MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

下記ランキング参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村
社会人野球ランキング

1994社会人野球−「社会人野球・赤崎クとの邂逅」。自分の頭になかった社会人野球と、強く意識しはじめたある1日。

 かねて予告していた通り、1994年から2004年までの社会人野球に関する覚え書きを記してまいります。基本1年に1記事。特に思い出深いものがあったら、別に記事を起こしていく予定でいます。今回は1994年。私が社会に出て1年目の年です。

1.「同級生が多くいる赤崎クの試合がある」のを知るまで。

  1993年、私が最後の高校野球の試合。

 0対2で迎えた9回2アウトからの打席を全校応援の背に受けなんとかフォアボールをもぎ取ったが後続が続かず、2塁やや外野よりでセンター横のスコアボードを見ながら思ったことは「これだけ熱い野球に関わることはもうないだろう」。その感慨もあって、セカンドベース上からしばし動けなかった。一学年上の先輩が実業団チームに入っていたこともあり、そうでなくても社会人野球という存在は知っていたが、自分にとっては遠い世界と考えていた。

 この後の野球好きの発露はどこかの草野球でしていくもんだなと、そういう風に思いながら高校卒業までの日々を過ごし、明けて1994年、私は北上市に就職を果たす。ガソリンスタンドに就いたが、車の事など何も分からない。はっきり言って手探りの日々だった。現在、少しばかり車の知識を身につけているのはガソリンスタンド時代の経験があったから。

 働き始めてから約2ヶ月、職場近くのコンビニで勝った毎日新聞に目を通したら、ある記事が。この年から始まった大槌ロータリークラブ三陸沿岸社会人野球クラブ大会(〜2011年以降開催不可能)の記事。赤崎野球クラブのテーブルスコアに目を移すと知っている選手が何人も出場していた。そして職場にあった新聞にも「都市対抗野球県予選は6月開幕」という記事が載っていた。組み合わせ表を見たら赤崎野球クラブは一度勝てば、日曜日になる6月5日に盛岡市営球場で試合、と。隣の金ヶ崎には進学した友人が数人いたが北上では友人と呼べる人が住んでなく、はっきり言えば休みの日は暇。

 「よしそうならこの赤崎野球クラブというのを見に行ってみるか」

 当時車の免許がなかった私は東北本線とバスを乗り継いで盛岡市営球場へ向かった。

2.同級生4人が奮闘の末、サヨナラ勝ち−見つけた「続きの場」。

f:id:b-itoh1975:20181122115612j:plain

 クラブ予選一回戦を10−6でオール不来方に勝っていた赤崎クは、この日3年前にできたばかりという平泉クラブ(01年活動休止)と対戦していた。グランド上には同級生が4人。ピッチャーの田中和友君、キャッチャーの山口友行君、一塁手の泉邦幸君、ライトに佐藤琢哉君。 試合は序盤に3点食らっていた赤崎クが、二、四、六回に1点ずつを返し、3−3の同点に追いついていた。

 野球どころ大船渡のクラブチームではあったが、他にも手強いところはたくさんいると感じさせられたなか、ふと声をかけられた。赤崎ク部長の吉田勝さん。どうも元気だけが取り柄の私の存在を覚えていてくれたようで。現在北上に住んでいることなどを報告して、吉田さんたち後援者と共に試合を見ることに。

f:id:b-itoh1975:20181122115854j:plain

→大体この角度で見ていました。

 後半は特にもつれる展開に。投手は田中君から、高校時代東北大会を進出している長身右投手菅原常元さんがリリーフしたが、勢いに乗る平泉打線を完全に止めきれない。しかし赤崎打線も熊井勝幸さんや吉田忠彦さん、同級生の山口友行君の長打で奪い返しながら進む展開。九回表にも同点に追いつかれてしまったが、その裏に泉君が三塁打を放つと、山口友行君の打順時に相手エラーであっけなくホームインとなりサヨナラ勝ち。県本予選進出戦へと進出した。

◆1994年6月5日 盛岡市営球場

  都市対抗野球岩手クラブ予選2回戦

平泉クラブ 5=300000101 千葉和、岩淵和−小野寺

赤崎野球ク 6=010101021 田中、菅原常−山口友

 試合後同級生あるいは歳の近い選手たちと挨拶をし、卒業後それぞれに頑張っている様子を少し話語りした後、吉田勝さんが本部からパンフレットを一つ持ってきてくれた。「今日よく来たな。お礼にこのパンフレットやっからす」と一つの冊子を頂いた。

