写真が強引なのはご勘弁ください。
今日は。いまは落ち着きまして、今年はできなかった応援合戦の音楽を聴いています。11年、去年に続いて東北予選見に行けず、JABAHP(www.jaba.or.jp)情報をもとに生意気つらつら書いてきましたがいかがでしたでしょう。では雑感二つ書いていきます。
【製作日誌】
最初に。去年は都市対抗野球二次予選の最中に精神的なダメージを食らい、記述の一切を止めました。前日に宮崎梅田学園の都市対抗本大会出場を記し、東北予選もこっからだ、というときに私の存在の根幹を為す部分で…引っ掛かるものがあり、それを収めることができなかったことで記述をストップ。16年間のSNS制作で最悪の中断となりました。
1年と少し経ちまして、心身の調子を立て直して都市対抗野球の一、二次予選を迎えました。自分が壊れる要因が改善されたとは言えませんが、要因に負けて何もできなくなる方がもっと嫌なのでしぶとく食らいつきます。人生の終点にたどり着くまで目標は「完遂」です。
【青森代表不在の東北予選】
青森県は1939年に青森林友が本大会に出場しますが、直後に戦争で活動が途絶。戦後わき起こった野球熱は費用負担の軽い軟式で発揮され、官製チームは選手採用難、クラブは活動できる場がなく、孤塁を守っていた青森林友も継続困難となって65年6月に解散。
6年後の71年、誘致企業の三菱製紙八戸が八戸市水道局を誘い社会人野球に参戦。その後数年で自衛隊青森、きものセンター→全弘前倶、オール青森、八甲クラブ→青森BC、イヴ2(試合ではオール八戸)が参戦し、78年に水道局が日本選手権本大会出場、80年代は南郷村野球団の参戦、全弘前が強さを発揮しクラブ選県10連覇、90年代は、自衛隊青森が躍進し、00年代はブリザード、ブルースヨシフォレストの新挑戦、そしてここ数年は弘前アレッズの進出―
ざっと青森社会人野球の歴史を紹介してきましたが、こういう道程を重ねて活動してきた県が、今年は都市対抗東北のたたかいで足跡を残すことができなかった。三菱製紙八戸が東北クラブカップに参加しているとはいえ。コビット19もあったとはいえ…悔しいでしょう。正直、試合ができないような状況が続けば野球どころじゃなくなるわけで。
それでも私は信じたいのですよ。
野球仲間が災禍乗り越えて野球場に戻ってくることを。
TDKも日本製紙石巻負けても折れなかったからドーム行きに結んだし、リバースも様々な苦難越えたからこそ足跡残せた。福島硬友クだって富士通アイソテック、いわきに跳ね返されても諦めなかったから機会を得る場に居れた。
どうしても難しければやむ得ないにしても、続けていれば―26年続けても出場0が言うのも難ですが―社会人野球という場を、関わる人一人一人が活きる場であってほしい。それを改めて思い直した9日間でした。
【再び製作日誌】