※前編はこちらからどうぞ。
5.試合終了後。
一列に並んで応援団に礼をする大農ナイン。
その姿に涙はなかった。
やる事はやった、という証明だろう。
大会前に私は拙稿で以下のように書いた。
「チームが勝つために、自分がこの日まで培った日々の成果を12分に出し切って、自分の存在価値をグラウンドで示してほしい」
と。試合に出場した選手達は、みんな“存在価値の証明”をグラウンドに残してくれた。試合時間にして2時間。スコアは2-6.しかし、中身が詰まったものとなった。
大農野球部最後のエース・最後のキャプテンとなった佐々木幸平君。
この日、118球を投げ抜き、自責点は1。
被安打は9、四球2、失策出塁6と17出塁を許したが、コールドには持って行かせなかった。バックも、エラーも出してしまったが、思いきりのいいプレーで失点を防ぐシーンも何度か見せてくれた。
勝つ事ができなかった以外は、ベストゲームを見せてくれた。
大農野球部最後のたたかいにふさわしい、ベストゲームを。
試合が終わっても、私は球場から動く事ができなかった。
大農野球部にかかわってから18年間の思いが、色々と頭の中を駆け巡っていた。
二試合連続5回コールド勝利・ベスト32に進んだ1990年。
私が入学した1991年はただ一人の三年生が奮闘を見せ1勝を果たした。
勝負強さはピカ一、第二シードに正面からぶつかった1992年。
そして、0-2で敗れ、忘れられない思い出を作った1993年。
この悔しさが、何とか「一勝を目指す後輩を助けよう」という思いにつながり、これ以降も関わる事になった。
分解寸前でこらえ、点差以上の接戦を見せてくれた1994年。
中盤に食らった集中攻勢の前に敗れ去った1995年。
有望な下級生の前に「3年生の意地」を見せた1996年。
この3年間、苦戦続きだったが、伊達に苦労していたわけではない事を見せ付けた。
1997年。9回4点差を追いつき、延長11回に勝ち越し一勝まであと少し…。だが、総力戦で選手達も疲弊しきってしまい、その裏に逆転され敗退…。
1998年も食らいついたものの、9回の6失点が響き敗れ去った。
大会ナンバーワン投手に16三振無安打に抑えられた1999年。
だがその年は、大会に参加できた事自体が成長の証だった。
2000年は全員残った3年生の奮闘も及ばず、惜敗。
2001年も中盤の大量失点が響き、勝つ事ができなかった。
いい試合をした年もあった。しかし、苦戦した年も、決して選手が緩んでいたわけではない。人間の成長という意味では、決してどの年も劣っていたわけではなかった。
2002年。この年から強くなり始めた大野の前にエラーから敗れ去り
2003年。資質としては優れていたメンバーだったが相手が一枚も二枚も上だった。
少子化が響き、段々と9人そろえる事すら大変な状況になっていった。
だけども、グラウンドにいる選手達は、それでもひるむ事は無かった。
どういう状況でも 夏の一勝に向けて、歩みは続けていた。
2004年。2人で支えたチームも7回までしかゲームをすることができず、
2005年。4人+2人で奮闘するものの、相手校の総力戦の前に屈した。
そして、去年。センバツ出場チーム相手に2点奪い、敗れ去った…
こういう積み重ねを経ての2007年。
記事に書いたとおりの“激闘”を見せてくれた。
夏の大会一勝とともに、人間としての成長を目指し続けてきた大農野球部。
夏の選手権大会の一勝こそならなかったが
一人間としての成長は勝ち取る事ができている。
高校の再編によって、大船渡農業高校は、今年限りで姿を消す。
当然、大農野球部も、今年限りで姿を消す。
激戦を証明したスコアボードが消えてしまったが、
これまで付き合ってきた後輩の頑張る意思は
死ぬまで消える事はないだろう。
試合後のミーティングが終わり、関わった先生方にお礼を言い(選手達とは…没交渉だから)帰宅の途についた。
野球場を離れる時に思った。
「これで、俺が青春の居場所を求めた“大農野球部”も…」
一抹の寂しさが、自分の涙腺を弱くした。
高校野球。高校生のスポーツ。
強い所や“タレント”を追いかける、というのも見方の一つかもしれない。
だが、あくまでもスポーツを通じた「人間の形成」の場というのが本来の姿。
1993年以来、ついぞ夏の選手権大会で勝つことはできなかったけども
「人間の成長の場」としては最高の場所であった大船渡農業高校野球部。
その場に関わったすべての野球部員、野球部関係者
そして、大農野球部を応援していただいたすべての方に
深く頭を下げお礼を申しあげます。
居場所を作ってくれてありがとう。
この18年間を忘れずに
私はこれからも生きていきます。
♪湛えて深き 盛湾
そびえて高き 五葉峰
山海景勝の 地を占めて
樹(た)てる 我らが 大船渡農
