MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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鹿児島特別支援学校野球部員の「甲子園」予選参加―かつて養護学校運動部と「夏の大会レベルの意気込み」でソフトの試合をした経験から。

 ここからは鹿児島支援学校の“甲子園”予選参加から、私の経験などを踏まえてるる述べてまいります。

 今年も高校野球選手権の予選が始まっています。私の住んでいる岩手県も明日開幕です。数年前から人数不足理由でも連合チームが認められるようになりました。岩手でも大迫、前沢、雫石、沼宮内宮古水産の5チームで連合を組むパターンがありますが、鹿児島県では鹿児島修学館、加世田常潤、鹿児島第一に加えて鹿児島特別支援学校(以下拙稿では『鹿児島特支』)が連合チームの中に加わりました。
 障害者が通う学校の“甲子園”予選参加は、80年代半ばに“遥かなる甲子園”の作品のモデルになった沖縄の北城ろう学校がありましたし、岩手の社会人野球では90年代後半にろう学校出身の選手が登録されていた時もありますが、共に極めて稀な例でした。学校の変換など様々な要素があったのでしょうが、そこら辺はまだ書けるだけの勉強していません。ただ、私が経験した「養護学校(当時)運動部とのソフトボール試合」なら記すことはできます。

 私が高校3年の時、学校農業クラブの事業として気仙養護学校(当時)と交流をしていました。何間違えたか知りませんが、この年の農ク大農分会長は…私。ヘボ会長が周りに支えられながらこの交流事業に。私自身もかつては特殊学級に在籍し、そこでの市内の学校の交流もあったので何人かは顔見知りでした。
 晩秋の時期。スポーツの交流も図りたいと提案が。その打ち合わせに私と副会長とで養護学校を訪ねる機会が数度。ソフトでの交流が決まってからは運動部(これでひとつの部ということです)のメンバーとは高校野球の話をすることも多くなり、その中で熱を―特に農ク内で唯一の野球部在籍、つまり、高校野球経験者の私に「打倒伊東」の空気ができていました。中学までの同窓で養護学校に行ったのが3人いまして、その3人から私のことを聞いていたのでしょう。当時の養護学校がどういう競技をしていたかは存じませんが、少なくとも彼ら運動部、並びに運動部以外の生徒は全校応援を形成するなど、雰囲気は「夏の甲子園に挑む」が如し、です。
 大農農クは男女半々で、メンバーのうち半数は文化部。それでも養護学校運動部は夏の大会に挑む高校球児のような気迫を漲せてこの試合に挑んでいる以上、応えないわけにいきません。当初別な人を先発マウンドにあげる予定でしたが、私が先発に立つことに。生涯唯一の“4番投手伊東”です。

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⇒この交流試合の8ミリビデオで撮ったVTRを持っていたので、それを基にして写真化しています。写真左は大農先発伊東、右は気仙養護先発の柏崎君。こちらは「一番・投手」でした。
 先にも言いましたが、この当時養護学校がどういう形体で競技活動をしていたかは存じません。私にはっきりわかったのは「この試合が気仙養護学校運動部にとっての“甲子園予選大会”だ」と。「彼らの積み上げてきたものを発揮する場だ」ということだと。ビリビリと感じました。
 13人制で行われた7回制のソフトの試合は、以下のように。
気仙養護 2=0010010
大船渡農 3=0002001
(気仙)柏崎-高橋
(大農)伊東-清水
※気仙養護⇒今の気仙光陵支援学校、大船渡農⇒大船渡農学校農業クラブ
 私は投げて7回被安打7自責点0、打って3打席2安打2打点。しかし…幾度も彼らの意欲的なプレーに圧倒され、あわや柵越え(越えたら二塁打)も。この試合、本気でぶつかれた、ということが良かった。養護学校運動部が意欲出してたたかい、同窓がそれを励まし応援する。
 高校野球でよく見る光景じゃないですか。
 彼らにとっての「やって来たことを表現する場」。その相手になれた事が何よりでした。

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⇒写真左は7回表、レフト柵際に大飛球を飛ばした畠山君の打撃。この試合に気合の入っていた一人でした。写真右は7回裏に左中間エンタイトル二塁打を放つ伊東。
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⇒試合に出たのは運動部部員。しかし、その他の高等部生徒は工夫凝らしての応援を繰り出し、選手を励ましていました。写真は1回裏に伊東のライトライナーを位置取りよく掴み取った阿部君を迎える選手・応援団。
 それでも、一般的な高校(高体連)スポーツとは別の「特別支援学校体育連盟」(岩手の場合は一般の障がい者スポーツと一緒になって行われているようです)での活動が主。規定では加われるようになっていたとはいえ、実際に加われていたの鹿児島特支や沖縄の一人(中部農業の分教室に通っていた沖縄特支生徒が中部農野球部員として出場)などごく稀でした。9人には満たず連合チームの一員としての参加とはいえ、支援学校の生徒が“甲子園”かけた戦いの中に加わる。先に記述してきたような経験をした私にとって「ここまで来たか」、と感慨深いものがありました。
 社会人野球での経験から「学校部活動から地域スポーツへの昇華」を唱えるようになった私ですが、形態はどうであれ、10代後半の野球人、10代後半の若人が己の日常の中研いた“腕”を発揮する。その場が広く門戸を開けられるように、また充実したものになれるよう願いまして、項を終わります。
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