 自分がすごいと思った選手たちが集まっていた…言ってしまえば気仙野球のオールスター。それらがまだ知らぬ強敵を相手に戦いを挑む。当該試合の接線もさることながらもらったパンフレットをパラパラと見て硬式社会人チームも色々な個性の集まったチームが集まっているんだなというのを知った。高校野球とは違った新たな野球がそこにある。「生きる糧」に社会人野球が入った瞬間だった。

f:id:b-itoh1975:20181122120042j:plain

→大会パンフと、94年予選の組み合わせ。

3.赤崎野球クは飛躍の一年/岩手社会人野球の結果。

 すでにシーズンが始まっているから選手登録はできないと思い、職場も月曜日から土曜日まできっちり働き詰めという状況で、社会人野球に向かう体力余力は残らず、気になる様子は社会人野球を見るきっかけになった毎日新聞を通じて情報を得るのみとなった。赤崎クは翌日の雫石クラブとの試合、序盤に攻勢を許したものの、四回に木下清吾さんのホームランから反撃をはじめ、最後は同級生で打順を三番に上げた泉邦幸君がサヨナラヒットを放ち、84年に硬式野球に転換してから初めて県本予選大会進出。11日後に行われた本予選一回戦では、水沢駒形倶楽部に0−7とコールド敗戦。磯谷幸喜さんがツーベースを放ちましたがその一本のみで敗れ去ってしまいました。

 当時はまだ社会人野球=都市対抗という概念があったせいで、他の大会まで目が行き届きませんでしたが、赤崎クは参加して約10年培ってきた力を発揮し始め、クラブ選手権では久慈クラブ(11−9)オール江刺(9−2)を破り、新日鐵釜石など企業出身の選手が多く、前年全国大会進出の釜石野球団に1−10で敗れたがベスト4進出。また前述の大槌ロータリークラブ三陸沿岸クラブ野球大会では遠野クを破って決勝に進出。釜石野球団と5−7と競り合い準優勝。毎日杯秋季大会もクラブの部で遠野クに6−5、平泉クに10−0と勝って準決勝に進出。2年前に全国優勝を経験した一関三星倶に1−3と渡り合った。この年クラブチームで目立ったのは2年連続で西武球場に進出した釜石野球団だったが、赤崎クもクラブの大会ベスト4を2回、地域ブロック大会準優勝と存在感を強く示し始める1年となった。

f:id:b-itoh1975:20181202062058j:plain

2016年撮影の西武第三球場。釜石野球団はフジウンノクラブ(静岡)に10-12で敗れました。

 岩手県全体の部分で話せば、都市対抗野球予選では全国代表権争いには残念ながら絡めず、日本選手権東北予選では岩手銀行、宮城建設が代表決定戦に進んだが、ともにNTT東北(現東北マークス)、ヨークベニマル(99年廃部)の序盤からの攻勢に追いやられ、前年本大会に出場しながら今年は冷害の影響で休部したJA岩手経済連に続く岩手連続出場はならなかった。

 この年社会人野球に関わったのはたったの1日、赤崎野球ク対平泉クの試合だけ。自分自身の野球は職場の近くにあった勤労者ホームの野球部に加わって数ヶ月活動したのみ―しかも大会は雨天中止―。社会人としてもなんだかんだ雌伏を経ながら、また一方では社会活動にも身を置き始め、年末に慣れぬ雪道で骨折をしたり、業務拡張のための新店舗のメンバーに選ばれたりしながら1994年という年は過ぎていった。それまでの学生生活と違った生活リズムを作るのに必死だったから、社会人野球という考えまでは頭が至らなかったが、それを意識するようになり「よし俺も社会人野球チームに入ろう」と行動を起こしたのは翌年の4月のことになります。

 この時に社会人野球をやるという選択していなかったらどういう人生を歩んでいたんでしょうか。そういう意味では本当に貴重な盛岡市営球場での一日でした。

下記ランキングに参加しています。にほんブログ村 野球ブログ 社会人野球へ
にほんブログ村