MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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フェズント岩手廃部の報にあたり、9年の活動を振り返る。関わった皆様には感謝を申し上げます。

 今日はもうひとつ、23日に廃部が発表された社会人野球チーム・フェズント岩手に関して触れていきます。11月に総選挙モードに入ってからは目線が社会活動モードにロックオンされ、社会人野球に関しては目線が行かなくなっていました。で、はじめて記述しようと思ったら、フェズント廃部のニュース。
 フェズント岩手ができたのは05年。当時岩手社会人野球は00年にアイワ岩手、03年に宮城建設と太平洋セメント、更に04年にはJAいわてと有力チームが相次いで活動休止。残った企業チームはJR盛岡のみ。かつては「岩手王者が東北を制す」言われた時代もありましたが、他県企業チームに東北王者を明け渡す事態に。バッファローズブルーウェーブの合併など野球界全体がもがき苦しんでいた中で、当時提唱されていた「広域企業チーム」という形でチームを作ろうという動きが出てきました。約一年の準備期間をおいて表したその姿は「フェズント岩手」。
 野球界の激動の中登場したフェズント。東北に独立リーグを…という動きが頓挫した中で生まれた岩手21赤べこ野球軍団と共に、岩手の野球に明るい材料をもたらしてくれました。その年の4月、春季岩手県知事大会で、オール不来方に勝利、04、05年に都市対抗県予選を2連覇し、TDKにも引き分けと絶頂期の赤崎野球クはこの試合は勝って「先輩」の意地は見せましたが、フェズントは程なく県のトップレベルで争うように。赤べこのセンセーショナルな強さの影に隠れましたが、じわじわと力をつけ、東北の戦いでもあと一歩、二歩壁越えれば、という所まで来ました。
 豊田、小野寺、坂本各選手の右3枚、志田、柿澤各選手の左2枚投手陣揃えた08年チームが一番最強でしたでしょうか。しかし、壁を乗り越えられないまま、10年あたりには創立時メンバーが卒業。代わる選手の補強もままならなくなったようです。やはり報道で言われる通りスポンサーの確保、活動費捻出は大変だったのかな、と。
 メンバー表を見ると部員数が20人に満たず、DHをとらずに試合に臨んだ年もありました。今だから話しますが、10年代に入ってからはフェズントの苦境を耳にする機会も多くありました。そんでも、グラウンドに立てば「グラウンド外のことは知らん」とばかりに奮闘する姿も目にしました。
 10年代で目覚ましい活躍を見せたのは、13年の都市対抗。県予選準決勝では「ベンチには選手登録もしていた50代の部長と助監督だけ」しか残らない総力戦を制し東北大会に進出。東北大会でも最後までワイルドカード争いに食らいつくなど執念の戦いを演じました。鬼気迫る姿に戦慄を覚えたのを今でも覚えてます。
 去年は都市対抗で第3代表決定戦敗退。宮崎、野崎両投手の加入で、「次世代の核」ができたんじゃないか…と期待しましたが、一方でいつも出る大会に出てこないことに不安を覚えました。それでも「シーズン入れば姿見るべ」思ったら、廃部の知らせ。真に青天の霹靂、です。
 「広域企業チーム」は、おそらくはJリーグチームを意識したものであったのでしょうが、それをゼロから作っていくことの難しさ―Jリーグチームはカテゴリあげていくと共にチームも作り上げていく。社会人野球ではいきなり高カテゴリ―を見ました。事実、この形体の新規加盟はありません。未登録が大多数とはいえ、社会人野球に関わり22年。いくつもチームの解散は見送ってきましたが、なれるものではありません。ただ、いま言えることは、野球続けるにせよ否にせよ、社会人野球の経験生かして「良ぐ」生きて、と。その上でグラウンドで会えたら幸いです。
 9年という時間ではありましたが、地盤沈下の危機にあった岩手県の社会人野球を強く支えていただき、ありがとうございました。フェズント岩手に関わった全ての皆様にお礼を申し上げ、この項を閉じさせていただきます。
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