MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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キャプテン連載再開―私が経験した「甲子園出場校」との対戦。

 改めて今晩は。拙稿の記述では安倍政権のやり方を凝縮させた「森友学園国有地案件」について触れてきました。これは触れ続けて「何をしても“無敵”」の安倍政権を何としても止めないと、今までのが生ぬるい暴走を起こしかねません。しかし、ちと頭落ち着かせないとしんどいのも事実です。

 Facebookのタイムラインを眺めていたら、ちばあきおさんの名作「キャプテン」が、コージィ城倉さんの作画で書かれるとの情報を目にしました。かつては飛び抜けた才能を持つ者を中心に画かれることの多かった野球漫画に「群衆劇」の観点をもたらした一作。キャプテンは中学校を舞台に4学年、続編の「プレイボール」は中学編初代主人公の谷口タカオが高校入学後、谷口3年初期までが画かれました。今回城倉「キャプテン」は、高校編の続きから書かれる、ということです。高校編の最終回は「甲子園出場校に大敗」。
 弱小校墨谷が谷口の加入で勝負の意義を見いだし成長を遂げた2年間。しかし、寸前に全国を経験した強豪に挑んだ練習試合は、ベストメンバーに切り替えられて以降大敗。そこで物語は終わり、作者のちばあきおさんも間もなくなくなられます。「もう後はないな」思った所にこの話。実写になったり、作成者が変わったりして何のかの言われることの多い創作業界。城倉さんはこれまで長年造形の深い野球漫画を世に出してきた方です。4月に雑誌連載開始、とのことで、どう取り組まれるか期待します。 

 以降は私の部分の話に行きます。

 社会人野球に入ってからはある程度の強豪と対戦経験を持ちますが、高校は私が3年の時から15年連続初戦敗退という野球部に在籍していましたので甲子園出場経験校と対戦するケースは同地区の大船渡、高田除けば夏の大会のくじ運任せになります。そんな中で対戦前後に甲子園に出たチームとの対戦経験を3度持っています。 

 選手時代に翌年甲子園出場の盛岡第四。 
 スタッフ時代に翌年甲子園出場の専修大北上。 
 完全なOBになってから春選抜に出た一関学院。 

 各々に触れていきます。

【93年・対盛岡第四】
 高校3年時、5月の大型連休時にFFJ大会(岩手県農業高校野球大会)が盛岡で行われ、私ら大船渡農野球部は初戦敗退。翌日に盛岡第四高校グラウンドで同校と対戦しました。そのときの印象は「ずいぶんイキイキとしてるなあ」。当時盛岡地区は盛岡一、盛岡商不来方が目立っていて、そこに盛岡中央、盛岡大付がチーム強化に乗り出していた状況。盛岡三、盛岡工といった甲子園経験校が苦戦する状況に陥る中、明るくキビキビとしたチーム色の盛四が伸長してきました。翻って大農。前年までの躍進担った上級生が卒業。エース中心に大崩れはしないチームカラーでしたが、パンチ力が足りず、その部分で勝ちきれなかった印象がありました。前年秋に5人退部し、残った選手は13人。私は背番号11、カズ選手と同じです(違

 で、試合結果ですか。 

 18-1で勝ちましたよ。 

 盛岡第四が。 

 ぐうの音も出ないとはこの事で。盛四は最後まで力抜かなかった。もうこれは笑うしかありません。私も正捕手の負傷を受けて7回からマスクかぶりましたが、2イニングで5許盗塁。まあ、普通の野球指導者なら私を捕手にすることはまずあり得ない(後日述)とはいえ…観客からの「中学生以下」という話はしっかり聞こえていまして。最後の打席も回らず、悔しさを残したまま試合を終えました。
 盛四はこの年の夏の大会から縦じまのユニフォームに新調。93年はこの年県ベスト4の花北商に初戦敗退しましたが、翌年は激戦勝ち抜き優勝。甲子園でも1勝をあげました。夏の大会では岩手公立校最後の出場チーム。苦さと共に思い出残ります。