5.試合終了後。
一列に並んで応援団に礼をする大農ナイン。
その姿に涙はなかった。
やる事はやった、という証明だろう。
大会前に私は拙稿で以下のように書いた。
「チームが勝つために、自分がこの日まで培った日々の成果を12分に出し切って、自分の存在価値をグラウンドで示してほしい」
と。試合に出場した選手達は、みんな“存在価値の証明”をグラウンドに残してくれた。試合時間にして2時間。スコアは2-6.しかし、中身が詰まったものとなった。
大農野球部最後のエース・最後のキャプテンとなった佐々木幸平君。
この日、118球を投げ抜き、自責点は1。
被安打は9、四球2、失策出塁6と17出塁を許したが、コールドには持って行かせなかった。バックも、エラーも出してしまったが、思いきりのいいプレーで失点を防ぐシーンも何度か見せてくれた。
勝つ事ができなかった以外は、ベストゲームを見せてくれた。
大農野球部最後のたたかいにふさわしい、ベストゲームを。
試合が終わっても、私は球場から動く事ができなかった。
大農野球部にかかわってから18年間の思いが、色々と頭の中を駆け巡っていた。
二試合連続5回コールド勝利・ベスト32に進んだ1990年。
私が入学した1991年はただ一人の三年生が奮闘を見せ1勝を果たした。
勝負強さはピカ一、第二シードに正面からぶつかった1992年。
そして、0-2で敗れ、忘れられない思い出を作った1993年。
この悔しさが、何とか「一勝を目指す後輩を助けよう」という思いにつながり、これ以降も関わる事になった。
分解寸前でこらえ、点差以上の接戦を見せてくれた1994年。
中盤に食らった集中攻勢の前に敗れ去った1995年。
有望な下級生の前に「3年生の意地」を見せた1996年。
この3年間、苦戦続きだったが、伊達に苦労していたわけではない事を見せ付けた。
1997年。9回4点差を追いつき、延長11回に勝ち越し一勝まであと少し…。だが、総力戦で選手達も疲弊しきってしまい、その裏に逆転され敗退…。
1998年も食らいついたものの、9回の6失点が響き敗れ去った。
大会ナンバーワン投手に16三振無安打に抑えられた1999年。
だがその年は、大会に参加できた事自体が成長の証だった。
2000年は全員残った3年生の奮闘も及ばず、惜敗。
2001年も中盤の大量失点が響き、勝つ事ができなかった。
いい試合をした年もあった。しかし、苦戦した年も、決して選手が緩んでいたわけではない。人間の成長という意味では、決してどの年も劣っていたわけではなかった。
2002年。この年から強くなり始めた大野の前にエラーから敗れ去り
2003年。資質としては優れていたメンバーだったが相手が一枚も二枚も上だった。
少子化が響き、段々と9人そろえる事すら大変な状況になっていった。
だけども、グラウンドにいる選手達は、それでもひるむ事は無かった。
どういう状況でも 夏の一勝に向けて、歩みは続けていた。
2004年。2人で支えたチームも7回までしかゲームをすることができず、
2005年。4人+2人で奮闘するものの、相手校の総力戦の前に屈した。
そして、去年。センバツ出場チーム相手に2点奪い、敗れ去った…
こういう積み重ねを経ての2007年。
記事に書いたとおりの“激闘”を見せてくれた。
夏の大会一勝とともに、人間としての成長を目指し続けてきた大農野球部。
夏の選手権大会の一勝こそならなかったが
一人間としての成長は勝ち取る事ができている。
高校の再編によって、大船渡農業高校は、今年限りで姿を消す。
当然、大農野球部も、今年限りで姿を消す。
激戦を証明したスコアボードが消えてしまったが、
これまで付き合ってきた後輩の頑張る意思は
死ぬまで消える事はないだろう。
試合後のミーティングが終わり、関わった先生方にお礼を言い(選手達とは…没交渉だから)帰宅の途についた。
野球場を離れる時に思った。
「これで、俺が青春の居場所を求めた“大農野球部”も…」
一抹の寂しさが、自分の涙腺を弱くした。
高校野球。高校生のスポーツ。
強い所や“タレント”を追いかける、というのも見方の一つかもしれない。
だが、あくまでもスポーツを通じた「人間の形成」の場というのが本来の姿。
1993年以来、ついぞ夏の選手権大会で勝つことはできなかったけども
「人間の成長の場」としては最高の場所であった大船渡農業高校野球部。
その場に関わったすべての野球部員、野球部関係者
そして、大農野球部を応援していただいたすべての方に
深く頭を下げお礼を申しあげます。
居場所を作ってくれてありがとう。
この18年間を忘れずに
私はこれからも生きていきます。
♪湛えて深き 盛湾
そびえて高き 五葉峰
山海景勝の 地を占めて
樹(た)てる 我らが 大船渡農