決勝戦終了後。
すっかり撤収が終わった岩手県営球場の周りを散歩していました。足がだるいので、散歩して乳酸なり血液押し出さないとまともに運転できないのが第一の理由ですが、もうひとつ。
決勝戦の結果に…。
去年の夏、母校扱いの大船渡東高校が準決勝に進出しましたが、結果は久慈高校に惜敗。それでも三年かけて強くなってきた姿に「よくやった」、と。久慈高校にはその分も頑張れ、と思いました。
で、決勝戦。
盛岡大附属の圧勝。
その後、得意の強打で甲子園を沸かした盛岡大附ではありましたが、何というか、巨大で威圧感のある門の前に立ったような、そんな印象を受けたものでした。
話を都市対抗に。こちらも我がチームが何とか接戦に持ち込み、準決勝ではJR盛岡に大勝した水沢駒形が、決勝ではトヨタ自動車東日本に1−13。月曜日になり、駒形さえ突き当たる選手集合の難儀さは分かっていましたが、それにしても、です。
見せつけられた現実の厳しさってやつですか。先に書いた船東−盛附のように、俺ら赤崎−トヨタ自東も、かと。目の前がぐーるぐーると回るものがありました。他の主題部分含めて、そーいうこと考えさせられることも多かったので、尚更。その日は悶々とした感情を処理しきれないまま帰宅し、床につきました。
2日3日悩みもしましたが、まあ、結論は「いつから万年補欠が勘違いして増長した考えを抱くようになったな。んなこと考えてるヒマあったら今置かれている状況の中仲間ともあがいてみろや!」でしたね。元々私が社会人野球に関わった頃は赤崎クの立ち位置は「クラブ部分でも中堅」。当時のクラブ4強は全国制覇もした一関三星(いま一関BBC)、新日鐵の選手もいた釜石野球団、今も昔も強い水沢駒形倶、強力な後援もあった強打久慈クラブ。野球どころ大船渡の腕自慢が集まっても各種大会の上位には食い込めないでいた。
90年代前半に加わり始めた選手と、それ以前から奮闘し続けた選手がミックスし始めてから、一つずつ壁を越えていった。
94年、当時あった都市対抗のクラブ予選(今年の第2ラウンドまでのような形態)突破。
90年代半ばには、一関大会参加チーム選出や、毎日旗秋季大会クラブ優勝など「ステッブアップ」を踏み、01年都市対抗県4位、03年に「11日10試合の死闘」を経て、都市対抗県優勝二回、クラブ選手権東北優勝3回、東日本クラブカップ優勝、という実績を得るチームになったわけです。
いまは大船渡から離れているので、現地での様子は合流した際に聞くしかありませんが、練習できる場が増えたこと、ここ数年得てきた上位大会で欲を刺激された選手が声を掛け合って練習に来ていることなどの様子が伝えられました。私自身はともかく、私の同年代も「後輩に野球をさせる側」に回りました。どこまでトヨタや駒形、JR、江刺を追いかけきれるかわかりませんが、意を持って加わってくれた社会人野球選手、特に赤崎クの選手には「納得いくまで頑張っていただいて、今後の人生を良ぐ生きていただく」ことを祈願します。
◇さて。昨年末に一人の選手が卒業しましたが、今年春までにかけて更に「近いところ」で3人、卒業・勇退者が出ました。
一人は小学校時代からの付き合いのある三拍子揃った好青年。
一人はチームの黄金期を支えた好外野手&クラッチヒッター。
一人は同じ年に社会人野球の活動をはじめたレジェンド左腕。
寂しくなりますなぁ。同年代みんな卒業していって。ただ、人生街道の方面で頑張っている様子も聞いています。ありがとなー。3人については後で記事書くよ。
◇いまだ現場にいる私は、1日から始まる都市対抗野球東北予選。その戦いぶりを見届けてきます。東北に出る気で休み申請しましたからね。とった休みは有効に使います(←バカだバカがここにいるぞ)。他に色々記したいこともありましたが記述時間が尽きました。長い期間の大会、入場料徴収などなれない形式も入りながらご協力頂いた各地野球連盟の皆様、関わり持たれたすべての皆様、勿論選手スタッフの皆様にお礼と感謝を申し上げ、項を終わります。