この部分でも逆流は起きていますが、ゆるくない状態を救っていくのが政治のはずだから、もっと発展させていく。震災・津波に遭遇しても、それ以降の二次的被害を出させないことこそが私の「震災・津波の敵討ち」と思って、これからも歩き続けていきます。


(2025年3月11日・記)ただの1年遅れの記述になるかと思いきや、大船渡山林火災という事態が起きて色々感情引き裂かれたまま「3・11」を迎えました。ここ数年は3月11日に気仙地区を歩いていましたが、今年はそれどころじゃないだろうなと思い、現居住地での所用も重なり、中止を決めました。条件許せば─多分4月第二週になりそう─大船渡の様子を記せれば、と思っています。「3・11」の各種記述におつきあいいただきありがとうございます。

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