MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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エフコムあと一歩届かず、優勝は箕島-クラブ野球選手権3日の結果/社会人野球「大社クラブ」の歴史・後編【社会人野球2024】

 社会人野球・クラブ野球選手権は3日、準決勝と決勝戦が行われ、マツゲン箕島が優勝を勝ち取りました。東北勢で前年優勝のショウワコーポレーションを破ったエフコムはあと一歩及ばず準優勝という結果となりました。一球速報ホームページ(https://baseball.omyutech.com/CupHomePageTournament.action?cupId=20240008372)を元に感想を記していきます。

▽準決勝 エフコムBC 3―2 ショウワコーポレーション

 エフコムが序盤の先制攻撃で試合を掌握、ショウワコーポレーションの猛追をかわし決勝戦へと進出した。エフコムは初回に本塁打で先制、二回にも追加点。ショウワコーポレーションは三回以降エフコムの反撃を封じ込め、四回に2点を返したが、その後の追撃が効かず惜しくも破れ去った。

▽準決勝 マツゲン箕島 6―0 大和高田ク

 近畿地区有力チーム同士の対決は五回に一気呵成の攻撃を見せた箕島がディフェンスでも大和高田打線を封じ込め決勝進出を勝ち取った。何と言っても五回の1アウトからの3適時打が効いた格好に。大和高田は9安打を放ったものの得点に結びつくことができなかったのが惜しまれた。

▽決勝戦 マツゲン箕島 9―1 エフコムBC

 エフコムとして初の優勝を目指しダブルヘッダーを戦ったが、マツゲン箕島は二回から猛攻撃を始め三、四回はそれぞれ3得点をあげる。エフコムは五回に内野ゴロで1点を返したが、七回に箕島が2点をあげコールド圏内に持ち込むと、その裏の攻撃を抑え箕島が優勝を勝ち取った。

 まずは箕島の優勝に関してですが、優勝直後の毎日新聞には『選手の役割を明確化した』という新聞記事がありました。9連覇を達成した当時のジャイアンツもそんな感じで攻撃陣を組み立てていた印象がありましたが、元々地力も環境も存じている箕島がここ数年難儀していただけに、「有力チームといえども『水面の下では激しく水をかいている』」のを実感させられる見事な優勝でした。進出する日本選手権での奮闘を願います。

 準優勝のエフコムBCは福島県勢として1992年の郡山以来(東北勢としても2001年水沢駒形以来)の決勝戦進出を果たしましたが、残念ながら準優勝となりました。エフコムの強さというのは今年6月の都市対抗野球東北予選でも目の当たりにしていました。この時は集中攻撃を見せた駒形が試合に勝ちましたが、それでも「戦いようによってはエフコムも上に行く力は持っている」と見ていました。

 攻撃陣の強化に相当な力を入れていたという新聞記事も見ました。引き続き東北の強いライバルでい続けるこのチームを目標に東北の激しい争いが繰り広げられるでしょう。それに加われるように頑張りたいです。

 準決勝敗退はショウワと大和高田の2チームも「上に行く力」はありましたが、やはり勝負の流れというか瞬時の力量発揮で相手チームに上回れたというところでしょうか。また再挑戦を期待するものです。

 含めてこの大会に参加した16チームは台風10号の影響に悩まされながらの参加だったと思います。その中の運営も含めて模索をしながら最後まで走りきった、そのことにお疲れ様でしたと申し上げるものです。



 引き続いて、昨日の続きとなる記事です。

【特集】大社野球、ひとつの足跡

 -社会人野球・大社クラブのあゆみ 後編

▽60~65年の大社クラブ・島根県社会人野球。

 前編では1959年までの奮闘を記しました。

 島根県の社会人野球は1960年以降活動チームが縮小していきますが、その中でも大社クラブは活動を続け、1964年には松江クラブ、山陰合同銀行との争いを制し4度目の中国地区予選に進出します。この時はすっかり全国レベルの強豪チームに成長した倉レ岡山に対し爪痕を刻むこともできず、打線は1安打、一時期大社高校監督になるなど高校野球の指導者になっていた小田川投手も活動継続していましたが攻略を受け0-10で敗退。

 この2年後に島根県全チームが活動終了。島根県社会人野球の活動が約30年途絶。1996年に島根商科専門学校→松江カレッジが参加。後にタレントにもなる山崎賢太投手が中日ドラゴンズに進出しましたが2002年に脱退。2010年には三原住設工業が音頭をとりMJG島根を結成。クラブ野球選手権二次予選決勝進出を二度経験するなど、山陰地方唯一の硬式社会人野球チームとして奮闘しています。

Wikipediaと違っている西倉実さんの歩み。

 「夏の夜の話」ではありませんが、記事の中で紹介した西倉実選手には「?」と思う記述があります。

 Wikipediaに記載されている西倉さんの経歴を見ると、なくなった日が1955年12月19日となっています。参考資料として紹介されている「プロ野球人名辞典(2003日大アソシエイツ)」によるものという注釈がありますが…それでは少なくとも1956年から58年にかけて活躍していた「西倉実」選手は一体何だったのでしょうか。同姓同名の別人というわけでもなさそうですし、どこかで行き違いがあったものと思われます。

 ご兄弟に主に西鉄ライオンズなどでご活躍された野手の伊藤光四郎さんがいますが、その伊藤さんも数年前になくなられた以上、どうなっているのかを知る術はないのでしょう。

 私としては毎日新聞島根版に載っていた事実を記すのみとします。

※追記:ウェブ検索をしていたら「近畿いなさ会」という大社高校出身者親睦会ホームページを見つけました。この中には野球部の活動も詳細に記載されており、1962年(昭和37)7月15日に「西倉実(ほか2氏)先輩の追悼野球大会」が開催されていたことも記述されていました。1959年以降この時期までにおなくなりになられたものと見られます。

▽あとがき

 島根県の社会人野球に関する記述を進めるのを去年の冬から目指していましたが、なかなかその実現に至らずズルズルと時間を過ごしてきました。今年の冬にはしっかりとした本格的な記述を進めようと思っていて、資料は整頓が終わったところです。今回は基本的な図表を示していますのでこちらをご参考にしていただきながら、拙稿の記述お待ちいただければと思います。

 おつきあいいただきありがとうございました。

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