MBC野球発信局-袖番号96 伊東勉のページ。

17年9月から移籍。こちらでは社会人野球など野球中心の記述をします。

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No208 接戦、そして夏2勝。~大農野球部のたたかい(1)+伊東の中学野球

 岩手県立大船渡農業高校。農芸科学科と食物科が一クラスずつの小さい高校(98年入学生までは農芸科学科は2クラスあったんですが)。そして、この高校の野球部は、90年以降ベンチ入り20人が埋まったのは2回しかない弱小野球部。
 だけども、その野球部に高校生活の居場所を求めた選手がいた。ある選手は意欲的に野球部に加わり、ある選手は、限られた部活の中から野球部を選び、ある選手は先生に引っ張られ…理由は様々あるけども、高校生活の一部を野球にかけた人たちの物語です。

1・どこかの馬鹿の中学野球-そして、進路を考える 大船渡中0-2大船渡一 黒潮B1-8リアスB
 この物語、実名で登場するのは、先生方を除けば私伊東勉、ただ一人。今は個人情報保護法という法律があるから、むやみやたらに個人名を出してモノを書くわけにいかない。ニックネームというのも考えたが、それとてわかる人には分かってしまう。なので、少し遠まわしの表現も多くなりますが、その部分ご了承いただければ、と思います。

 前章として、その私が大農野球部に進んだ理由につながる、私伊東の中学時代の野球部生活に触れていきます。小学3年のとき、大船渡高校の野球部が甲子園に出場したことに刺激を受け、野球をはじめたのはいいのですが、運動神経が切れていた私は、野球部で相手にしてもらえず、その内に部活をサボるようにもなってしまいました。そうなったら、レギュラーどころの話じゃありません。
 同級生には野球部は28人いましたが、6年生になったとき、一軍に残る20人と二軍に落ちる8人が区分けされました。私は二軍。しかも背番号は28(単一チーム参加の市内大会での背番号。二軍でも背番号は23だった)。選手としては最低の評価を受けたのでした。
 このときはまだ、選手として出られなければ、それ以外のところで役に立つ、という考えには至らず、こと小学生時代の野球部生活は不完全燃焼という結果になってしまいました。

 中学時代。入学式から何日もたたないうちに野球部に入っていました。他の部にいく選択肢もありましたが、父から「そんなんでいいのか。野球が好きなのに簡単にあきらめるんか」といわれ、それもそうだ、と野球部を選んだのでした。入部一番乗りだったので、いろいろな意味で目立ってしまいました。
 声の大きさで目立った事もあり、当時のコーチから与えられたポジションはコーチャーでした。そして、驚いた事に、その年のスポーツ少年団大会では一年なのに、一軍チームのベンチ入りを果たしたのでした。そして、当時の担任の先生から「裏方の役目とは何か」というのを教えられた事で、自分の進む道は決まりました。もし、ここでこの道に気づかなければ、私の野球人生は、中学で終わりを告げていたでしょう。

 2年次の中体連大会からは、常時ベンチ入り。グラウンド上でのポジションはキャッチャーになっていましたが、後に強豪高校にスカウトされた一学年下のキャッチャーがいては、私の出番なぞありません。しかし、チームのマネージャーとして、チームの裏方として充実した日々を過ごしていました。チームとしての結果が出ていなかったにせよ。

 最終学年の三年次。指導陣ががらりと変わり、夏の中体連大会に向けてがんばりましたが…その試合は、相手投手に打者21人ぴしゃりと抑えられる「完全試合」。0-2で敗れました。
 そして、二週間後のスポーツ少年団大会。大中が責任を持つ3つあるチームの内、私は3年控え主体チームの正捕手として、初めて「背番号2」をつけて捕手として出場しました。しかし、私は選手としての練習をほとんどしていません。相手チームに思うように走られて13許盗塁。試合は5回コールド1-8で敗れました。
 奪った一点は4番にすわった三番手投手のヒット→5番打者の犠打→6番・伊東の進塁打→7番打者のレフト前ヒット。1点をとる役にはたちましたが、自分のふがいなさで5回コードにしてしまい、出場できなかった3年生が2人。打席を回せなかった3年生も2人出してしまいました。今でも申し訳ないという思いが消えません。
 最後の納会。私は後輩との紅白試合で4番・捕手として送り出してもらいました。
 納会終了時、父母会からの表彰に驚きました。選手としては役に立たなかったけど、こういう形で自分のやった事を認めてもらった事が、この後の野球人生…いや、生き方そのものに影響を与えたのでした。

2・1988年 序盤の猛攻も…大船渡農6-8久慈高校
 そうして終わった中学時代の野球。いよいよ次の進路を考える季節になりました。月一回行われていたテストなどを見れば、地域の学校ならどこでも行ける水準にはいました。しかし、進学校に進んで勉強に追われるのばかりはごめんだ、という考えで地域一番の進学校は選択肢から外しました。様々悩んだ末、ひとつの道が見えてきました。
 それを決めたのは、私が3年の時の高校野球選手権大会の、大農の活躍ぶりでした。

 岩手県は、1987年まで、夏の大会も各地区毎に予選大会を行い、その後に岩手県大会を経て甲子園出場チームを決めるという形式をとっていました。大船渡農業は、大船渡高校と分離した1965年以降、1969年、1970年と在籍した投手の奮投で、夏の大会2勝をあげましたが、その後は1983年に生活学園(現盛岡大附高)に勝ったものの、地区予選の厚い壁を打ち砕くことができず、低迷が続きました。
 気仙地区は大船渡、大船渡工、高田、住田と、年によって違いはありますが、有望選手が先の4高校に集まってしまう部分がありまして、広田水産、大船渡農は、実習や、通学条件などで時間がとられることもあり思うように野球部を強くできないという事情があったのでした。