 
⇒左写真は93年夏の大会で打席に立つ私伊東。背番号は11でした。右写真は以前の盛岡第四のユニフォーム。88年岩手日報より。

【96年・対専修大北上】
 次は随時スタッフとして関わっていた96年8月の練習試合・専修大北上戦です。専北は91年に甲子園に出場していましたが、以降はしばしば「番狂わせの主役」になることもあり、力を出しきれていないシーズンが続いていました。一方大農は、この年はじめから代わっていた監督と、3年生の尽力もあり資質を磨いた1、2年生10人が成長。前日は黒沢尻北に9回5点差を逆転サヨナラで勝つなど「大農史上最強チーム」の素地を作っている途中の専北戦。
 試合結果から話せば3-19。見事に木っ端微塵にされました。二度ほどビッグイニング(大量失点)作られましたか。それさえなければもう少し詰められたのですが…。天気もぐるぐる変わる中、4時間近くの大熱戦でした。
 大農はこの後2年間、“最強チーム”に相応しい個人成績は残しましたが、投手だけが整備しきれず、資質あった2人の投手は共に故障に苦しみました。うち一人は社会人野球(オール江刺)に進出しています。一方専北は翌年の夏、試合ごとに成長し最後は第一シード花巻東を破り甲子園に。本大会でも大阪履正社勝利。この後もNPB進出した畠山和洋、梶本勇介両選手などを中心に98年、00年と甲子園に出場する黄金時代を築きました。
 どうでもいい部分で。帯同していた私は「万一の時は出場可」という取り決めをしてもらっていましたが、ブルペンで後輩の投球を受け損ね額直撃。一番最初にダウンした情けない先輩として専北メンバーに笑われたとか…。バカだね俺。


⇒2006年にも甲子園に出た専大北上ですが、以降は県レベルでは大きな壁であるものの、全国に届いていません。17年からは元ドラゴンズ等NPBの捕手の概念を変えた中尾孝義さんが監督に就くとのことです。写真は2014年大会・犬飼投手。

【06年・対一関学院
 最後に2006年の夏の大会で対戦した一関学院戦について触れます。学院はこの年の春に行われたセンバツ大会に出場。その試合は0-1で敗れましたが、この試合で好投した左のエース・太田裕哉投手を中心に堅い守りが売りのチームでした。一方大農はといえば…2004年から2年間選手は9人ギリギリ。この年も助っ人入れて11人。08年の統合間近、というのもありましたが生徒数が少なく、それが=して部員数の少なさに結び付きました。尚、私は03年夏で手伝いから離れています。
 学院の地元一関で行われた試合。ただでさえの地力・経験の差に“アウェイ感”満載の球場。試合は一関学院の猛攻が続いた4回。過去4年無得点のチームが一気に2点叩き出した時は、その観客から暖かい声援が飛びました。結局終わってみれば2-21と凄まじい点差がついてしまいましたが、それでもまるきり手が出ないわけではなかった、足跡は残し、2点適時打を放った選手は翌年「大農最後のエース」として立派な立ち振舞いを見せてくれました。
 尚、春夏連続出場を狙った学院はベスト4で敗退。太田裕哉君は日産→日本製紙石巻を経てスワローズに。大農戦先発3回無失点の里舘君は矢巾硬式クで一時代を築く存在になりました(下記写真)。 
 なお、この記事はブログでも記しているので「」こちらご覧ください。



 以上3試合触れてきました。話は「キャプテン」連載再開→同シリーズ(いまの所)最終話が「甲子園出場校に大敗」から『自分の見た甲子園経験チームとの対戦』を記してきました。社会人野球でも対戦後日本一になったチームが二つある(※下記)ので「巡り合わせあるよな」思いながら書いてきました。

※TDK(05年都市対抗東北予選で6-6引分け。06年TDK全国優勝) 
 茨城ゴールデンゴールズ(12年東日本クラブカップで8-7で勝利。14年茨城GGクラブ選手権優勝) 
 両チームとも変革期で苦しんでいた時の対戦でもあったことを記しておきます。

 何にでも言えることかと思いますが、ある一定レベルまではガーッと行くことができるけど、一旦壁に突き当たった後は「更なる上達の工夫」を細々と模索しないとわんないのですね。石垣積んで細かい所を埋めていく姿がイメージ。残念ながら、私が関わった大農野球部は「全国出場チーム」からは二歩三歩遅れをとった位置にいましたが、そんでもこういうチームと対戦した経験が、皆の以降の人生に何ぼでも糧になっていればいいな、と思うものです。 

 そして「キャプテン」と城倉さん。未完のまま終わった「墨谷高校野球部」。その時が再び動き出すことに。墨谷二中時代に谷口、丸井、イガラシらが見せた野球には学ばせてもいました。そして作者の城倉さんも多様な形の野球作品を手懸けた方。どういう物語紡いでくれるか期待し、今項を終わります。


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