2018年6月6日17時46分、岩手県営球場。
北見昂之の送球が羽田野恭平のミットに納まった瞬間、トヨタ自動車東日本の東北初優勝・東京ドーム進出が決定。それは同時に岩手県勢が東北王者を31年ぶりに取り戻したことも意味していた。今記事ではその間31年の岩手県勢の戦いについて触れていきます。
1)「東北の盟主」譲渡
かつて、東北の社会人野球は「岩手を制するものが東北も制する」という時期もありました。戦前からの古豪・新日鐵釜石に盛岡鉄道局。高度成長期に伸長した岩手銀行に谷村新興、岩手県経済連が県内で覇を競い、電電東北、ヨークベニマル、TDKなど県外ライバルの挑戦を超えていった、という時代。しかし経済、あるいは社会の動態を受けやすい社会人野球。その影響は岩手のチームに響くものとなっていました。
1987年に東北予選を制したのは新日鐵釜石。かつては東北で一番黒獅子旗(優勝旗)に近づいたチームで、1980年にも3位を経験。しかし、産業構造の変化から高炉閉鎖(事業縮小)が検討される事態に。87年の優勝はそんな中で達せられたものでした。
87年の本大会は一回戦で敗れた釜石は、88年シーズンを持ってその活動を休止します。その2年前には盛岡鉄道局も秋田、仙台チームと合わせてJR東日本東北になったことが理由で活動休止。岩手の社会人野球にとって痛手となりました。
残った岩手銀行と岩手県経済連、「岩手4強」を追いかけていた小野田セメント、全久慈が発展し結成された宮城建設が東北の強豪に挑んでいきましたが、NTT、ヨークベニマル、TDKに新鋭JTに跳ね返されることも多くなり、93年に岩手銀行が都市対抗野球第二代表決定戦に進出も力尽き、同年秋の日本選手権では岩手県経済連が本大会に進出しましたが、記録的大冷害の影響で活動休止。94年には岩手銀行と宮城建設が日本選手権代表決定戦に進みましたが、共に敗退を食うなど至難の時を歩み始めました。
《1987年》
新日鐵釜石 4勝0敗
(東北予選優勝・第1代表)
岩手銀行 1勝2敗
岩手県経済連0勝2敗
《1988年》
岩手銀行 2勝2敗
岩手県経済連 2勝2敗
新日鐵釜石 1勝2敗
釜石の足利豊、大溝一精、吉田幸也3選手がNTT東北、若槻弘之選手が日本たばこに補強。
《1989年》
岩手銀行 1勝2敗
小野田セメント1勝2敗
盛岡倶楽部 1勝2敗
岩手県経済連 0勝2敗
岩手銀行の鈴木治投手がヨークベニマルに補強。ただし、郭投手が全イニング登板で登板なし。
《1990年》
小野田セメント2勝2敗
岩手銀行 2勝2敗
岩銀・菊池淳内野手がNTT東北に補強。対日生でショートに守備がため出場。
《1991年》
岩手県経済連 0勝2敗
岩手銀行 2勝2敗
《1992年》
小野田セメント0勝2敗
岩手県経済連 1勝2敗
岩手経済連の熊谷亨内野手がJTに補強。対神戸製鋼で7番ショートで出場、3打数1安打。同年一関三星クラブ選手権優勝。
《1993年》
岩手銀行 5勝2敗
(第2代表決定戦進出)
岩手県経済連 2勝2敗
宮城建設 0勝2敗
《1994年》
岩手銀行 1勝2敗
宮城建設 0勝2敗
小野田セメント0勝2敗
2)活動を止めた強豪
1995年、大冷害を越えて戻ってきた岩手県経済連は「JAいわて」として復帰してきましたが、今度は岩手銀行がこの年での活動休止を決めます。私伊東はこの年から社会人野球に加わりましたが、岩銀野球部には「社会人野球のすごさと厳しさ」を教わりました。
この間、小野田セメントは業界再編から秩父小野田→太平洋セメントと名称を変えながら奮闘。アイワ岩手、水沢駒形倶もはじめて東北の舞台に立つなど新しい芽も見えましたが、90年代後半に見せ場をつくったのはJA。97年には第3代表決定準決勝まで進出。補強選手を送り出すなどこの時期の中で目立った健闘。
21世紀に入ろうかというときに二つ変化が。ひとつはかつての盛岡鉄道局が「JR盛岡」として復活したこと。もうひとつは宮城建設が本格的な強化をはじめたことです。北東北大学野球トップクラスの選手が相次いで門を叩き、03年には小山内大和、栗田雄介と後にNPBに関わる投手が入社するなど期待は大きく膨らみました。
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しかし、バブル期からの継続的な経済縮小は、岩手に限らず企業チームの撤退を招き、岩手では90年代前半に東京製綱が、00年周辺にはアイワ岩手、岩手東芝、東北住電装が活動休止に。
そして03年には太平洋セメントが50年の活動に終止符を打つと、躍進を見せていたはずの宮城建設も活動休止に。更に翌04年には踏ん張り続けていたJAいわてがとうとう活動休止に追い込まれ、かつて岩手社会人野球を支えた「4強文化」の系譜は途絶えてしまいました。
全国的に見ても縮小傾向は続き、都市対抗野球優勝チームがその年の内に廃部(01年・河合楽器)、東北でも99年にヨークベニマルが廃部、NTT東北がクラブ化、04年にJTが活動休止、他にもオールカメイ、日産サニー宮城、秋田銀行が活動休止に。プロ野球でさえ大阪近鉄バファローズの合併問題が起こるなど、混迷の渦に巻き込まれることになります。
《1995年》
秩父小野田 2勝2敗
岩手銀行 1勝2敗
JAいわて 1勝2敗
→JAいわて佐竹投手、JR東北に補強。
《1996年》
水沢駒形倶楽部1勝2敗
宮城建設 0勝2敗
アイワ岩手 0勝2敗
→水沢駒形、クラブ選手権準優勝
《1997年》
JAいわて 3勝3敗
(第3代表準決勝進出)
水沢駒形倶楽部1勝3敗
宮城建設 0勝2敗
→JR盛岡復活、JAいわて第3代表準決勝まで進出。水沢駒形が県予選優勝
《1998年》
秩父小野田 2勝2敗
宮城建設 1勝2敗
JAいわて 0勝2敗
→クラブ野球選手権本大会岩手県で開催。水沢駒形倶ベスト4
《1999年》
JAいわて 2勝3敗
宮城建設 2勝2敗
太平洋セメント1勝2敗
一関三星倶楽部0勝2敗
《2000年》
水沢駒形倶楽部1勝2敗
太平洋セメント0勝2敗
宮城建設 0勝2敗
《2001年》
太平洋セメント2勝2敗
オール不来方 2勝2敗
宮城建設 1勝2敗
→駒形、クラブ選手権準優勝、久慈クはベスト4
《2002年》
宮城建設 2勝2敗
太平洋セメント2勝2敗
JR盛岡 0勝2敗
《2003年》
太平洋セメント1勝2敗
宮城建設 0勝2敗