 1988年。花巻市営球場の完成に伴い、岩手県も全県トーナメントに切り替えました。大農野球部は一回戦、久慈高校とたたかう事になりました。大方の予想は久慈高校優位。しかし、大農は初回に久慈高校から6連打で一挙5点を奪い取りました。
 しかし、この大量点が初回だったこともあって、久慈高校は腹を吸えて反撃に出てきました。この年の大農のエースは右上手の本格派。しかし…久慈高校は中盤までに追いつき、そして7回、決勝のホームランがライトスタンドに突き刺さってしまいました。その後、大農は追加点を入れることができず2回以降は3安打。試合も6-8で敗退。初回の5点を有意に生かせず残念な結果に終わりました。

3・1989年 延長15回 あと2アウトで再試合が…大船渡農4-5盛岡北高
 翌年。右アンダースローの技巧派投手に、打率4割5本塁打(ここ19年の大農では個人最多本塁打です)の4番打者、一年秋から屋台骨を支えた正捕手は、過去19年で一、二を争う捕手でした。ついでに言えば、エース投手は生徒会長、4番打者は学校農業クラブ会長と、文武両道を実践していました。
 そのメンバーが相対したのは盛岡北高校。投手はその年の岩手大会で名前を挙げられるくらいの好投手でした。大農はその投手を相手に互角のたたかいを繰り広げました。エース投手はランナーを出しますが、致命傷は与えません。大農は5回に満塁から2連続スクイズと翌年主将になる選手の適時打で追いつき、試合は延長戦になりました。
 そして、夕闇も迫った延長15回。当時は延長は18回まですることができましたが、雫石球場はナイター施設がなく、協議の上、この回で打ち切り再試合という取り決めを交わしていました。
 その延長15回裏。ワンアウトはとったものの、ランナーを二、三塁に進めていました。そして、盛岡北が取った作戦はスクイズ!しかし大農バッテリーはうまく外し、走ってきたランナーを挟撃しました…

 が、野手が投げたボールは、受け手の野手の頭上をはるかに越えてしまいました。挟まれたランナーは、地獄から天国へ。喜び勇んでホームイン。試合はこれ以上ないぐらいの無情な結末に終わってしまいました。

4・1990年 気仙で最後まで残った「大農旋風」…大船渡農21-2岩手橘 大船渡農14-1大原商 大船渡農1-6浄法寺高
 この年の三年生は、エース兼主将以外は中学時代野球部未経験。88年夏の大会後に大量に入部。以降その主将を中心に、10人のメンバーは、1人の2年生とともに新チーム結成後、結果が思うように出ないものの、積極的にたたかい、90年の春、10人の一年生の加入で一気に活気付きました。納得いく勝利もできるようになり、迎えた夏の大会。大農野球部は、周辺の予想をはるかに上回る快進撃を見せたのでした。
 一回戦。花巻球場で岩手橘高校(現・江南義塾盛岡)と対戦した大農は、序盤に一イニング11点の大猛攻。その後も打線の勢いがとまらず4回に4点、5回に6点を奪い、投げては主将兼エースから一年生本格派投手へとつなぎ、相手主将に2点タイムリーを浴びたものの、5回コールド21-2で圧勝。5回コールド勝利は、今に至るまでこの年しかできなかったものという快挙を成し遂げました。

 この勢いはとまらず、続く大原商高(現・大東と統合)との二回戦でも、相手ののべ5投手から14点を奪取。エースはこの日も相手打線をセンターゴロの間の一点に抑え、この日も5回コールド14-1で圧勝。いよいよ次の試合に勝てば「大農過去最高成績」となる夏3勝目というたたかいは、岩手県営球場を舞台に、浄法寺高校相手に行われることになりました。

 だが、この年の浄法寺はメンバーも、指導者にも恵まれた「創部以来最強チーム」。先頭打者にかき回され、それをしっかり返される。大農打線も反撃を試みるが、ランナーは出すものの、浄法寺の堅いディフェンスの前に点を奪うことができない。気がついてみたら、スコアは0-5となってしまいました。
 大農は8回、途中でマウンドを降りた主将の意地の一撃で1点を返したものの…併殺打だけでも3つ食らっては、勝ち目がなかった。一年生投手の力投もあったが、結局1-6で敗れ、大農の夏3勝の夢は幻に消えてしまいました。
 しかし、この年は気仙勢のほかの高校も次々不覚を取り、この試合が行われた日、直前の試合で住田高校が敗れ、大農が「気仙勢最後の砦」となったのでした。この年の活躍…それが野球部未経験が多数というメンバー構成で、成し遂げた事にそのすごさを感じことができるでしょう。また、それをまとめた主将の年間防御率は、(90年以降)6点を割った三人の選手の内の一人。そのリーダーシップと共に称えられるべき主将でした。

 私は、この浄法寺との試合をテレビで見て、ひとつの決意を固めました。
 「俺は大農で野球をやる」
 どうせ高校に進むなら、それが意味あるものにしたい…とは、後からとってつけた理屈であって、このときは大農野球部の活躍に感動し、先のような思いを抱くに至ったのだった。それだけインパクトのあるたたかいをしてくれた1990年度のメンバーに、敬意を表し、深く感謝します。

 次回は、一勝をあげた後、シード校に挑んだ91、92年。そして、自分たちが中心になって臨んだ93年のたたかいを記していきます。


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